遊煩悩林

住職のつぶやき

わからんことをわかりやすく

2010年03月23日 | ブログ

最近、伊勢への観光客が祝祭日を中心に増えているようです。
いわれてみれば確かに車で走っていてもそう感じますし、伊勢神宮(内宮・外宮)周辺のご門徒の実感としてもあるようです。周辺の道路でも、以前はこんなところは混まなかったというところが混雑したり、地元の人の生活道路が不思議な抜道に利用されたりしているそうです。
「このスポットからこのスポットへの移動はこの道を使う」的なやけに親切なコメントが地元民の知らないところで出まわっているようです。
決まって「若者が多い」といいますから、紙面でなくネット情報でしょうか。
大手広告代理店がどうのというより、どこでだれが宣伝しているかといえば、ネット上での口コミが広がっているわけです。神宮は今や20代、30代の女性に人気の「パワースポット」だといいます。
そういえば、近年の仏像ブームも同世代の女性が中心でした。ネット世代にとっての魅力ってどんな感じなのでしょうか。
神宮のご神体は当然「秘体」ですし、やはり人気の仏像も「秘仏」が中心ですから、キーワードは「?」なんでしょう。「どんなパワーが秘められているのか」分からないところに魅力があるということでしょうか。

さて、私たちのご本尊は南無阿弥陀仏ですが、お姿にすれば、つまり立体的に仏像に表せば阿弥陀如来立像です。世界に何万もの真宗寺院がありますが、すべて同じご本尊で、それを「秘仏」にしているような寺は一ヶ寺たりともないといえましょう。
それは、何が真実であるのか、何を真実とするのかということを、誰の目にも、いつでも、どこでも堂々と表していることを意味しています。「真宗」というのですから「真(まこと)の宗(むね)」を隠さず表明しているわけです。
ただ「阿弥陀如来」は「ア+ミタ」の仏さまです。「ア」=否定語「無」+「ミタ」=「量る」の仏さまですから、「無量仏」です。私たちの知恵では量り知れない智慧のほとけさまなわけです。ひらたくいってしまえば「わからん」仏さまです。だけどただわからんだけでなくて、自分の頭で「わかろう」としていることが「無駄」であること、自力が無効であることを教えておってくださる「こと」をご本尊に据えているわけです。わからんことを隠さず表示し、わかろうとしている愚かさを知るのです。

さて、彼岸のお中日さま。
今年も名古屋から荒山信(恵林寺住職)先生にご足労を願ってお話をいただきました。
祝日と日曜日が重なり、伊勢インター付近の大渋滞に巻き込まれて、大変なメに遭っていただいたそうですが今年も内容満載のお話でした。

そんかとくか 人間のものさし
うそかまことか佛さまのものさし

相田みつおさんのことばです。荒山先生が彼岸会で紹介されました。
「仏教は難しい」とよく聞きますが、そもそも「損か得か」だけで生きているような私たちが、「うそかまことか」の話を聞いているのだから「難しい」し「わからない」のは当然だ、といわれました。
「損か得か」でしか聞くことができない耳に、「うそかまことか」の話は異質でしかないのです、と。

さまざまなところに講演に出向かれる荒山先生ですが、近年「誰にでもわかるように・・・」「できるだけわかりやすく・・・」「平易な言葉で・・・」という要望がますます強くなってきたと、控え室でおっしゃっておられました。そのことをふまえての相田みつおさんの引用でした。

では、どうすれば「わかりやすい」のか。

仏教を損得の話に転換するか、もしくは聞く耳の「質」を変化させるかのどちらかです。
どちらかの質的転換が果たされれば、いわゆる「わかりやすく」なるのでしょう。
ただ、仏教を損得の話に置き換えた途端、それは仏教ではなくなってしまいます。「ウソ」になってしまうわけですから、どうしてもこちら側の「聞く耳」の質的転換が求められるわけです。
ですから「わかりやすく」という注文は、極端にいえばウソを言えといっているようなことにもなりかねませんし、それは本来、話者への注文ではなく、話者から聴者に対して向けられているものだと思いました。
「できるだけわかりやすくしたいので、損得の耳ではなく真偽の耳で聞いてください」という注文です。
ですが、現場でそれを話者本人が伝えるのではなく、主催する側が事前に伝えるべきことなんだと反省をさせられました。
仏教を聞くときの態度として「損得」でなく「真偽」の耳で聞くことを伝えるのが日常の僧侶の仕事なのだと思います。
ただ、「真偽」はほとけさまの「ものさし」なのですから、私のものさしが「真偽」を裁くものであるはずがありません。私の目も耳も口も頭もすべて損得の「ものさし」でしかないのです。
真偽は人間の裁量ではありません。どこまでも仏の裁量なのです。
人間、ましてや自分の裁量ほど「ウソ」なものはないのです。
私たちはどこまでも愚かさとともに、やはり自力の無効を知ることしかできないのです。

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アノヨはドノヨ

2010年03月19日 | ブログ

彼岸。彼の岸。

カノキシはジョウドなり。
コノキシはエドなり。

コノキシのなかにカノキシあり、カノキシのなかにコノキシあり。

彼の岸が浄土だというのは、此の岸が穢土であることを教えてくれているわけです。
浄土の教えは死後の世界を説くものではありませんが、私たちは亡き人の行方を受けとめていくときに「還浄」という言い方をします。「お浄土にお還りになった」といっています。お還りになるのは、他力、すなわち如来の本願力によるのですから、私たち僧侶が念力で送り出すのでも、遺族の供養によって送り届けるのでもありません。
ただ、人の死に遭って、親しんできた「姿」を送り出すことで、浄土にお還りになったとの出遇いがはじまっていくわけです。
ですから、やはりどこかで私たちは「送る」という行為が自分自身の行いとして寄り添っているという感覚や意識があります。
「死」が他人事と思っているときは「あの世」くらいで済んでいたものが、「あの世」は「どの世」?となってくるのが大切な人の死の現場でしょう。
「どの世」か。いろいろあります。
浄土とか。極楽とか。天国とか。冥土とか。地獄とか。黄泉の国とか。
ぜーんぶ一緒ではありません。違うから別々に表記されてきたわけです。
今月のお寺の掲示板に

亡き人を送る先が 私の行く先になる

と書きました。
亡き人から「私をどこに送った?」と問われるのが彼岸です。
それが見つからなければまた、私がどこに行くのか、その行き先も見つかりません。
いつまでも「アノヨ」「アノヨ」でしかありません。
「どの世」よ!というツッコミが聞こえればしめたもんです。

「ナムアミダブツ」とお応えして手を合わせましょう!
ご参詣をお待ちしています。

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取材

2010年03月18日 | ブログ

先週、三重教区坊守会の主催で「真宗門徒女性の集い」が開催されました。
「女性の集い」なので、坊守が数名の門徒女性を引き連れて行くことになっていたのですが・・・。
その数日前、本山企画室から電話があって、教区の通信員さんにこの「女性の集い」を取材してきてほしいということで、南勢会場となった高田本山の高田青少年会館に夫婦そろって行ってきました。

原稿を送りましたので、取材内容は近々(来月中・・・?)本山のウェブ上http://www.higashihonganji.jp/に公開されるはず・・・です。

写真は会場となった真宗高田派本山専修寺の御影堂(みえいどう)の破風です。深い緑の発色が明るく照らされていました。
宗祖の御遠忌を前にいち早く御修復を終えた御影堂。今年5月には御影堂平成大修理落成慶讃大法会が行われるそうです。
http://www.senjuji.or.jp/
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排除の法

2010年03月13日 | ブログ

2008年5月に台湾の法務部長(法相)に就任した王清峰は、死刑賛成が主流である社会にありながらその就任以来、死刑を執行していなかったそうです。
総統の馬英九が死刑制度の廃止を長期的に目指していることもあり、「死刑に犯罪抑止の効果はない。廃止は世界の潮流」という旨の文書を発表したところ、中日新聞(2010.3.13朝刊)によれば、事件の遺族や立法委員(国会議員)らによって辞任の要求が出されたということでした。
「王部長は『私が死刑囚の代わりに処刑されても、地獄に落ちても構わない』『廃止を訴えて辞任したら世界の笑いものになる』と突っぱねていた」といいます。
その王法務部長が辞任した、という記事でした。
日本の世間はどうなのでしょうか。
「犯罪抑止」という制度上の役割よりも、「刑罰」としてのニュアンスが強いのはあまり変わらないのでしょうか。
「遺族・被害者の感情を思うと・・・」ということがよくありますが、当事者でなければわかり得ない感情をマスコミがつくり、世論が支持するというのはどうか。
王部長が2年間、世論に対抗しながら執行をしなかったというところは支持しますが、「世界の笑い者になる」からというのではどうなのか。
ただ、日本の場合「世界の潮流」には目を凝らす必要があるのではないでしょうか。

さて、秋葉原の無差別殺傷事件の被告から謝罪の手紙を受け取った被害者が二通目の返事を書いたといいます。
倒れた人を助けようとして背中をさされたという被害者ですが、被告の謝罪は偽りではないとの確信させるものだったそうです(中日新聞2010.3.11夕刊)
「殺」に対して「刑」や「罰」と称した「殺」で排除することを古くから黙認してきた私たちです。
当事者でない者がしっかりと彼らのやりとりを知り、黙って認めてきた排除の法について一人ひとりが考え、意見を持っていかなければなければならないと思います。

そのために、私たちには聞かなければならない「法」があります。

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自殺の対策化

2010年03月07日 | ブログ

超宗派の僧侶で構成される「自殺対策に取り組む僧侶の会」http://homepage3.nifty.com/bouzsanga/の代表で、東京にある浄土真宗本願寺派安楽寺の住職でもある藤澤克己さんにお話を聞きました。
真宗大谷派三重教区の社会教化小委員会が主催して開かれた「自死(自殺)問題に学ぶ」という公開講座で、その趣旨文には「真宗・仏教では『自死(自殺)』ということをどのように考えたらよいのでしょうか。どのように遺族や相談者に寄り添っていけばよいのでしょうか」とありますから、真宗仏教の視点で遺族や相談者にどう「対処」していけばいいのかという、いわゆる「対策」的な趣旨に感じられましたが、自殺者遺族の一人として、そして遺族に向き合う僧侶の一人としての2つの立場でお話を聞かせていただきました。
まず「自死」と「自殺」ということばについて、基本的にこの「僧侶の会」では「自死」という言葉を使いたいといいます。「会」の名称が「自殺」になっているのは、ウェブの検索で見つけやすいためにという配慮だということですが、もとは「会」に関った自殺者の遺族の声に「自殺者遺族」でなく「自死者遺族」と呼称して欲しいという要望があったということでした。
ですが、私は個人的には一人の自殺者遺族として、やはり「自死」よりも「自殺」という表現がしっくりきています。
「自死」には「自ら死を選ぶ」ような「積極的なニュアンス」が含まれているような漠然としたイメージがあるからです。
それは、自分がじぶんのいのちを「所有」しているところの発想に立脚しているような感じがありはしないでしょうか。
「自殺」には「自分を殺す」ということの「罪」を含んだ語としてあると思います。
「いのちが私を生きている」という観点からすれば、やはりそれを自らの手で奪っていく行為として「殺しめる」、「私のいのちを殺す」のですからやはり「殺」なんだと思います。「仏性を断つ」という意味からすれば、やはりそれは仏的な意味での「罪」ではないかと思うのです。
当然、遺族としては自死を選ばざるを得ないような状況に追いつめられて・・・という感情もあり得ますから、自殺者の罪を問うていくような視点は受付けたくないというのも解らなくはありません。
「罪悪深重の凡夫」をすべて救うのが仏教であれば、やはり「私を生きているいのち」を絶やしていく行為としての罪は罪できっちり断罪していく視点があるのではないかと思うのです。死人にむち打つようなことに聞こえるかもしれませんが、他を殺すことが罪としてあるならば、自殺の罪業性を宗教的に押さえておくべきでないかと思います。
ただ、自らの生命を絶っていく人間の個人的な責任を問いたいのではありません。そこに向かわしめるすべてのはたらきが持っている「罪」をはっきりさせたいのです。

罪悪として、悪いことだとは思っていながら自らを殺しめるような因縁がますますうごめいているのが現代社会です。罪は罪として認める視点がなければ、ただでさえ死んだら千の風になったり、お星さまになったり、おくりびとのごとく、「死」が過度に衛生的に美化される世間にあって「自死」が肯定されていくことを容認することにはなりはしないかとの勝手な憂いがあるわけです。「私を生きているいのち」を絶やしていくことを容認することになれば、「他を生きているいのち」を奪うことも認めなくてはならないことになりはしないでしょうか。それこそ「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」の拡大解釈でないかと。
自殺者の遺族を取り囲む環境にはさまざまな誤解や偏見に満ちていることを思えば、確かに僧侶の側としてご遺族に向き合うときには、それなりの配慮や対応が求められてしかるべきだと思います。ですが、遺族への配慮として「自殺」の罪業性が、「自死」という呼び方で肯定されてしまうことがあってはならないと思うのです。これは一人の僧侶としても、ひとりの遺族としてもです。そういった自殺者遺族への「配慮」がなされ「対策」的に扱われていくとすれば違和感を感じずにはおれません。同情的な曖昧な「癒し」では救われることはないのです。
「自殺者も遺族もともに救われる」という大前提のもとで、自殺は否定される行為であるべきだと私は思います。
もちろんそこには「否定されるべきことではあるけれども・・・」という現実があるわけです。
考えてみれば、いずれのいのちを奪うこともなかなか自分のこととして考えられないのが私という生き物なようです。
すでにあらゆるいのちを奪い奪われていくことを他人事にして黙認してきたという結果が毎年3万人という自殺者の数になっているわけです。
2万人台であった平成9年までのこの課題に対する関心の低さに対して、今の「自殺対策基本法」というのはどうなのか。
講師の言葉を借りていえば、交通事故の死亡者が年間5000人。その6倍もの人が自死をしている。つまり交通事故に遭うよりも6倍も高い確率で私が自殺する可能性があるというのです。
問わされるのは、十数年も連続して年間の自殺者が3万人を超えているからこの課題に取り組むのか、ということです。そもそも本来性の回復に根ざした寺の活動がそのままこの課題に直結しているはずではなかったのか。それは自殺者が年間2万人であっても3万人であっても、です。3万人を超えたから「対策が必要」であってはならないわけです。
年間に一人でも自らを死なしめる人があれば、そこに関心を寄せなければならないのでしょう。だけどそこに関心を寄せることができないところの問題を一人ひとりが確かめていく場が機能していないのではないかというのが、僧侶の反省としてあるのでしょう。
「無関心」が一番恐い、数字や確率はとにかく、まず関心を持ってもらうことだといいます。

いわゆる法的な「自殺対策」という課題は、自殺させないことを目的にするものですが、「僧侶の会」は「ただ自殺者が減ればいいのではない」といいます。「安心して悩むことのできる社会」の実現が自殺者の減少に資することであることを信ずるところの活動です。それは「僧侶にでもできること」と「僧侶にしかできないこと」という2つの視点からの自死者追悼法要http://homepage3.nifty.com/bouzsanga/ceremony.htmlであり、偏見に怯える遺族との「いのちの集い」http://homepage3.nifty.com/bouzsanga/share.htmlという場であり、「お坊さんとの往復書簡」http://homepage3.nifty.com/bouzsanga/letters.htmlという手紙相談の実践です。宗派を超えた僧侶らがそれぞれの勤めの傍らで行っているのです。
藤澤氏は都の「自殺防止センター」で深夜から早朝にかけての電話相談の業務を同時に行っているといいます。
「死ぬのを止めるのではない!」「生きるための支援だ!」という精神が、彼らの活動を支えています。
「僧侶の会」のメンバーのように、現場に飛び込むこともなく理屈ばかり大船の上でこねていてもいるのが私でありますから、活動に対して批判できるような分限はありません。今回、ご講師に指摘されるとおり、溺れている者を遠くから眺めているだけの私ですが、一人の住職として、苦悩を抱えた人が一人でも話をしに来られるような寺でありたいと思うのであれば、そんな苦しみや悩みを少なくとも「聞くことができる」人間がそこに育たなくてはならないことを知らされます。
同時に、遺族の一人でありながら、それを抑圧し、隠蔽しようとしている自分自身に改めて気づかされるのと同時に、この問題に向き合っていくことが「私」をお育ていただく大切な事柄として、大きな関心事として提起された実践的僧侶との出遇いでした。

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