遊煩悩林

住職のつぶやき

無量光明土である

2018年09月22日 | ブログ

阿弥陀の仏国土は、いつか、どこかに阿弥陀の国として閉じられてあるところではない。

諸仏の国土・諸智土・無量光明土として十方に開かれている世界である。

荒山淳

真宗大谷派名古屋教区教化センター『センタージャーナル』第103号
http://www.ohigashi.net/oshie/kyokacenter/center/

 

個人的にこの「無量光明土」という表現が好きなのです。

常照寺ですから。光明山ですから。

 

「ひがん」って何なん?と今日も問われ・・・。

「無量光明土である」と。

「意味がわからんだらお寺に参ってみぃ」

と、いつか言ってみたい。

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終わらない宿題

2018年09月02日 | ブログ

先月末、宿題も片付かないまま中学生の長男は早々に新学期がスタートし、早々に宿題を終わらせた小学生の娘たちがジグソーパズルに興じています。

私も宿題をせねばと、お盆の前に課された課題に向き合うべく伊勢進富座http://shintomiza.whitesnow.jpへ。

三上智恵・大矢英代監督

「沖縄スパイ戦史」

http://www.spy-senshi.com

1945年3月26日にはじまったいわゆる「沖縄戦」は、6月23日の牛島司令官の自決によって指揮系統が消滅して終わったとされています。

この映画では、それを「表の戦争」と呼び、それ以降も続いたゲリラ戦やスパイ戦などの「裏の戦争」を追っています。

とくに地元住民を徴用した「少年ゲリラ兵部隊」、作戦遂行の邪魔になる住民を排除するための「強制移住とマラリア地獄」、住民を疑い殺害する「スパイリストと住民虐殺」という3つの「秘密作戦」に焦点があてられています。

軍隊は自国民を守るのではなく、住民を利用し、排除し、殺し合わせるという戦闘の方針が、いまの「自衛隊法」の中に潜んでいることに言及しています。

そして、いま南西諸島で進むミサイル基地の配備と自衛隊の増強について、やはり「国防」は、国民を守ることではない、と。

過去の問題ではない、今からの問題。

沖縄や南西諸島の問題ではない、ヤマトンチュ・本土の問題。

誰かの問題ではない、私の問題だと教えられ、宿題は片付くことはありません。

 

そして、お盆明けに「戦争」という課題でもうひとつ宿題をいただきました。

『元来宗教家ハ戦争ニ反対スベキモノデアル 反戦僧侶・植木徹誠の不退不転』(風媒社)

著者の大東仁さんから届きました。

ご執筆内容の「裏(付け)」をとるために取材をいただき、ご丁寧にご記名までいただいております。

息子が苦闘している「読書感想文」ではありませんが、いま、私の問題、人生の宿題です。

 

https://www.amazon.co.jp/元来宗教家ハ戦争ニ反対スベキモノデアル/dp/4833105772

 

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ボラード病

2018年09月01日 | ブログ

福島のこどもたちを三重へプロジェクト2018の報告書作成にとりかかっています。

それに併せて、プロジェクト実施前に行われた「スタッフ学習会」の講義録を発行しようと校正作業をすすめています。

スタッフ学習会は、原発事故によって避難を余儀なくされた浪江町のお寺の坊守さまからお話をいただきました。

当日は出席できずに、直接お話を伺うことができなかったのですが、講義録の作成というお仕事をいただいたおかげで、役得というのか、貴重な言葉に出遇わさせていただいています。

講義録の発行は今しばらくお時間をいただくことになりますが、そのお話の中で何冊かの本が紹介されていたことについて。

原発事故の自主避難者に向けられる視線について言及されたお話の中で、一冊の本をとりあげて、

どこかの街。この街にはとても大きな災害があって、人々は一旦この街を離れたんですが戻ってきた。その街で何事もなかったように暮らそうとしているという話。だけどその街の人たちの様子がおかしいんです。最後にとてもすごい「あれ」なので、ネタバレなのでこれ以上は言えませんが、とくに今そうなんです。自主避難の方とかを何か白い目で見ると。でも、自主避難される方というのは、 私は、何かそこに大事なことを問いかけてくる、そういう存在だと思います。ですから、これ、ほんとうにそれでいいのかって、その言葉を消してしまったらこの社会は成り立たない、いけないんじゃないかなと思うような。人々の声を殺していくことの恐ろしさを描いている本です。

と、紹介されました。

最後にとてもすごい「あれ」なので、ネタバレなのでこれ以上は言えませんが・・・と。

これは読まないと、ということで早速購入して一気に読みました。しかも2度。

吉村萬壱の『ボラード病』という本です。

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167907891

内容についてのコメントは避けますが、プロジェクトに関わっていく上だけじゃなくて、今この社会を生きていく上で非常に大きな問題をいただいたように思います。

そこから着想を得て、

聞法は答えを聞くことではない

何が問題なのか

問いを聞くのだ

と9月のお寺の掲示板に記しました。

ちょうど今日は、あの震災から95年だそうです。次から次へとやってくる災害のなかで、「あの震災」といっても「どの震災」かもはや分からなくなってきた愚かな自覚がありますが、「防災の日」に際して中日新聞の今朝の朝刊に

一日一日、無事で過ぎれば過ぎるほど、確実に来る日が近づいているのだと肝に銘じてほしい

名古屋大学 木股文昭 教授

との言葉が掲載されていました。

これは来たる大地震に対する備えについての言葉ですが、「聞法する」という視点でいえば、毎日仏壇に向かって朝「今日も一日無事で過ごせますように」といって手を合わせ、夜寝る前に「おかげさまで今日も一日無事に過ごせました。明日も・・・」が仏法を聞くという姿勢ではないと感じます。

今日一日を健康で過ごすところには、かならず明日の老病死が担保されている。もっと言うと今日一日さえ何の保証もない。

オギャアと生まれた瞬間から、死にゆく命を生きていかなくてはならない苦しみがスタートしている。

客観的にはそうですが、モノゴコロというか、自分が生きていることを認識したときにはじめて主体的にその問題がはじまっているはずです。

「自分は生きている」という感覚はどこから得られるか。それは唯一「死者」によってです。

死者に出会うことなしには生きているということを真に実感することはできない。彼岸を勤めるというのはそのことを内包しているのだと思います。

お彼岸の準備を始めていますが、その前に大きな台風が迫ってきているといいます。準備、準備に追われて今を生きるのが難しい世です。

「その時」に備えて何が問題なのか、雑音・騒音の中でその問いを明らかに聞いていかなくてはならぬことを思います。 

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