遊煩悩林

住職のつぶやき

つながるつながる

2017年04月22日 | ブログ

「つながるつながる」といっても、wifiのことでも携帯電話の宣伝でもありません。

先週15日、松阪で開催された映画『太陽の蓋』http://taiyounofuta.com上映会に、「福島のこどもたちを三重へプロジェクト」http://booses.netのブースを設置させていただき、募金のほかチャリティグッズのご支援をいただきました。

そのつながりで「いせ映画を観る会」主催の上映会『標的の島 風かたか』http://hyotekinoshima.comを昨日、伊勢の進富座http://shintomiza.whitesnow.jpに観に行ってきました。

映画館に着くなり声をかけてくれたのは『太陽の蓋』上映会を主催された方。つながるつながる感を感じつつ。

「風かたか」は「風よけ」「防波堤」といった意味だそう。

アメリカの「エアシーバトル構想」といわれる東アジア戦略上、その「防波堤」となる日本列島と南西の島々。

その島々のミサイル基地建設などの最前線でそれを阻止しようと闘う人々を描いたドキュメンタリー。

過去から今まで紡がれてきた伝統や文化、これから未来への「いのち」を守ろうとする人々を、いのちの「防波堤」、いのちの「風よけ」とするコントラストが印象的でした。

上映後に込み上げてくるものがありました。

「いのち」の防波堤と、「国家」の防波堤。現場における地域の住民をはじめとする人々に対する機動隊の描き方に感情がかき立てられ、否が応にも「お前はどっちにいるのか」という問いを痛切に投げかけられました。

ただ「どっち」は対立構造の格好の餌食だと思った。

そういえば19日に姫路別院で開かれた「武内了温師50回忌の集い」で聞いた「差別を栄養源に成り立っている日本社会の構造」という提言とつながった。

だけど「どっちでもない」ということはないのだ、誰しも。

過去の戦争をとおして学んだ失敗を繰り返さないための「いのちの防波堤」として生きるのか、中国の太平洋進出を防ぐという役割を担わされた国家の物理的な防波堤として生きるのかという生き方の問題。

戦後を生きたいのか。戦前・戦中を生きたいのか。

黙って他の犠牲を見て見ぬ振りをするのか。見て見ぬ振りできないことを知らせてくれるドキュメントでした。

 

ところで『太陽の蓋』上映会では、常照寺のご門徒のお孫さんともつながりました。

劇団員の彼は今日と明日、伊勢で開催される演劇に出演する。

「東京ハンバーグ」の『KUDAN』という作品です。http://tokyohamburg.com/next/

被爆した牛たちを描いたお芝居、「原発事故を動物目線で描いたファンタジー」という。

「どう生きるか」という生き方を課題にするとき、いま原発事故を経験し、核兵器が使われたはずのこの国の現状を把握しておかなくてはならない。

それは「じぶん」が、どんな場所に生きるのかという前提条件だから。

それはときに海外からの目線であったり、ときに動物からの目線であったり、そして人間を超えた如来の目線であったり。

その視線から相対化されたじぶんと、じぶんが存在するフィールドを確かめなくては「どう生きるか」は見えてこないのかと。

 

「お坊さんって暇なんやな」という声なき声を聞きながら・・・つながるよろこびをむねに行ってきまーす。

菓子博http://www.kashihaku-mie.jpもいいけど、お時間つくって是非お芝居にも。

 

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出会いと別れ

2017年04月01日 | ブログ

先月の彼岸、終業式を終えた息子が目に涙を浮かべながら帰ってきた。

よっぽどひどい通信簿の内容だったのか?いやそんなことでクヨクヨする人ではない。

心あたりはあった。

担任こそこの一年だけでしたが、入学以来ずっと息子を見続けてくださった先生が転任される。

朝、ちゃんとお別れして来いと送り出したばかりだ。

世話になった先生とのお別れに涙する人間に息子が育った。通信簿の評価はもうどうでもいい。

 

そんな別れと出会いの季節、お寺の掲示板に

会うは別れの始め

別れは会うの始め

と書いてみました。

仏教は「会者定離」の道理を説きますから、会うは別れの始め。

で、この「別れは会うの始め」について。

これをどう受けとめるか。

息子にとっては、もしかすると新しい先生との出会いを果たしていかなければならないと読むのかもしれないし、進学や就職で故郷を離れる若者には後ろ髪を引かれる思い、カノジョにふられたカレシにとっては新しいカノジョとの出会いを期することばに聞こえるかもしれません。

ただ、お寺の掲示板に書してあるニュアンスから汲み取っていただけるならば、この「別れ」は「死別」をイメージする感覚が一番近いかな、と。

この世の無常をいう「会者定離」も習いなら、「倶会一処(ともにひとところにあう)」のも仏教です。

別れてふたたび出会っていく世界が保証されているのです。

「愛別離苦」、大好きな人と別れなければならないという四苦八苦の習いにおいては、この仏さまの保証は希望であり光なのでしょう。

ただ、四苦八苦には「怨憎会苦」の苦が説かれてあります。怨み憎しみ合う人と出会っていかなければならないこの世の苦しみに立たされると、またあいつに出会っていかなければならないのかという絶望にも聞こえることもあるのかもしれません。

いずれにしても、この世での別れを縁として「ひとところ」に出会いなおしをしていかなければならないのです。

愛とか憎しみの「此岸」の営みを超えて「彼岸」に出会いなおしていく。

出会いなおしの場が「浄土」。浄土は死後の世界ではない。いま愛憎を超えて出会いなおすことができる場を浄土といい、そのはたらきを「なんまんだぶ」というのだろう。

息子の純粋な涙から飛躍して感じたこと。

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