遊煩悩林

住職のつぶやき

鹿の十

2018年11月04日 | ブログ

 

事後のご報告になってしまいました。

先月末に開催された「「是旃陀羅」問題に関する教区学習会」におきまして、趣旨のご説明方々問題のご提起を兼ねてひとことご挨拶をさせていただいてきました。

内容は、ほぼご案内の文章のとおりですが、宗派の教学委員会の報告にあった言葉を付させていただきました。

教団と教学への批判を受けながらも、根本的に変わり得てこなかったのは、私たち宗門にある者が真宗のいのちである同朋精神を喪失し、さらにはその喪失の事実にも無自覚であることに集約される

講義では「観無量寿経」の学びにおいて、「是旃陀羅」について、私たちが論議を避けるということがあるとすれば、それはすなわち「シカト」を意味するのだ、と。

この言葉を法事等で読経されることに「痛みを感じる」という方々の告発を無視しているといってもいい、という厳しいご指摘がありました。

「観無量寿経」が「差別経典」なのではなくて、「差別経典」に貶めてきたのは誰なのか。

そしていま問題は、経典や教団が問われているのではなくて経典から何を学ぼうとしているのか、学ぼうとしている「私」が問われているのだ、と。

ご門徒の「痛み」とその告発に応答し続けていくことの必要を聞かせていただき、回復すべき「同朋精神」について思いを巡らせました。

自覚が求められるのは、喪失の事実に無自覚な「私」です。

この視点を大事にしながら、継続的に取り組んでいかなくてはなりません。

 

「シカト」についてはじめて調べました。

花札の「鹿の十(しかのとお)」の略だと。鹿が横を向いた絵柄を指して「そっぽを向く」「無視する」となったと。

いつまでも「鹿の十」、とぼけていては「自己」も「救い」もはっきりすることはない。

喪失した「同朋精神」とは応答、そして対話する姿勢でもあるのでしょう。

 

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恩をたずねる

2018年11月02日 | ブログ

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし

正像末和讃

真宗門徒においては言わずと知れた「恩徳讃」。

親鸞85歳の和讃といいます。

750余年の時を経て、私の「ものごころ」がついた頃にはすでに耳に馴染んでいた「うた」。

今月28日は親鸞聖人の祥月命日ですが、「親鸞聖人の祥月命日」という表現はあまり聞きません。

11月28日は「親鸞聖人の報恩講」。

これが伝統でしょう。

しかしながら、真宗教団連合が実施した「浄土真宗に関する実態把握調査」について、1月のつぶやきhttps://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/a95dd7b1ba3ffd1a503b0998e51a8064にも書きましたが、「報恩講」の認知がされていないことが統計的に示されています。

報恩講の精神とは何たるや。

いかに発信、お伝えするのか。しているのか。

昨年の11月、お寺の掲示板に「恩徳讃」の「骨を砕きても謝すべし」と記しました。

そして今年は「身を粉にしても報ずべし」と。

身を粉にして報ずる「如来大悲」、そして骨を砕きて謝す「師主知識」、いずれの「恩徳」も物心ついた頃からの歌の「フレーズ」に留めてしまってはいないだろうか。

今年も万難を排して恩をたずねて参りたいと思います。

「恩知らず」に生きている我が身です。

真宗本廟(東本願寺)報恩講 http://www.higashihonganji.or.jp/houonkou/

 

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