遊煩悩林

住職のつぶやき

面白味

2010年10月26日 | ブログ

病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ、生きていて何の面白味もない

正岡子規『病床六尺』明治35年7月26日

ご門徒の遺体を火葬場に送る車中、ラジオから流れるこのことばを耳にしました。
晩年である明治35年5月から連載された「病床六尺」と題した新聞記事の一節です。

病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れることはあるが、布団の外へ足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。5月5日

そんな病床にて、9月19日に没するまで127の随想を寄せたそうです。
124回目の連載に

人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身の上に来るとはちよつと想像せられぬ事である。9月13日

とあります。
父親が私に漏らした唯一の弱音を思い出しました。

死んだ方がマシというのは、こういう痛みのことをいうのだろう

私たちは「老人」から「老」を学び、「病人」から「病」を学び、「死人」から「死」を学んでいます。
全部他人事ではないのです。我が老、我が病、我が死を知らされるしかありません。
にもかかわらず、老人や病人や死人を慰めようとばかりしてはいないだろうかと問われてきます。
生老病死は何人に対しても必然で平等です。
「病気を楽しむということにならなければ、生きていて何の面白味もない」との子規のことばに、「生きる」ということの本質とは何だろうかと考えさせられます。

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長男検索

2010年10月23日 | ブログ

しばらくのご無沙汰でございました。?
奈良へ、名古屋へ、岐阜へと、ご縁のあるがままに出向いてきました。
?呑気なことばかりもいってられず、早々からお寺に積まれた来年のカレンダーの山をみながら、ご門徒あてに同封する来年版のお寺の新聞の作成にとりかからねば、という気がボチボチ湧いてきました。?
その構想を練りつつ、宗祖の御遠忌を控え、ご門徒の懇志で求めた教行信証の影印本について記事にしようと、そのイメージをgoogleで画像検索したところ・・・驚きの画像が!?
超個人的なサプライズですが、そこにはグラサンをかけた0歳の長男の顔が多くの画像とともにならんでいました。

「顕浄土真実教行証文類」google画像検索 http://www.google.co.jp/
(お時間に余裕のある方は探してみて下さい)

早速、妻に報告し大爆笑。
?んー。大きくなったもんだと改めて感心しつつ、googleの検索エンジンはどうなっているのか恐るべし・・・。
それにしても「教行信証」を検索して・・・もったいないことです。

ナムアミダブツ・・・

追伸

東本願寺発行の同朋新聞11月号が届きました。?
4面「現在を生きる」をレポートしていますので、お手元に届いた方はご一読いただければ幸いです。?
私的なことで恐縮なのですが、いつも私と妻を励まし、そして長男を可愛がってくれた方とそのご家族を取材しています。

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凡夫病

2010年10月08日 | ブログ

大阪大学名誉教授で西本願寺前教学研究所所長の大峯顕氏の仏教講演会が、浄土真宗十派で構成する真宗教団連合の三重県支部南勢ブロック主催で行なわれ、会場となった松阪の本願寺派善覚寺にお参りしてきました。
ご案内文には、著書から

現代では、自分はお浄土に生まれることは別に必要とは思っていない、仏になる必要もない、私は人で結構、という人が非常に多くなったわけですが、まさしく、その人間であるということはどういうことか、人間とは何かが、仏教の根本問題なのです。実は私たちは、仏に成ることがないと本当の私になれない、本当の人間になれないわけです。

という言葉が引用されていました。
「人に生まれて人に成る」という講題で、ご専攻の宗教哲学的見地から専門的なお話をいただくものかと覚悟していったのですが、90分の講演は終始爆笑の連続でありました。しかし、その中にも厳しくも大切な問題提起をいただきました。
そのひとつは「寺に参る人は減ったが、都会のビルで催される仏教講座は盛況だ」というご指摘です。
それは、寺のある田舎の人が、ただ都会に出て行ったというだけの話ではないでしょう。人は寺を求めるのではなく、仏教を求めているということなんだと受けとめました。
問われるのは「参詣が減った」と嘆く声があるとすれば、それは仏教を聞く人が減ったという嘆きでなくて、「寺の維持」を心配しているだけのことでないかということです。
「寺を維持する」といってもその内容です。何のために維持するのかといえば「人が本当の人間になる場」として仏教を学ぶことが求められるところですが、実際はご先祖さまが祀られている先祖代々の寺だから維持せねばならないとなっているんでないか、と。
とすれば「寺」、つまり先の心配をする僧侶も門徒もともに先祖供養を卒業しなくてはならないことを思うのです。
そこにしがみついているうちは参詣は減るしかないと思うのです。
ある専門家は、全国にある7万6000ヶ寺ある寺院は今後50年で6000ヶ寺にまで減少するとも言っています。
それを「そんなバカな!」と思う人は、やがて廃寺になっていくのを「これも時代の流れだ」なんていっているかもしれません。「もうその頃にワシらはおらん」といいますが、この世にはおらんでもどこに行くかだけはきちっと伝えていかなくてはなりません。
大峯氏の言葉を借りれば「現代人は死んで行方不明になる人が多い」といいます。
自分がどこに向かって生きているのか知らずに生きている、ということです。
自分がいったいどこからきて、どこに行くのか。そして自分はいったい誰なのか。それがわからんことを「凡夫病」だと表現されていました。「凡夫病」が自覚できればシメタもんなんでしょう。自らが凡夫であることは如来の智慧によって気づかされてくるのですから。
また「人が人であることを辞めてホトケになるのではない。『仏』になるということは『本当の人間』になるということだ」といいます。どこで「本当の人間」といえるかといえば、「如来に任せる」ということがあってのことだ、と。
浄土真宗は「信心」を要とすのですが、いくら「信じなさい!」といわれても人間の力(自力)では信心を得ることはない。その信心さえも如来の他力によっていただくのでありました。
仏教は「成仏」を説きます。「仏に成る」というのは大峯氏の言葉を借りれば「本当の私」「本当の人間」になるということです。そしてそれは如来の智慧をいただき、それに任せる自分です。
「成人式」という習慣がありますが、それを受けたから人なのか、ある一定の年齢に達すれば人といえるのか。
自力の限界を知る瞬間に、他力に任せざるを得ない自分を知るとすれば、まさにそのときに本当の人になるのだとすれば、おそらく死の直前まで、臨終を迎えるまで自力に執着するであろう私は、まさに死んで成仏することでようやく本当の私になるということです。
だとすれば「生きる」ということは、本当の私になるための智慧を聞き続けるという責任を果たすことであり、「生まれた」のはその教えに遇うためであったという意味が見出されてきます。

心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、心得えたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも心得たると思うことはあるまじきことなり。蓮如上人御一代聞書213

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確信を聞く

2010年10月01日 | ブログ

先月末、姫路医療センターの医師で真宗大谷派教学研究所の研究員でもある梶原敬一氏のお話を聞きに京都へ行きました。
親鸞聖人が著された「教行信証(顯淨土眞實敎行證文類)」全6巻の中からとくに「文類の五」、いわゆる「真仏土巻」に学ぶ連続講座です。
これまでトリツクシマもなく遠ざけてきた「教行信証」ですが、地元伊勢志摩の住職らで構成した「一闡提の会」では、まずこの輪読からスタートし、また宗祖の御遠忌事業として修復された『教行信証』坂東本(国宝)http://higashihonganji.or.jp/を複写した「カラー影印本」をご門徒らの浄財で求め、そして今回の学習会のご縁を仲間からいただいて、いよいよ逃げられず向かい合わなければならなくなってきたわけです。そもそも逃げ切れるわけはありませんが・・・
それにしても正直な感想として、お話のスピードとその深さに付いていけないというのが実感でした。「学ぶ」という水準にさえ達していない私を知らされています。「真実の教え」を聞くのに資格も水準もないかもしれませんが、「救い」を求める姿勢といったらいいのでしょうか、「救い」とか「たすかる」という事柄がどれだけ本質的に「自分」に向けられるかということが問われてきます。つまり「真実」によって「自分」が「救われる」ということが見出せていないわけです。
大学で真宗学を専攻する学生の質問に感心しながら、それに対して「大学の真宗学では親鸞の思想は捉えきれない。またそこで捉えようとしてはダメだ」という意のアドバイスが印象的でした。
それは、ご自身が小児科の医師としての仕事場にもかならず「真宗聖典」を離さずに持っているということから察するに、人間が「生きて苦悩する」現場に親鸞の思想が生きているんだという実感によるものではないかと思いました。
そして仏教を学する人の「参考」になるような話をするつもりはないとも言っておられました。
「親鸞の思想が現代に通用するのか」「現代を救えるのか」そしてその「説明ができるか」ということを課題に教行信証に向かい合ってきて、その「確信が持てた」、つまり親鸞の思想は現代に通用し、現代に苦悩する人を救うことのできる思想であることを確信して、ここにそれを説明しているのだから、一人の仏教理解の「参考」なんかにしてもらっては困るんだと、このように受けとめさせていただきました。
「現代における救い」を求める姿勢と内容の深さには全然ついていけませんでしたが、何とかこの「確信」について聞いていきたいと思います。

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