遊煩悩林

住職のつぶやき

真理と幸福

2007年06月20日 | ブログ

6月16日の真宗公開講座の池田勇諦氏のお話、そして17日の常照寺永代経法要での荒山先修氏のお話の中で、双方とも親鸞が84歳のときに関東の教団の指導的立場にある息子の善鸞を義絶(破門・勘当)されたことを取り上げられていたことが印象的です。
あまり詳しくは取り上げられませんでしたが、それは「血」つまり「血脈」と「法脈」つまり「南無阿弥陀仏」の伝承ということの問題提起です。「血統」と 「法統」、その決断を迫られた84歳の親鸞の苦悩を感じたときに、そこには「関係」というものが問われてきます。
荒山先生の課題からいえば「親 子の関係」「師弟の関係」という問題です。
世襲が慣例になっている真宗寺院のあり方の問題としても、真宗の人間像における大きな課題としても重要なテーマです。
親 鸞と善鸞の親子・師弟の関係が保たれておればこのような悲劇は生まれなかったのかもしれませんし、それは必然であったのかもしれません。そこから感じるこ とは、親鸞の生涯は念仏を真理として見出されて、それを証明してくださったご生涯でありましたが、決して私たちが考えるような 世俗的な幸福とはかけ離れたご一生であったことです。
真理と幸福とは相反する、真宗の人間像は根底にそういうものを持っているようなことも思いました。

常照寺永代経での夜の法座は、おつとめのあと「百喩経」という仏典をテーマにしたビデオを鑑賞しました。
古代インドの身分制度によって糞尿の処理に従事する男性と、その男性をいじめる子どもたちの話です。お釈迦さまがその男性と子どもたちに話されたいくつもの「たとえ話」を通じて「人間とは」というテーマを学びました。
そこに胴体が1つで頭が2つある共命之鳥が説かれていました。(詳しくはこちらhttp://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/d/20061002
いのちの根本がすべてつながりあっていて、人のいのちを傷つけて生きていることはすなわちそのまま自分のいのちを傷つけていることに他ならない。
永代経の法要に遇って、そんないのちのつながりを教えられ、それが永代にもわたって連続していることと、その根本的課題として、今をともに 生きている最も身近な人間関係を見直して回復しなければならない「私」であることを教えられると同時に、その関係に「恩」を感じ、それを正しい言葉によって伝えるところから生まれてくる関係を保つことの中に、私たちが人間として生きることの意味を問わせていただきました。

法要の写真を一部ではありますが常照寺のホームページに披露していますのでご覧下さい。
http://homepage.mac.com/jyosyoji/
■常照寺年間行事■→■永代経法要■→■2007年永代経■の順にClickして下さい。

コメント

人間になる

2007年06月19日 | ブログ

永代経法要において、名古屋の荒山修先生(惠林寺前住職)から正信偈を讃 題に、身近な仏事や家庭内での出来事を例にお話を聞かせていただきました。
一貫しているのは「人間になる」というテーマです。それは毎年、お 話をいただく中で感じられてきたことでもあります。
経典の言葉を引用してそれを論理的に解説して「真宗の人間像」を了解する人もあれば、日常のささやかな家庭内 での会話の中に見出されてくる言葉や行動を提示して、真宗の教えから見た私たちの人間像が問題提起されてくることでご了解いただく方もあるでしょう。さま ざまな例を具体的に提示しながらご参詣のすべての方々に伝わるようにお話しされるところが先生の配慮で魅力です。
「家庭円満」といいますが、円満に感じているのは誰か、自分の思いどおりに家庭が回っていることが「円満」であれば、その円満は他の家族の犠牲の上に成り立っているのではないか。夫婦間におい ても、互いに言い尽くせぬほど世話になっている関係でありながら相手のことを「困った人だ」とか「うるさい奴だ」などと後ろ指を指してはいないか。相手が「困った人」ではなく困っているのは「私」です。自分の思いどおりになっていることを「円満」と感じる、自分の思いどおりにならない相手を「困った人」にしている人のことを「恩知らず」と指摘されます。
教えを聞くということは真宗の人間像、真宗の眼をとおして、「円満」だと感じられてくる「私」を問い、「恩知らず」として発見されてくる眼です。「人間らしさ」とは「関係を保つ」ことだといわれます。人と人との関係を保てない人は「人間」とは言わないのです。 「親」や「子」として「妻」や「夫」として、また兄弟・姉妹、教師と生徒、上司と部下、友人関係など、いろんな関係性を生きている私たちが「餓鬼」や「畜生」でなく「人間」 といえるのは、正しく関係が保ててのことなのだ、ということでしょう。

つづく

法要の写真を一部ではありますが常照寺のホームページに披露していますのでご覧下さい。
http://homepage.mac.com/jyosyoji/
■常照寺年間行事■→■永代経法要■→■2007年永代経■の順にClickして下さい。

コメント

永代経法要厳修

2007年06月18日 | ブログ

6月17日(日)常照寺の永代経法要をお勤めしました。
それぞれご多用のところ万難を排してお参り下さいました皆さまに改めてお礼申し上げます。また、25年以上もの間、毎年欠かさずご法話をいただいております荒山修先生には今年もお世話になりました。ありがとうございます。
荒山先生は、名古屋市内の惠林寺の前住職としてだけでなく、本山である東本願寺の教導職を長年つとめられ、また名古屋拘置所の教誨師や中日文化センターの講師など、お寺だけでなく広く社会的にご活躍です。
先生の法話を聴聞するために名古屋からお参りされた方もおられました。
1時から読経をつとめ、2時から休憩をはさんで90分ほどお話を頂戴したいとお願い申し上げたところ、4時を過ぎた頃まで熱のこもったお話をいただきました。
のちに、ご参詣の方の雑談の中で「2時間以上の話を聞くのも疲れるが、話をされるのはもっとお疲れになるんでしょうね」という声があったので控室の先生にお伝えしたところ、「そんなに疲れませんよ」と。それよりも「お話を適当にきりあげて終わりにすることがどうもできないものですから、時間をオーバーしてしまって申し訳ありません」と申されておられました。
法要後、坊守との会話の中で、私たちはお寺に居住してご門徒をお迎えする側だけども、ご門徒の先頭に立って聞法する姿勢が私たちの勤めであることを改めて確認をしたのですが、はたして私や坊守が寺に縁がなければ、こうして仏法に遇う機会に恵まれただろうか?、そしてたとえ縁あって法要や仏法聴聞のご案内をいただいたところで、わざわざお寺に足を運ぶために時間をつくってお参りするような私たちであろうか?ということが話題になりました。
自分自身がお寺の住職や坊守という肩書を取っ払い、現代日本に生きる30歳代の夫婦として考えたときに、お寺とはどういう風に映り、仏法はどんなものに感じるのか、そのような視点に立った時、今回「永代経法要」のご案内を申し上げてご聴聞に来られた皆さんにこころから「ご苦労さま」であると感じます。
「暇ができればお参りさせてもらう」という声をよく耳にしますが、なんか私自身のこころを表しているような言葉であると反省させられます。「暇」だから寺に参っているなんていう人は一人もおられません。「暇」をつくって、もしくは他の用事をやりくりし、またはそれらに優先して参っておられます。参詣各位の見えないところでの聞法の姿勢を思ったときに、それらの皆さんをお迎えする私たちのおもてなす態度や言葉が不十分であることをつくづく感じます。

つづく

法要の写真を一部ではありますが常照寺のホームページに披露していますのでご覧下さい。
http://homepage.mac.com/jyosyoji/
■常照寺年間行事■→■永代経法要■→■2007年永代経■の順にClickして下さい。

コメント

聞法とは何なのか

2007年06月17日 | ブログ

土曜日、伊賀市の青山ホールで真宗公開講座が開催されました。
450人収容のホールは満員、入りきれなかった100名もの方々がホールのエントランスに設置されたモニターで聴聞されました。
同講座は26回を数えますが、伊賀地方での開催ははじめて。開催にあたって三重教区の中南勢からバス5台がかけつけ、伊賀での公開講座は興行としては無事に成功したといえます。
ですが、仏法の視点に立った時に「成功」とは?どういうことでしょうか。結果や成果は目に見えるわけではありません。この講座が縁となって各地の真宗寺院にそれぞれのご門徒が足を運ばれることになれば、それなりの「成果」ともいえましょう。だけどもここで「教え」に遇った意味というものが、それぞれ家庭の生活の中でどう見出されてくるかということが「仏法」の視点からの「果」でありましょう。
講師は真宗大谷派における「講師」というお立場にある池田勇諦氏でありました。講題にあげられていたのは「わたしにとって聞法とは何なのか」という問題であります。
教えを聞いていく視点というのは、あらゆる物事を「果」ではなく「因」でみるのだ、と。
どうなるか?いくらもうかるか?という「果」をみるのではなく、どうして?なぜ?という視点といったらよいでしょうか。
仏さんの教えを聞いたらどうなる?ということではなく、どうして教えを聞くのか?ということでありましょう。その因が見出されてきたときに、はじめて「縁」となってくれていたはたらきに出あっていけるのではないかとも思います。
こんなエピソードが印象的です。
結婚して新居を構えた夫婦。流行の住宅で畳の部屋は一間のみ。床の間はかろうじてあったが仏壇をご安置する場所がない。そこで、日ごろから仏法をよく聴聞されておられた母親が「仏壇はどこに置くの?」と尋ねます。「お父さんやお母さんが死んだら考える」。今の時代にあってそれが現実的な言葉なのかも知れません。へたをすれば親から「仏壇はどうするの?」なんていう質問すら出ないこともあるかもしれません。ですが、仏法に親しんでおられた母親は、子どもの返事を聞いて思わず「仏壇がなくてどうやって子育てするの?」と問い返したそうです。
いろいろなことを感じさせる言葉です。「仏壇がなくてどうやって子育てするの?」この言葉に対する言葉は見当たりませんし、余計な説明の必要もありません。
真宗では仏壇を「お内仏」と呼びならわしています。仏がそこに存在しておってくださる。そこから育まれてくる生活と子どもたちの成長における影響。このことを実感しておられる母親の言葉から、寺に居住する私にとって大事な姿勢を学ばせていただきました。
真宗では寺を「聞法の道場」と位置づけます。それを現代的にいえば「生涯学習の教室」であるともいわれました。「聞法」とは「生涯学習」であり、それは「生き方」を学ぶことであり、その道場、つまり教室が「寺」なのだ、と。
聞法によって自分の判断や選択や生き方が決定されてくるのです。
ある聞法会で氏が「戦争は戦争の顔をしてはきません」という翻訳家の池田香代子氏のことばを紹介したとき、参加者から「ではどんな顔をしてくるのか」と問われたときに出た言葉が「美しい国づくりという顔をして」であったそうです。
宗教が政治の話をするなという批判もありますが、宗教者としてではなく一人の人間の生き方として、そういう方向を断じて許さんという生き方、判断が聞法によって生まれてくるということであり、それは教えがそれを先導するというのではなく、一人の人間が一人の人間として主体性を持った独立した存在になっていくということでもあります。

「真宗の修行は一生の聞法である」

コメント

面白さ

2007年06月15日 | ブログ

真宗大谷派は6月が年度末です。6月中の発行を目指す機関紙の編集会議に京都へ行きました。
4月に同関協が行った熊本での現地研修の記事と新しくはじめる連載記事がメインですが、限られた予算内での発行ですから、限られた期日と限られた枠、限られた文字数、限られた色などなど、あたりまえのことなのですが、そんなあたりまえのことが大きな壁に感じたりです。
たくさん伝えたいことがある中で、その内容を吟味して「要するに・・・」と表現しなければならない作業は、いつもダラダラとこのつぶやきを書いている私には難しい作業であります。逆にいえばそんな自分だからこそ、伝えたいことを端的に表現するための訓練の場をいただいているのかもしれません。
ですが、訓練だからなどといってられません。巨大な教団内の圧倒的マイノリティ集団の機関紙ですが、その活動の取り組みと重要性を宗門内に発信する唯一の手段であります。
そんな責任も感じながら新連載の企画を担当し方向性を探っています。
今の自分の中にあるものをどのように表現できるのか、自分自身を見つめるという観点においてもなかなか面白い作業です。
編集作業に携わり、つくづく感じるのは「自分が何にも知らないこと」です。「何にもわかってない」自分が浮き彫りになってきます。わかったような顔をしていることがどんどんむき出しにされてきます。その皮を剥げるとこまで剥いで、そこに何が残るのか知りたいとも思うのですが、きっとどこかでブレーキをかけてしまうのだろうな、とも思います。とにかく、編集室は「知らないことは恥ではない、『罪』なんだ」という水俣病の語り部をされている杉本栄子さんのことばを合い言葉に頑張っています。
さて、今自分の中にあるテーマは「解放運動のこれからの方向性」についてです。そこから「解放運動は面白い」というテーマを発信していきたいと思っています。「不謹慎」と見られる向きもあると思いますが、やはりマジョリティの動きを期待するならば面白くなくてはなりません。ただ、その「面白味」の内容が問われます。

コメント