遊煩悩林

住職のつぶやき

空言戯言

2017年12月30日 | ブログ

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

宮沢賢治

年の瀬です。

1年を振り返る余裕もなく過ごしていますが、1年の計を占う初詣のコマーシャルを見ながら宮沢賢治の言葉が浮かびました。

「後厄」という脅迫に「南無阿弥陀仏」と返してきた1年。

どこまでも個人の幸福を健康に置き換えてきただけです。

しかし、いくら個人の満足だけを追求しても空しいものが残ります。

結局「オレさえよければ」で今年も生きてきた。

さて、年末に東本願寺のホームページにいくつかの声明が発表されています。

http://www.higashihonganji.or.jp

東本願寺におきた火災についてのお知らせもさることながら、

12月19日は「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」が、

http://www.higashihonganji.or.jp/news/important-info/22066/

28日は「米軍機飛行への抗議」が、それぞれ発信されました。

http://www.higashihonganji.or.jp/news/important-info/22354/

江戸期に4度も火災で堂宇を焼失し、そのつど莫大な労力と犠牲を払って建て替えてきた東本願寺、親鸞さまの750回御遠忌を縁に莫大な懇志を募って修復されたばかりの両堂。

初期消火によって鎮火されたとの報告に、これまで両堂の再建に尽くしてこられた諸仏が何より安堵されているのかと。2度と焼いてはならないと4度焼いた歴史です。

それはとにかく。

死刑制度についての声明は執行のつど出されていますが、論議が進んでいるのか後退しているのか、未だに人殺しを合法化している私。

そして沖縄の声。黙殺する私。

国家じゃないんでしょう。その国家を許し、認めている私。

追従するひとりの人間として、個人の幸福など空ごとでしかない。

それでも、それでも、です。

「オレさえよければ」の芽は摘み去ることができない。

自覚すらできない、救いようのない深い煩悩を教えられに・・・

救いようのない者を救うという仏さまに出会いに・・・

除夜の鐘と修正会のご案内を申し上げて今年のつぶやきを閉じようと思います。

 

 

 

 

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Exhibition

2017年12月14日 | ブログ

「福島のこどもたちを三重へ」プロジェクト(http://booses.net)にイラストを提供してくれているKamano Makiの個展が開催されます。

14日から19日まで、三重県津市栄町1丁目888 四天王会館1のVOLVOXが会場です。

期間中プロジェクトの募金箱を置いていただきます。

お時間ございましたら是非足を運んでみてください。

https://makikawano.amebaownd.com

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善人面を剥ぐ

2017年12月08日 | ブログ

ご本山の報恩講にお参りさせていただいた翌々日、しんらん交流館でインド出身の天台宗のお坊さまの講演会がありました。

何とか行きたいと思いつつも参加できませんでしたが、当日のYouTubeのアドレスを大先輩が送ってくれました。

非常に重たいお話ではありますが、目を背けてはならない事実を認識して、心ある方々と共有したいと思います。

https://youtu.be/F5NefkZIC0g

 


 

また、「真宗大谷派・九条の会」から来年2月8日に開催される集会のご案内をいただきました。

「差別する心 向き合っていますか?」というテーマで、

「殺」をためらう人も差別を触媒にすることで、簡単に「殺」へ導かれることは歴史が証明しています。戦争という「殺」の推進には差別が必要です。今の現状、次の世代、その先の世代が差別を触媒としての「殺」に導かれないために何ができるか。釈尊から「殺」を戒められた者として、人を「殺」に導く「差別」について考えます。

と開催趣旨に述べられていました。

世界中で繰り返されてきた差別と排除の歴史。そしていまエルサレムを巡る問題。平昌冬季五輪から東京五輪に向かう背景にある問題。

集会の開催テーマから、テレビや新聞の「向こう側」の問題にしてませんか、と問われてきます。

また、趣旨文には

差別の当事者でないものは善人に収まり眉をひそめながらも傍観者という加害者になっていないか。

とも。

善人面を被って傍観する加害者は一体誰のことなのか。

京都の「しんらん交流館 http://jodo-shinshu.info 」で13:30から。

少し先のことですが、スケジュールに書き込んだ次第です。

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めでたしめでたし

2017年12月01日 | ブログ

「まぁいっかい参ってみぃ」ということで、ご本山の報恩講にお参りさせていただきました。

毎年「まぁいっかい」は足を運んでおりますが、お寺に生まれて42年、住職になって18年、まこと怠慢ではございますがはじめて27日の結願逮夜、そして28日の結願日中の法要に遇わせていただきました。

住職になって以降は、自坊の「28日さま」がございますのでなかなか本山に出向くことができなかったにしても、それまでの24年間は一体何をしておったのだろうと考えさせられました。

結願逮夜の法要は袈裟・衣をつけてのお参り、結願日中は参詣席から(といっても満堂で入れませんでしたが)お参りさせていただきました。

8日間、七昼夜の報恩講ですが、そのわずか1時間40分の逮夜法要に「いっかい」お参りしているだけなのに、「あぁつかれた」と。

翌日の日中法要のクライマックス、勤行が終わり僧侶が一人一人退出をして行かれますが、おそらく8日間の朝昼夜のすべての法要にお参りされたであろう90を超えられたご老体が、隣の僧の肩を借りて履物を履いて後堂に消えて行かれたその姿に感銘と、我が身の羞恥を感じました。

自分が90を超えて袈裟をつけてご本山にお参りすることは、きっと叶わぬことと想像しますが、「来年参ろう」「明日参ろう」では叶わぬ、「明日はないのだ」と、「今しかない」という姿の実践をいただいて帰ってきました。

そうは言っても、帰れば帰ったで「あぁつかれた」と日常生活に埋没しつつ、報恩講の余韻とともに

齢はとりたくないが

長生きしたい

暮れてめでたし

明けてめでたし

と師走のお寺の掲示板にしたためました。

前半の「齢はとりたくないが長生きしたい」は、どこかで見かけて記憶にあったことばです。

絶対的矛盾を孕んだこの願望。ピンピン生きてポックリ逝くというピンコロ信仰に通ずるこころではないでしょうか。

誕生日も命日も選ぶことができない宿命を生きる人間の、それを放棄しようという究極の欲望、煩悩といってもいいのでしょう。

だけど、この煩悩を抱えているからこそ往生できる、という聖人のことばをいただいたときに

「暮れてめでたし 明けてめでたし」、実に「おめでたい」私のあり方を教えられます。

嘆異抄のこのことばを憶念しつつ

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々

 南無阿弥陀仏

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