遊煩悩林

住職のつぶやき

マジですか!

2018年08月24日 | ブログ

台風の夜を三重で過ごし、子どもたちは福島に向かう帰路に着いたかと。http://booses.net

今年は見送りにも行けませんでしたが・・・。

17日から24日のプロジェクト日程中、毎年三重の子どもたちと福島の子どもたちが交流するキャンプがあります。

1泊2日のこのキャンプ期間は、小学3年未満の子どもたちと引率の保護者は別行動。

キャンプに参加できない子どもたちとお母さん方、おじいちゃんおばあちゃん、そしてスタッフを入れて20名弱の一行はお伊勢参り?へ。

お伊勢参りといっても、メインはおかげ横丁。

ウチの中1の息子と小4の娘とその友達、そして食事係の妻はキャンプへ。

残された私と小1の娘は、この別日程の宴会担当を仰せつかった。

1件目の居酒屋で盃を傾けていたところ。

孫をキャンプに送り出したおじいちゃんとのおしゃべり中、

「ワシは親父の仕事の関係で岐阜の小学校に通っとった」と。

「私の父親も岐阜なんですよ」。

「あの頃は2つも3つもダムを作っとってね」とおじいちゃん。

「どこのダムですか」

「鳩ヶ谷ちゅうダム」

で、「マジですか!」と。

「それウチのじいさんの寺が沈んだダムです!親父が生まれたトコです!」

ちょっとわかりづらい会話かもしれませんが、とにかくびっくり。

ダム建設のために白川村に家族で住み込んだ人の子と、そのダムによって村を離れた人の子が、今は福島と三重にそれぞれ居住している。

それは普通の話かもですけど、東日本大震災の原発事故で被災し、三重の保養プロジェクトに孫を連れてきたら、そこで出遇った。

で、伊勢でともに盃を傾けている。

すでに1件目の居酒屋から2件目のワインにかわっていたので、ワイングラスを傾けている。

超個人的な感動でしたが、不思議な巡り合わせをいただきました。

伊勢に来た子どもたちは既に新学期が始まっているのだとか。

それも「マジっすか?」ですが、ウチの息子は29日に新学期テストというのに宿題も進まず「マジやべぇ」。

みんな頑張ってね。また会いましょう。

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背景

2018年08月17日 | ブログ

7回目となる「福島のこどもたちを三重へプロジェクト」。

http://booses.net

時の経過とともに、参加者が減っていくのだろうという予想に反して、参加のご希望が年々増えてきていると。

30名の定員の募集ですが、今年は45人の子どもたち・ご家族をお迎え。

1週間あまりの保養ですので、大きな荷物を持って電車を乗り換えるより、バスでの移動の方が安心という保護者の皆さまの声を聞いて、大型バスいっぱいの子どもたちをお迎えスタッフが引率に向かってくれています。

福島駅から二本松I.C〜安達太良S.A〜郡山駅〜郡山カルチャーパーク〜鏡石S.Aを経由して三重へ。

東日本大震災以降も各地で地震や豪雨などの被害が相次いでいますが、福島をはじめ東北の被災者にとっては「風化」、忘れられていくことへの心配や不安が、実は参加者数の増の背景にあるような気がします。

今年もご門徒の皆さまから多くのご支援をいただきありがとうございました。

しっかり遊んで、また改めてご報告させていただきます。

 

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お盆をひっくりかえす

2018年08月02日 | ブログ

連日連夜の暑さで思考回路が機能しにくくなってきております。

寺の門前を賑やかにしてくださっている暑さ知らずのポケモンGo隊の皆さまや、通りすがりの方々にもパッと目に触れやすいように、

合わさらぬ私の手を 亡き人が合わせてくださる

と、シンプルに掲示板にしたためてみました。

お盆を意識してのことです。

お盆くらい先祖さんに手のひとつでも合わせんと申し訳ないとか、故人さまのご供養のためとか、どうも亡くなった人のために何かやってあげないと気が済まない人、世話をやいて満足を得させようという発想の商売などのいかに多いことか。

動機はさておき、お骨や墓石や先祖や故人が縁となってジェスチャーとして手を合わせることがあるかないか。

何か意味はよくわからんけど、「なんまんだぶ」とつぶやきが声にでてくるのと、ちょっと恥ずかしくて声には出せんというのもそれぞれ。

手を合わせるのも、念仏を称えるのも、知っとるけど「できん」、または「やらん」という人もおいでになるのでしょう。

「おいお前たち、オッさん(お坊さん)来たで、ちゃんと手合わせやなイカンぞ」といくらジイさんに言われても、できんもんはできん。やらんもんはやらん。

意味がわからんうちはできんという方は是非とも寺に足を運んでみよう。意味がわかるまで足を運んでみてほしい。

掲示板の言葉を言い換えれば

寺に行く気もない私を 亡き人が寺に足を運ばせる

と。

だいたい「その気」なんて、もともとないんでしょう、自分の方には。

他人に「やれ」とか「行け」って言われてイヤイヤなのかもしれない。

やっとかんとまずいとか、やらんよりはやっといた方がいいだろうというのも内面的にはあるんだろうと思います。

それを供養と呼ぶかどうかは知りませんが。

強制や命令、自己肯定や自己満足がないと私たちはホトケさまに手を合わせるということに動機づけがしにくいのかもしれません。

手を合わせることにすら言い訳が必要なんです。対外的に。

あんたは何で手を合わせとるの?何で寺なんかに行くの?という外部からの声なき問いに防御をはっている。

「無宗教=普通の人」という予防線がいつの間にか気づかぬ間に刷り込まれているのが私なのかもしれません。

故人や先祖は礼拝の対象にはならないことを故人やご先祖さまが教えておってくれるわけです。

故人の供養や先祖の供養を自分の手柄にしようとする根性を教えてくれているというと言い過ぎでしょうか。

どちみち自分が誰かに何かをやってあげている、やってあげないとダメだという感覚から解放してくださるのがホトケさまなんでしょう。

日本の「お盆」は中国から「盂蘭盆」として伝わった。もとはインドの「ウランバナ」だと習う。

ウランバナは「ひっくりかえっている」有り様を示す意味があるとか。

どれだけひっくりかえっても自分から自発的にホトケさまに手を合わせることはできない。

死んでまでして私がホトケさまに手を合わせる人間に育ててくれている人がおられる。その人を諸仏と呼ぶのだ。

南無阿弥陀仏を称うれば

十方無量の諸仏は

百重千重囲繞して

よろこびまもりたまうなり

現世利益和讃/親鸞

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