遊煩悩林

住職のつぶやき

奇妙な問い

2011年06月22日 | ブログ

第30回 真宗公開講座 「人間性をさぐる」

開催日 2011年6月25日(土)
    午後1時30分~4時15分(1時開場)

会 場 三重県総合文化センター内
    男女共同参画センター 多目的ホール
    (津市一身田上津部田1234)
     http://www3.center-mie.or.jp/center/index.shtml

講 師 尾畑 文正 氏(同朋大学学長・泉称寺住職) 

講 題 世の中安穏なれ、仏法ひろまれ
    - 今を生きることの課題を考える -

聴講券 500円(当日券同額)

*どなたでもご参加いただけます。お気軽にお越し下さい。

〈講師からのメッセージ〉

私たちの誰もが何の妨げもなく、フワフワと雲の上に住んでいるわけではありません。
山あり、谷あり、でこぼこの人生を生きています。美空ひばりの「川の流れのように」の歌そのものですね。
そんな苦しみと悲しみと、時には喜びの中で、みんなが生きている。
しかし、あるとき、奇妙な問いが私を支配してくる。そんな経験はないですか。何かのきっかけで、フッと、私の人生はいったい何なんだろうか。そんな問いです。
もしその問いが明らかにならなければ、私の人生全体が「空しく過ぎていく」以外の何ものでもなくなっていく、そんな私の生きること全体を問うてくるような問いです。
しかし、じつはそういう問いに突き動かされて、人はようやく自分の人生に真剣に向き合うこととなるのでしょう。
その意味では「空しさ」こそが自分を忘れた自分に、自分を取り戻させる大事な働きなのでしょう。
今回の御縁では66年前の「沖縄戦」を手がかりにして、でこぼこの人生の中で、私たちが本当に生きるということはどういうことなのかを親鸞聖人のお手紙の言葉から考えてみましょう。

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いま・ここ・とも

2011年06月17日 | ブログ

201101
仏教に正像末という時代区分があります。
それぞれ「正法」「像法」「末法」といいます。
「正法」は、正しい法(教え)のことで、それが行なわれている釈迦の入滅後500年(もしくは1000年間)の時期をいいます。仏法が正しく伝わり、正しい「行」によって「証」を得る、さとりを得ることができるとされる時代とされます。
「像法」は、その後の1000年(釈迦の入滅後の500年から1,000年の間、又は1000年から2000年の間)の時期をさします。この時代にも、正しい仏法が伝わり、修行者も存在するのですが、その「行」が形式化してしまっているために結果としての「証」が滅して、さとりを開く者は存在しない時代とされます。
「末法」は、像法の後の1万年をいいます。そこには仏の教え、つまり「経典」は存在しているのですが、正しい「行」はなく、「証」を得る人がいないといわれます。
平安時代から鎌倉時代に、この「末法思想」が広がったことも浄土教が盛んになった理由ともいわれます。逆に、浄土教の広がりによって末法の思想が広まったとも考えられます。
つまり、どのような「修行」を実践してもさとりを得ることができない時代に、いかに人間が等しく救われていくのかというテーマによって、おねんぶつの智慧が開かれてきたといえます。
まさに末法を生きる私たちに伝えられてきた浄土の教えを、いま私たちが聞き、また後に伝えたい、そんな願いに触れる場として今年も永代経をおつとめしたいと思います。
また法要後「いま、この時代に、この場所に『とも』にいること」にしばし思いを馳せるべく、映画「この街のこども」を観たいと思います。
無料ですのでお子さまやお孫さまとお誘い合わせてお出かけください。

映画「その街のこども-劇場版-」http://sonomachi.com/

「書いて学ぶ正信偈」http://books.higashihonganji.jp/

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ケロンを尽くす

2011年06月06日 | ブログ

「戯論」と書いて「ケロン」。
先週、教区主催の研修会で講師の古田和弘大谷大学名誉教授から教えられた言葉です。
「戯」は「ざれる」「たわむれる」ということですから「無益な言論」ということです。
例えば「私は死んだらどうなるか?」という問いは、言葉の上では問いになっていても問いとしては成立しないのだと。
それは「(もし)私が生まれていなければどうなるか?」という問いと同質のことばであると。

浄土真宗の七高僧の一人、インドの ?????????(龍樹)のことばに「戯論寂滅」とあるそうです。「寂滅」というと滅しなくてはならないような気にもなりますが、仏教では「寂静となること」といわれますので、「はなれる」つまり「距離を置く」といった感覚でしょうか。「寂静」は煩悩をはなれた静けさを意味します。

しかし戯論をはなれなさいといわれても、なかなかはなれることはできないのが私です。
そこで、戯論をはなれるにはどうすればいいか。
それには「戯論を尽くす」ということがあるのではないか。
「戯論は戯論として尽くす」と古田氏は表現しておられました。
論を尽くしたあげくにそれが戯論として見出されれば、そこからはなれることができる、とそんなニュアンスで受けとめてみました。
戯論だといって、はじめから放り出すのではなくて、それがくだらないことであったと、意味のないことであったと了解するまで尽くすという作業も寂滅の過程にあるということでしょう。

かつて、お釈迦さまの「無記」という態度について教えられたことがあります。
遊煩悩林 2006.10.3 http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji/

む-き【無記】
①善とも悪ともきめることができないもの。
②無意味なこと。
③質問に対して是とも否とも答えないこと。釈尊が黙して答えなかったこと。例えば、世界が常住か無常かといった質問に答えなかったこと。これに十四を数え、十四無記という。無記答とも。(仏教語辞典)

む-き【無記】
釈尊が他の思想家から向けられた形而上学的質問に対し、沈黙を守って答えなかったこと。(広辞苑)

戯論を尽くしきったところの態度が「無記」という姿に表れるのだとすれば、何でもかんでも「つぶやかず」にはおれない私はまさしくケロンのただ中ということでしょうか。それが果たして戯論を尽くしていることになっていればいいのですが、「ケロン」ということばに出遇うことがなければそれを尽くすことにはならないと思います。それが戯論とも気づかずに、問いとして成立しない事柄を一所懸命に問うて満足しているだけなのですから。
戯れ言をならべているだけだということをビシッと指摘し、気づかせる言葉として「戯論」ということばが2000年も前に示されているにもかかわらず、今回はじめてその言葉に出遇わされたのでした。

さて、では、そこで、そこから、くだらなくない問題、有益な言論とは何なのか。よくよく考えてみなければなりません。

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無駄がなくなる智慧

2011年06月05日 | ブログ

常照寺では毎月第1金曜日の夜、ご門徒の方々と勉強会を催しています。勉強会とはいっても「おしゃべりの場」です。
毎月、東本願寺が発行する「今日のことば」をテキストにしているのですが、たまたまこの「今日のことば」の6月の法語についての随想を執筆させていただいておりますので宣伝まで・・・東本願寺 TOMOぶっく http://books.higashihonganji.jp/

さてその随想集に、ある方が親子のこんなやりとりを記されていました。

お念仏を大切にされている母親が、息子に「念仏申せ」といった。
息子は「念仏では喰うていけんやろ」と。
そこで母親の口から出たのが「お念仏がないと食べたものが無駄になる」ということばだった。

これを読んで、有名な安芸門徒として有名な望月圭介という政治家の「何のために喰うのかね」ということばを思い出しました。
遊煩悩林2006.8.28 http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji/

私たちはいったい何のためにものを喰うているのか。
先の随想には「人は食べるために生きるのか、生きるために食べるのか」とも記されてあり、このことばが目にとまり今月の常照寺の掲示板に

食べるために生きるのか
生きるために食べるのか

と掲げさせていただいたようなことです。

さて、勉強会でさっそくこのことばについていろいろ言われていました。
発題されたご婦人は「生きていれば誰しも必ずこの問いに出遇うのではないですか」と。
一方で「そんなこと考えたことあらへん」「そんなこと考えてどうするんや」というご老人もいらっしゃいました。

「何のために生きているのか」という課題を常に背負って生きてこられたご婦人は、「そんなこと考えてどうするんや」という意見に驚かれたようです。みんな同じ疑問を持っていると考えておられたのです。

「生きる」ということが問題になるのに「縁」が必要なように、問いが問いとなるにも「縁」が必要です。
80年生きてきても縁がなければこの問いが問いになることはありませんし、縁があれば5歳でも10歳でもこのことが問題になるということもありましょう。
考えさせられたのは、その縁が非常に薄くなってきたのが現代ではないかということです。
何のために働き、何のために稼ぎ、何のために儲け、何のために喰うのか・・・
随想集の「念仏がないと食べたものが無駄になる」ということは、いったい何を意味しているのか。
情報や教養が溢れる現代で、知識ばかり得ることに熱中して、智慧を捨てていっているのが私でないでしょうか。智慧があれば無駄がなくなるのです。

お寺の掲示板に「書いてあることの意味がわからない!」と、ちょくちょくご指摘をいただくのですが、大切な問いを問わせなくする時代にあって、お寺から「?」を発信し続けたいと思います。

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宗教ハラスメント

2011年06月02日 | ブログ

浄土真宗ではクリスマスや宮参り、節分とか厄落しをやっちゃ駄目なの?と、折りに触れその時々に聞いてくださる方があります。
「やっちゃ駄目!」なんてことはない、お寺でわざわざやることはないだけなのですが、時に「他宗を否定している」とか「原理主義的だ」とか?拡大解釈されることがあります。
「やらなければならないこと」と「やってはいけないこと」と対極的な回答が求められる質の問いが増えてきたような気がします。
「やる必要がなくなる」ということが言いたいのです。やらないと気が済まないうちは誰がなんと言おうとやるもんです。
「やりたいこと」には「やらなければならないこと」と「しないでもいいこと」がありますし、「やりたくないこと」にも「やらなければならないこと」も「しないでもいいこと」もあります。「世間ではやっているけど私はやらない」「みんなはやらないけど私はやる」という選択が個々の家庭や個人でされて、しかもそれを互いに尊重し合うということが成熟した社会なんだと思います。

未成熟な社会を「世間」とよぶとすれば、そこには「ちょっとみてもらった方がいいんじゃない?」なんていう怪しいことばが溢れています。病気であれば「医者に診てもらった方が」ということですが、「ちょっとお祓いしてもらった方が」とか「ちょっと占ってもらったら」とか・・・。それは親切なお節介というものです。

寺にサンタは来るか問うて「来ない」と答えた子どものエピソードを紹介したとき、ある人が「そんなにこだわらなくていいんじゃないですか」といっていました。ですが当の本人は何もこだわっているつもりではないのです。やらないことにこだわっているような視線があるということです。
地域や環境によって伝統せられてきた文化や行事、習慣、しきたりは多々ありますが、正月の初詣から年末の除夜の鐘まで、節分や厄除、ひな祭りや鯉のぼり、七五三から還暦祝い、クリスマスやバレンタイン・・・などなど、彼岸やお盆を含めて他人に干渉することでもされることでもありません。世間に合わせたりしなくてもいい、成熟した社会とはそういうことでしょう。ましてやその種の宗教ビジネスに振り回されたりしなくてもです。
「世間」は形式化を好みます。葬式や法事も、世間やビジネスに流されていくと重たい負担を背負わされて、形式的に「やらされていく」ことになります。もちろん「やりたくないこと」も「やってよかったな」と、気休めではない尊いことを知らされることがあります。形式化した儀式でもそれが何十年、何百年と伝統してきたとすれば、「やらされてやること」にも当人が気づかない大事な意味が集約されてあるわけです。

いわゆる「無宗教」というのは、葬式に意味を見出すことをしないということです。世間的な儀礼にとどまるか、通夜も告別式もない「直葬」になるんでしょう。ですが、どれだけ「無宗教」のつもりでも「生」の意味を問わないということはありません。「生きる」ということが問題になったときにかならずそこにその人の宗教観が表れるのですから、人間であれば無宗教にはなりきれないはずです。
無宗教でも厄除をする人もいます。厄払いをして老病死の一大事を遠ざけるのが宗教ではなく、必ず訪れる一大事だと確かめるのが宗教です。厄落しが、自らの老病死の事実を知り、自分だけそこから逃げようとしていたなぁと気づかされて、老病死を受けとめるはたらきとなれば尊いものです。そうなったときに、やらんでもいいことをやっていたことが知らされてくるのでしょう。「やれ」とか「やったらいかん」というのはハラスメントの一種ではないかと思ったというお話です。「やってはいけないこと」を平気でやるのが私たちです。やらずにはおれないことは気が済むまでやっちゃうわけです。娑婆の縁が尽きるまでです。
「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と歎異抄にありますが、何が毒で、何がくすりなのかよく考えなくてはなりません。毒をくすりだと思っているような私なのですから、どれだけよく効くと思っていても押し付けてはなりません。
やらなくてもいいことに追いかけ回され、やりたいことができないのも現実です。

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