遊煩悩林

住職のつぶやき

娘が坊主になった

2018年10月09日 | ブログ

おかげさまで10月7日、長女が東本願寺にて得度しました。

台風の影響に配慮して、大谷祖廟への参拝は中止になりましたが、無事に真宗本廟において度蝶と法名をご伝達いただきました。

2009年の妻の得度、
(「妻が坊主になった日」https://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/357837c30f47d3c13d5103b08f1982f6?fm=entry_awp

2014年の長男の得度
(「お坊さんになりました」https://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/b3bcbddc54b51c69ef8a0cad277f245eに続いて、

めでたく「娘が坊主になる」ことができました。

「めでたく」といっても、伝達式で総長から「僧侶になるということは何も特別なことではありません」という言葉のとおりです。

ただ親としては、親のエゴを受け取ってくれて「有り難う」と褒めてやりたいのです。

そんな親子を、ここまでお育ていただいたすべての「おはたらき」に礼を尽くして、また今後のお育てをお願い申し上げるばかりでございます。

 

得度に向かう道中、これまでお育てくださった先生の逝去の報が届きました。

半世紀近くも毎年、伊勢までご足労をいただいた荒山修先生の訃報。

まだまだご指導いただきたかったという悔やみを胸に、得度の翌日、名古屋の東別院で執り行われた葬儀告別式の列に座らせていただきました。

式場の入口には「永遠に還相のお導きを仰ぎます」との弔辞。

式中で「また浄土でお会いしましょうとは申しません」と、還帰されすでに我々を教化する菩薩に出遇う旨の弔辞を聞き及び、先生が聞信された歩みが顕れ出てていたように感じました。

私の一方的な悔やみは、向こう岸からすでに破られていたのでした。

ご遺族を代表して惠林寺住職の荒山信さんは、晩年に奥さまを帯同してお説教に赴かれていたことに触れて、「夫婦・親子こそが同朋の関係、同朋とならなくてはならん」と申しておられたとのご挨拶をいただき、私事ながら娘の得度に際しての激励と受け取りました。

曲がりなりにも度蝶を得て、法名を賜ったということは、僧侶や門徒が同朋となるにとどまらず、親子や夫婦という関係存在の中で互いを同朋として見出していくということに他ならない。

必ず別れていかなければならない親子や夫婦が、永遠に別れることのない朋として出遇い続ける関係を築いていく縁を賜ったということでしょう。

若かれし日の父が、修先生からいただいた色紙が、常照寺の寺務所に掲げてあります。

人に本当に出遇うということはその人を修道存在として観るということです

相手が如何に自分の考えに合わぬ生きかたであろうともその人のなかに

人間として生まれてきた歓びを求めてもがいている心を観るということです

釋研修

修先生、ひとまず有り難うございました。今後ともご指導のほどよろしくお願い申し上げます。

合掌

 

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ボーズのポーズ

2018年10月01日 | ブログ

台風の後始末ではじまった10月。

瓦が飛んで割れた程度で済んだ後始末はまあいいが、次の台風が来るというのか。

何のために始末をしているのかと、落ち葉をブロワーで吹き飛ばしながら思う。

隣家から飛んできた落ち葉である。先の台風では枝が折れて寺の境内に飛んできた。

「ご院主さんごめんね。木の剪定頼んであるんだけどなかなか来てもらえなくて」と隣人は去年から言っている。

しびれの切れた妻は高枝切り鋏を購入して、勝手にちょこちょこ切っている。

掃いても掃いても葉っぱは落ちる。どこにでもある人の営み。都度その始末をしながら人は何を思想してきたのか。

「天才バカボン」の「レレレのおじさん」を思った。

「レレレのおじさん」は、「掃除」を行として阿羅漢となったお釈迦さまのお弟子さまチューラパンタカ(お経では周梨槃特)がモチーフとも言われる。

阿羅漢果というのですから、貧欲・瞋恚・愚痴の三毒を滅するに至った。要するに煩悩を滅したと。

お釈迦さまに教えられた「塵を払い、垢を除かん」と称えつつ。

さて今、そのお釈迦さまから2500年もの時を超えて「ナムアミダブツ」を称えることを教えられながら、どうなんだろうか。

掃き取った葉っぱを掻き集めて処分すればまだしも、境内の葉っぱを外に掃き出しておいてヤレヤレなどと。

門前の掲示板のことばを同時に書き換えたばかりだ。

本当に自分を知るには、やはり人という鏡がなくてはならない

高光大船

「やはり」というところがミソだ。

鏡がないと、やった気になってるんだ。何もやってないのに。

掃き出したはずの葉っぱが風で境内に舞い戻ってくるかのごとく、何もやってない。

わかった気になっているんだ。知ったような顔をしているんだ。自分のことを。

何も知らんのに。本当の自分など。

何かやっとるフリをしているだけだ。鏡に映る自分は。

煩悩を滅した周梨槃特に対して、親鸞は「不断煩悩得涅槃」と説いた。

煩悩を断ぜずして涅槃を得る、と。

人を鏡にして見えてきた自分の姿というのは、何かポーズなんだ。

「ボウズ」でなく「ポーズ」。

何かそれらしいことをやっとるポーズ。

それは鏡によってコロコロ変わる。隣人という鏡。妻という鏡。子という鏡。ご門徒という鏡。

白雪姫の鏡、テクマクマヤコン、八咫鏡・・・鏡もいろいろだが、さてその内面を映す鏡とは。

経教はこれを喩うるに鏡のごとし

1400年ほど昔、善導大師が教えてくれている。

それっぽくポーズを決めるのはいいが、心の中まではポーズでは済まぬ。

江戸川乱歩に『鏡地獄』というのがあったが、人も経もすべて本当の私を映す鏡として「やはり」いただいていかなくてはならぬ。

ところで来週末は娘の得度。

まだ10歳の娘が僧侶になるという。これもまたポーズかもしれないが、台風だけはこっちにきて欲しくない、あっちへ行けという鏡の中の私は、自分の都合のために災難を人に押し付ける鬼だ。坊主のふりをした鬼だ。

 

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