遊煩悩林

住職のつぶやき

体質構造

2019年07月01日 | ブログ

東本願寺の御影堂から参拝接待所をつなぐ廊下に、常時いくつかの法語額が掛けられている。

私の父親は本山にお参りするたびに、この廊下の法語をすべて写真におさめていたことを、幼なごころに記憶している。

いったいこの法語が、どんなタイミングで掛け替えられているのか、誰が選定しているのか、誰が書いているのか、今でもさっぱりですが。

 

 先日、あるご住職の「つぶやき」から、その辺の事情が少し知られてきました。

http://park20.wakwak.com/~insokuji/framepage/framepage-jyusyoku.html

東京の因速寺、武田住職の6月19日と27日の「つぶやき」に、経緯が記されています。

この一件だけでも私たちの教団の体質構造が垣間見られるところですが・・・。

 

とにかく。

結果的に本山の高廊下にこの言葉があげられないのであれば、伊勢の常照寺の掲示板に記させていただこう、と。

 

「悪人が救われる」のでなく

救われた人間の自覚が「悪人」だったのです

武田定光

 

と今月の掲示板に書き出しました。

 

浄土真宗の教義に「悪人正機」。

「歎異抄」に綴られた「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親鸞さまの境地。

言ってみれば、善人が往生するんであれば、悪人が往生するのは言うまでもない、と。

一般的には、善行を積んで往生成仏すると考えるのが精神衛生上は健全なのかもしれない。

だから善人が往生すると私たちは信じて疑わない。他流はそれでいい。

阿弥陀如来の他力本願は悪人こそ救うという。

「悪人」は誰で、どんな人を悪人というのか。

 

武田住職の言葉を今月引用させていただいたのは、先月の掲示板の言葉

悪意の反省はしても

善意の反省はしない私

からの展開でもある。

5日の常照寺の同朋会で話し合いたいと思います。

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