遊煩悩林

住職のつぶやき

イヴ

2015年12月25日 | ブログ

「クリスマスは何もらったん?」と聞かれて、「お寺にはサンタさん来ないの」と答える子どもたち。

「まぁ可哀相」という言葉や表情を見ていると、そのうちクリスマスをしないと「児童虐待」と言われないかとヒヤヒヤする。

でも子どもたちはそんな言葉や表情を察して言う。

「でも花まつりがあるの」と。

自己満足に過ぎないが、なんと誇らしい子どもたちだと思う。

毎年言っているような気がしますが、何もクリスマスをしないことに拘っているつもりはありません。

必然性を感じないだけというと変かもしれませんが、もうすぐ正月が来るし、うちの寺は1月に報恩講という一大行事がある。

報恩講も「逮夜」の法要がある。

それを「イヴ」というかどうかだけだ。

個人的な願望に、あらゆる拘りから解放されたいという内面的な欲求があります。言い換えれば拘らないことに拘りたい。

こうなるとややこしくなってくるのですが、だいたいややこしいのが「私」。

報恩講のご案内は改めてさせていただくとして、正月のイヴの告知をさせていただいて今年のつぶやきの筆を置かせていただきます。

実際は筆など持ってませんが・・・。

子どもたちのゲームには、リセット機能というのがある。平たく言えばやりなおし。ゲームを批判する言葉の中に「なんでもやり直しがきくと思い込んでしまう」と聞くことがありますが、「正月」を迎える感覚の中にそういったものを組み込んできたのは誰かと考える。

「水に流す」という文化も同じ流れか。

人生はやり直しがきかないし、水に流してはいけないこともある。だからこそ欲しいのか。ないものが欲しい。

そんな一年をまた繰り返した。 

何かのご縁でこのつぶやきを開いてくださった皆さまありがとうございます。 

 

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ひとでなし

2015年12月24日 | ブログ

12月18日に執行された2名の死刑を受けて、東本願寺が声明を出しました。

http://www.higashihonganji.or.jp/news/important-info/13526/

「死刑」という名の殺人行為を支持する人はもとより、黙って見過ごす私もまた、この殺人行為に肩を貸しているわけです。

ちょうど『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』(森達也 著/ダイヤモンド社)をこないだ読み終えたところ。

著者は、このような厳罰化の傾向を、オウムの地下鉄サリン事件を契機とするものだということを繰り返し主張する。

昨日たまたま25歳のイケメン僧侶と車に乗り合わせて90分ほどドライブをした時に、「僕の思想形成はオウム後です」的なやりとりがあった。

つまり厳罰化が進んだという感覚は、オウム以前を知ってのことで、彼らにとってはこの厳罰化が進んだ状況がスタンダードなんだ。

話が転々として申し訳ないですが、今月のはじめ次女を幼稚園に迎えに行った帰りに「後部座席同乗の幼児/幼児用補助装置使用義務違反」による基礎点数の付与、および免許証不携帯による反則金の納付を課される大罪を犯した。

同時に捕まったのに切符を切ったのはそれぞれ別の若い女性巡査・・・。違反したのは私ですし、彼女らは彼女らで与えられた仕事を全うしているだけですが、娘を含めて何とも言えない空気だった。

何を疑われているのかわかりませんが、娘の生年月日を聞かれてシドロモドロになり、さらに免許証がないので、私が私であることを第3者によって証明されないと帰せない、と。

娘が少なからず私を「お父さん」として認識しているのも関わらず・・・何かを察してのことなのか、固く口を結んでいる・・・。 

結果、出張中の妻に電話して僕が僕であることを証明してもらったのですが、僕が僕であることを証明できなかった経験は、鹿児島空港でチケット購入する際に前にもあった。

とにかく、違反を犯した自分を取り締まられたことが「厳罰化」だと言いたいのではない。

来年は「伊勢志摩サミット!」と言ってメディアは盛り上げるけど、要人警護の名の下に銃を携えた機動隊が神宮周辺に配置されたりはしないものかと。

数年後には「東京オリンピック!」と言ってメディアは盛り上げるけど・・・。

先月27日の「五輪棄民」という新聞の切り抜きが手元にある。それは88年ソウル大会について「「福祉」名乗る弱者排除」という記事だ。

そして今日クリスマスイヴの「中日春秋」、セルビアには「どこも痛くないときは小石を靴の中に入れて歩きなさい」という言葉があると。

仏教においても、人の痛みを感じられる人のことを人間というのだと思う。

さあ年末。「人でなし」の一年だった。 

と、強引に締めくくったものの、どうも歯切れが悪くてパソコンを再び開く。

『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい』を、就寝前に読んでいたところ、隣で次女が「お父さんこの本読んで」と。

五味太郎の「きみはしっている」。http://www.amazon.co.jp/

僕がちょうど今の次女と同じ年の作品だ。

初めて読んでドキッとした。

「絵」に誘導される私のものの見方が、そのままメディアによって操作される私の姿を言い当てている。

メディアを批判したいのではない、視聴率を稼ぐことを目的にするメディアに、視聴者として無自覚に乗っかっている。

そんなメディアを末端で支えているのは、私自身だという事実。

「死刑」は殺人だと「しっている」。それを支えているのは誰か。

メディアと権力の関係を注視する・・・サミットだ!オリンピックだ!といって棄てられるのは何か。

ダラダラ書いてみたもののどうも歯切れが悪い。 

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仏も如何ともなし難し

2015年12月01日 | ブログ

先月、21日から28日まで行われたご本山(東本願寺)の報恩講に、たった一座だけではありますが今年も出仕させていただきました。
その日、ともに上山した地元の仲間と、150名ほどの出仕者の列に並びましたが、150人分の1人と考えればそれほど感じないであろう緊張感を約1時間の法要中ずっーと感じ、手に汗かきっぱなしでした。
ただ座っているだけの1時間です。香の薫りが漂い、声明の音の響きの中、東本願寺御影堂の北側に参列した私の目線の先には親鸞聖人の御真影の左側面がありました。
私の隣に座する右の僧侶も左の僧侶も微動だにせず、はたして自分の正座はいつまでもつのだろうか。そんな緊張の中、問いを得たような気がします。
誰の問いかはわかりませんが、「そこで何をしとるのか」「ここに何をしに来たのか」というニュアンスの問い。
「東本願寺の末寺の住職として、ご本山の報恩講にお参りしに来た」といえば済むような話かもしれませんが、どうもそれだけではおさまらない質の問い。
誰がどこから私に問いかけてくれているのかと課題化しながら師走を迎えました。

人は死を知るとき 即ち無常を知るとき 再び誕生のときを迎える

と今月の掲示板に書きました。
今年の5月に「無常なるが故に 人は仏を知ることができる」と同掲示板に書きましたが、いずれも藤元正樹先生の言葉です。
これは真宗大谷派三重教区の「差別と人間を考える協議会」の学習会資料「同朋の会テキスト『親鸞聖人』に同和問題を学ぶ」という藤元先生の言葉からいただきました。
その一節にこうあります。


人の世の無常を知るとき、人は自らの誕生を問うのであり、その誕生を問うとき、人は根源的に自己の人生を自己において問うのではなく、如来から、彼岸から問われていること、「仏も如何ともなし難し」という問いに曝されるのでありましょう。自分の人生が、本来彼岸より問われたいのちであることを知るのであります。

ご本山の報恩講に出仕して感じた「何をしとるのか」の問いの発信元を教えられたように思います。
そして緊張の手汗は、どうにもその問いに答えようのない自分の生理的現象だったかと。
まるで、解けない問題を当てられた小学生のような面持ちです。

何だか課題ばかりが山積していくような気がしますが、来年の報恩講まで問われ続けたいと思います。
大事なことを放置したまま、そうこうしている間に1年が過ぎていきます。無常を忘れてです。
新しい年を迎えるにあたり、新たな誕生の時を迎えられるような日々を送りたいものですが、なかなかそうもいかぬ師走です。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

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