南南東のやや南。
もはや南じゃねーか、と。
今年の「恵方」だとか。
恵方は福徳の神がおいでになる方向。
「吉方」ともいうと。
なら、不吉の方は「凶方」か。
「凶方巻」というのはあまり聞かない。
凶の方に「鬼」がいるなら、海苔巻でなくて豆か。
なら、豆を撒くのは北北西のやや北になるのかどうか。
とにかく。
苦というものが外から来ると思うているうちは苦はなくならん
という法語を昨年末にSNSで見た。
保存した画像には「2022.12.01」と日付が押してある。
毎年、2月の常照寺の掲示板には「節分」に因んだ言葉を選んでおりますので、これを拝借しようと。
ただ、このままだと節分に因んでいることが伝わらないかな、と。
「苦」を鬼に換えてみた。
鬼が外から来ると思っているうちは鬼はいなくならん
と。
うーん。こうなると、鬼はいつも外にいて、いなくはならんもんだ、としか読めない。
言いたいことは、鬼は自分以外のところにいないということ。
拝借した法語から読ませていただいたのは、苦は人生の大前提であるということ。
福の神を崇める欲によって、より苦が増長していくのだ。
拝めば拝むほど手に入らない苦が増していく。
金や健康という「幸福」を妨げているのが「鬼」だと。
福を求め、不幸を退けようとして苦しんでいる。
それが鬼なんじゃないか。
欲を求めるのが人の常。
何も、求めすぎちゃならんという戒めを言いたいのではない。
常だと。
ただ、鬼という「不都合」は誰しもが抱える。
ということで、最終的には
外から来ると思っているうちは鬼はいなくならない
とアレンジを加えて、2月の掲示板に貼り出したのでした。
通りすがりの方に、首をひねっていただければ。
伝わるかどうか。
節分的行事を否定したいのではありません。
欲の方向を表す「恵方」によって煩悩を自覚し、欲をかなえるためには鬼神にでもすがって都合の悪いものを排除しようとする私の実態。
吉凶禍福、競いておのおのこれを作す。一も怪しむものなきなり。
『仏説無量寿経』
西方極楽浄土の視線。