遊煩悩林

住職のつぶやき

その前に!

2014年03月10日 | ブログ

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さて、いよいよ今月末に迫ってきました御遠忌法要。
3月27日から30日まで三重教区・桑名別院宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が勤められます。
http://www.betsuin-987.com/
おかげさまで、団体参拝の申込を締切らせていただきました。
お申し込みをいただいた皆さまには、近々ご案内を申し上げますので、どうかご体調を整えて、ともにお参りできますこと楽しみにしています。
着々と準備が整いつつある中ですが、その前に!
お彼岸です。
常照寺では"お中日"の21日に彼岸会をお勤めして、彼岸を勤めるこころについて確かめ、来る御遠忌法要を迎える心構えを果たしていきたいと思います。
http://www17.ocn.ne.jp/~jyosyoji/events.html
と、その前に!
明日、3月11日で東日本大震災から丸3年。
今年も地震発生時刻に「勿忘の鐘」を鳴らします。
http://www.wasurenanokane/
どなたでもご参加いただけますのでお誘い合わせてお出かけください。
3月11日は午後2時46から常照寺の鐘楼門にて鐘つき。
午後3時から本堂でおつとめ。
引き続いて、本堂内のプロジェクターで園子温監督の映画「希望の国」を放映します。
http://www.kibounokuni.jp/
原発事故をテーマにしたこの映画を製作した園子温監督のインタビューが、東本願寺のの『同朋新聞』3月号「人間といういのちの相(すがた)」という連載企画に掲載されています。https://higashihonganji.e-shelf.jp/book-search/view/bookNum/53/
このなかで

僕たちは、国民という枠組みでものを考えるのではなく、もっと人間であっていいんじゃないかと思いますね。誰だって、国民である以前に人間なんだから。

というコメントに共感を覚えます。
「勿忘の鐘」に、「国民である以前に人間」なんだという響きを聞き、「人として」本当に大切なことを確かめたいと思います。

ナンヤカンヤと忙しない3月ですが、ただ一つひとつの行事に忙殺されていくだけではなく、ご門徒の皆さんとともに「人間として本当に大切なこと」を「勿忘の鐘」に問われ、「彼岸会」で確かめ、「御遠忌」でそれに報いていく歩みを果たしていくような、御遠忌の終わりがそんな出発になればと思います。

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人間回復

2014年03月08日 | ブログ

昨日、南勢地方のお寺のグループで「同和研修会」を開催しました。
毎年、開かれていますが、この研修企画の委員会の際、「同和研修」という名を改めてはどうかという意見が委員から出されました。
それはかねてより、「同和」の用語の問題が指摘されていることによります。
ついては、ただ変えればいいのか?という議論の上で、今回の研修会はこれまで言い続けてきた「同和研修会」として開催し、その語が持っている意味を学び直そうということで実施されました。
そこで今回は、長年にわたって真宗大谷派の解放運動を引っ張ってこられた訓覇浩氏をお迎えして、「真宗大谷派における解放運動推進の歴史と課題 - 「同和」の語の問い直しを通して - 」という講題でお話をいただきました。
以下は、訓覇氏が編纂に深く関わった「真宗大谷派部落問題学習資料集」からの抜粋ですが、

(前略)天皇による「一視同仁」という平等感、「四海同胞」という世界観から、「同和」という言葉が生まれ、(略)天皇制国家主義を確立するために作り出された言葉であり、人間は天皇の赤子としてはじめて人間と認められ、その赤子によって構成される社会こそ唯一絶対の社会であり、人間の平等性は、天皇がみそなわすところにのみ存在する、というものの見方を内包するものである。
 それは、一人ひとりが、一人ひとりであることによって尊いとしていく人間観とは真っ向から相反するものであり、浄土真宗の人間観、社会観、平等感とは相容れない、むしろ正面からそれを否定しようとするものであると受けとめることができる。
 また全国水平社は、そのような「同和運動」の質を、「人間をいたわるかのような運動」、すなわち人間をいたわるかのように見せかけて、実は人間性をかすめとっていくような運動と看破し、その運動との決別を、水平社創立の必然性として挙げた。(略)
 「同和運動」のあり方の本質、それは、差別というものが、するものも、されるものも人間を非人間化させていくものであるなら、「同和運動」はその非人間化に覆いをかけるものである。差別を差別として見えなくさせ、そうすることによって差別・被差別の苦しみ悲しみから逃れていこうとする運動といえる。
 そのような性格をもつ「同和」という言葉が、同和対策事業そのものが失効する一昨年まで、官制用語として公の形で使われ続けた。そして、一般的に部落問題や被差別部落を表す言葉として大きな広がりを持つようになっていったのである。

また、ここでは「水平運動の展開に危機感を持った官側が、それに対抗するために展開した、国家主義的立場からの運動を担った団体」として「中央融和事業協会」を挙げ、さらに大政翼賛運動と表裏を成す形で改編され誕生した「同和奉公会」について、「侵略戦争に突き進む中、同会は自らの性格を、『スイッチ一つで全国民を一定の方向にむかって動員しうる国民運動組織』と表現している」ことを指摘しています。
それまで使用されていた「融和」が「同和」に改められたのは、1941年のことですが、この「スイッチ一つで全国民を一定の方向にむかって動員しうる」国家主義的風潮を今、感じなくもありません。
今回の研修では、こうした歴史的経緯をふまえて様々な角度から問題を提起いただきましたが、「差別」は「託生の根源を奪う」、つまり人間として生まれた根源的な必然性を奪うものだと。それは「私が私であることを奪う」事柄だと。さらに、「人権」について「私が私として生きる権限」と表現されておられたのが印象に残っています。
これまでの研修の中で、「なぜお寺がこの問題に関わらなければならないのか」、また「いったいいつまでこの問題をやらなければならないのか」など、否定的なご意見もありましたが、このたびの研修を経て、「やらされている」学習ではなく、あらたな学びの方向性をお寺に集う人とともに考え生み出していかなければならないことを実感しました。

数日前に京都の東本願寺で行われた「教勢調査報告会」で、首都圏を中心に増え続ける「直葬」、つまりお葬式をしない傾向に触れた

死を粗末に扱う社会は 生を粗末にする社会だ

ということばが耳に残っています。死を尊ぶことができないことは、生を尊べないことに他なりません。必ず死んでいかなければならないものとして生まれたこの「生」の尊厳です。
そういったことも含めて、お寺は人間を非人間化させていくものの正体を見極め、人間を回復していく場所として開かれ続けねばなりません。
そのためにも人間を回復していくことに相応しい研修の中身とその名のりを挙げていきたいと思います。

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