遊煩悩林

住職のつぶやき

Jyosyoji Paper Vol.32

2008年12月30日 | ブログ

2009年度版の常照寺報「朋光 -第32号- 」を発行しました。年に一度の寺報です。
今年は「お寺って何だろう?」「お仏壇って何?」をテーマに「お内仏のお荘厳とお給仕」について一考。
その他、住職のコラム「遊煩悩林」。坊守のコラム「如是我門」。2009年の年間行事予定。2009年の年忌のお知らせ等。
何とか年内にご門徒宅にお届けすることができました。
さて、それでは「除夜の鐘」の準備・・・そして修正会の準備・・・にでも取りかかろうか、と。
こうやって今年も準備ばかりして暮れていきます。準備と消化に明け暮れず、準備する「今」にじっくりと向き合っていかねばと、思います。
年が明けたら報恩講の準備だ!。勤修は1月24-25日の予定です。
本年中のご愛読ありがとうございました。
よいお年をお迎え下さい。そして来年もお付き合い下さい。

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いのちのとなえ方

2008年12月22日 | ブログ

こんな疑問にとりつかれています。

どうしてイエスが生まれた日が「1月1日」でないのだろうか?
どうして1月1日がクリスマスではないのだろうか?

クリスマスはイエスの誕生を祝う祭りだといいます。
それはそれなのですが、私たちが日頃つかっている暦、西暦はキリストの誕生年を「1」として2009回を数えているといいます。
今、現実につかわれている暦の上では12月25日がクリスマス。そして年が明けるのは1月1日。7-8日ほどのブランクが「?」となってきたわけです。誕生を基軸にしているのだとすれば、誕生日から月日もスタートしているのが最もではないかと考えたわけです。
で、調べてみると私がしっかり勘違いをしていたのは、12月25日が「キリストの誕生日」だと思っていたところです。「クリスマス」は「キリストの生誕を祝う」祭りで、誕生日でもなんでもないのでした。しかも誕生日ははっきりせず、12月ではないことが有力だといいます。「うーん」とんだ思い違い・・・。さらにいえばイエスの誕生は紀元前4年頃までさかのぼるのだそうです。
こうなってくると、西暦というものの根拠も「ダイタイ」なのだなっと思うわけです。
曖昧で大体ではありますが、歴史的な経緯のなか、これがいまの日本において便利で使いやすい「暦」だから使用しているわけです。
まあ、そのほうが曖昧で大体な「人間らしい」ような気もします。
年賀状でも毎年、元号を使う人、西暦を使う人、また「仏暦」を用いる人、それぞれですが「A Happy New Year Heisei21」では滑稽な気もします。
「仏暦」にしても、それを用いる人によって数百年の誤差があります。やはりその地その地の暦を、別の地の暦に置き換えたりしているうちにゴチャマゼになったのか、分けがわからなくなったということかもしれません。てんでデタラメというわけではありません。諸説あっていいのでしょう。根拠さえはっきりしていれば・・・。
しかしせいぜいそれが2000~3000年くらい前のことに過ぎないことに、若干の驚きがあります。
それにしても、かつての日本は新年が来ればみんな同時に歳をとる、いわゆる「数え歳」でしたから、個別の誕生日を祝うこともなかったといいます。私たちの親の世代(昭和のはじめごろ生まれ)でもそうです。
昭和24年の「年齢のとなえ方に関する法律」によって満年齢が推奨され、行政機関に義務付けられたそうですが、では満年齢になったからという理由だけで、みんなが誕生日を祝うことになったわけではないのでしょう。
そこにはキリスト教的な文化の影響が大いにあるのだと思っていました。それはクリスマスがキリストの誕生日だと思い込んでいたからのものですが、考えてみれば日本でもいつ頃から行われているかわかりませんが「花まつり」というお釈迦さまの誕生を祝うお祭りがあります。
ですが、日本の「まつり」はやはり基本的には「誕生日」ではなく「命日」なのでしょう。「まつり」という表現はどうかと思いますが、「誕生日」によって生まれた「生命」がただ尊いのではなく、そこに単なる個人の「生命」だけでない深く広い「いのち」のつながりをいただいてきた歴史なのだと思います。それを確かめることが命日でありましょうし、古くからそうしてきたわけでしょう。だから「命日」といっているわけでしょう。
現代、命日は忘れられ、葬式もままならない時代になってきました。それは、少子化の問題もあって、ただそこに生まれたことに、その生命のみに執着しているように思えなくもありません。一生命を超えた「いのち」の尊さを実感していくところに、人の生まれてくる意味があるように思えるのです。
ただ生まれただけでは意味はありません、というより意味が見つかりません。ただ生まれて-生み出されて-、ただ生きて-生み出されたから生きて・・・では、何のために生まれたのかも、生きることの喜びも実感も薄っぺらいものでしょう。
生まれて、どんな「いのち」に出遇うことができるのかというところに意味が見出されてくるのだと思います。
「クリスマス」のとんだ勘違いから話が飛躍してしまいました。
「歳のサバをよむ」とかよくいいますが、だいたい根本的なところで曖昧なのです。暦自体、何かに基準を置いて、そこから地球が太陽の周りを何周したか・・・だけのことです。極端にいえば、人が何年生きたとか、若死にだったとか、それはそうなのかもしれませんが、たいしたことではないような気がしてきました。要はどんな「いのち」に出遇っているのか。出遇うことができるのかということです。真の「いのち」に出遇えたならば、若死にといわれようが「ありがとう」といって逝けるのでしょう。
ただし、そんな自己の実現にはほど遠いような「私」であることがはっきりしたにすぎません。

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穢土に生きる

2008年12月17日 | ブログ

真宗大谷派同和関係寺院協議会(以下「同関協」)が、宗派と協力して行った部落差別問題に関する実態調査。その後の継続調査として、同関協は毎年、全国の寺院に出向いて聞き取り調査を継続しています。
昨夕、同関協の役職者と解放運動推進本部の方が聞き取り調査におみえになられました。
お話するなかで、考させられることがいくつかありました。
そのひとつは「伊勢」というところに真宗の寺院があることの意味、です。
伊勢という土地は古くから「清め」を必要とし、またそれを全国に発進する役割を果たしたことは史実が物語るとおりですが、この「清め」によって生み出された「穢れ」を「浄化」させる機能が強く求められてきたところであるともいえます。
とはいっても「穢」がもともとそこにあって「清」が必要になったのではないでしょう。「清める」ために「穢れた」事柄がつくりあげられてきたわけです。
仏教はこの「穢れ」を「浄化」するのではありません。「穢れ」を生み出してきた「清め」のこころ、「清めなくてはいけない」的な発想を浄化させてくれるものだと思います。
極端な言い方をすれば、「清め」の愚行は如来の智慧によって「浄め」られるのだと思うのです。

「ない」ことの意味。
おかしな表現ですが、「ない」という事柄が持つ大切な意味を考えさせられます。
その代表が「清めの塩」でありましょう。
清める必要のない世界を「浄土」「浄らかな世界」というのであれば、「清め」を必要としないところに「浄らかさ」があるわけです。
「清めの塩」が「穢れ」をつくっているわけです。
ですから「浄土」を表現しようとしたときに「清めの塩」は「ない」というところに意味があるのです。
だけども「清め」が「ある」ときの場合と「ない」ときの場合を想定しなければ、「ない」ことの意味が成り立ってこないのです。
清めれば清めるほど「穢れ」を濃くしているわけですが、そのことに気がつかずに懸命に清めようとするところに、「浄土」のはたらきが見出され、そのはたらきによって気がつかされるのです。
人間がその営みの中で生み出した「清め」の発想は、人間の知恵を超えた如来の智慧によって「浄め」られるのです。
すなわち私たちの生きている社会はそのまま「清め」が生み出される「穢土」であるということです。
決して「清らかな人」と「穢れた人」がいるのではありません。「穢土」に染まっている私だからこそ「浄土」が求められてくるのです。
「穢土」では古来から「清め」の人と「穢れ」の人をつくってきてしまいました。その愚かさは浄土のはたらきによって浄められるのです。
そのことを思えば、やはり「塩」に象徴されるような「清めの行為」が「あった」ことによって、浄土が知らされてきたということもできましょう。
もともと「ない」ものには意味もないのです。そこに「あった」ものが「ない」というところに大きな意味があり、それを「なくす」という行為にこそ、浄土を求める生き方が見出されるわけです。
「穢土」に住まうことの自覚は如来の光によってもたらされます。如来の智慧の光です。「教え」に遇うということです。「真実の教え」がなければ真実に気づくことはできないのですから。それによって「清め」が強く求められてきた習俗にあって、それが「穢土」をカタチづくり、カタチづくられたその「穢土」によって、そこに今自分が住していることが知らされてくるのです。ただ、「清めと穢れ」を超えた世界が見出されなければ「穢土」が「穢土」であることに気づくことはできません。それが「浄土」の世界です。
そう考えてみると、伊勢に限ったことでなく「穢土」に「浄土」の教えが求められてくるのは必然です。日本の思想の中に、釈迦そして親鸞の教えが量らずとも求められ、「穢土」に住まうことに気づかれた人が、その教えを伝える道場を「寺」というかたちで私たちに残していってくれているのでしょう。
それと同時に、「穢土」に気がつくことができないところでは、ますます「清め」が盛んになってきます。「真宗の寺院」がここにある意味は必然なわけです。「浄土」が実現されたところには「寺」は要らないといってもいいのでしょう。

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今年も一言

2008年12月13日 | ブログ

ついつい一言。
今年の漢字は「変」だそうな。それを今朝の新聞で見て、私の場合「本能寺の変」に代表されるような事件的なイメージが浮かびました。
「変」といわれて、ピンとくる人もそうでない人もいることでしょう。
11万の応募の中で6千通というのですから、率にして5.4パーセント。100人のうち5人ないし6人が「変」が今年の世相に相応しいと選んだわけですが、まあそれ以外の94~95人はピンときていないといってもいいのでしょう。
多数決が原則ですが、なにか「変」な気がします。
「チェンジ」を訴えたオバマ氏が次期米大統領に選ばれたこと・・・云々がその理由として報道されていましたが、結局どれだけマスコミがこの話題を報道したかという「お父さんのためのワイドショー講座」的な結果なわけでしょう。(そういえば去年もそんなことを書いたような気が・・・)
まあしかし、そういうことですよね。私たちが知り得る社会の情報の発信元は、やはりまだまだテレビなのですから。
それにしても去年の「偽」は、去年中にすべての「偽」を出し切ったわけではなく、今年を予言するものでもありました。
今年の世相を表す漢字一文字は、そのまま来年を予言する文字としてみると、また味わいがあります。まあそれも当然のことで、「とき」はつながっているのですから。勝手に区切っているのは私たちだけのことです。
さて来年はどんな「変」な年となるのでしょうか。そして私はどんな「変」な年にするのでしょうか。
私たちは予測する生き物ですから、ついつい推し量ってしまいます。そりゃ来年もいろいろあるでしょう、政治も経済もあなたも私も・・・。
「変化」は「常」です。ですから「変」で当然なのです。
「2008年の変」「2009年の変」・・・・・。
「お変わりございませんね」は褒め言葉のようですが、「変わりのない」そんなつまらないことはないのでしょう。都合の良いことも悪いことも・・・です。

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The Funeral Maker

2008年12月08日 | ブログ

先日こんなことがありました。
亡き人の遺骨を埋葬したときのことです。墓所での勤行を終えて帰宅してからしばらくして喪主の方がわざわざお寺にお礼に来てくださいました。そしてそれまで遺骨が入っていた壷を差し出され「これはどうすればいいのでしょうか」と尋ねられましたので、「他にお使いになる予定(笑)がなければどうぞ処分してください」と申し上げたところ、「どうやって処分すれば・・・?」となりました。「壷は瀬戸物ですからそのように・・・、壷が入っていた箱は木製ですからそのように・・・」とお伝えしたところ、「自分たちにはできないので、お寺さんでお願いできないでしょうか」とおっしゃられました。理由はとにかく「あなた方ができないことをどうして私ができるのですか?」と申し上げました。
「やりたくない」のではありません。役目を終えた「モノ」であれば、燃える「ゴミ」と燃えない「ゴミ」として分別するだけのことです。それがなぜできないのか。それは普段私たちが何も考えずに出している単なる「ゴミ」とは違ったものとして見ているということなのでしょう。
今ひそかに自分の骨を入れるための壷を自作する人が一部で増えているといいます。これも都市の事情なのでしょうが、骨は埋めるよりもお墓のマンション化に伴って収納するケースが増えてきています。土に帰すのではなく壷のまま納めるのです。で、壷にこだわる?わけです。
たとえ葬儀屋さんが用意したものであっても、自分たちが手配した壷に間違いないはずです。葬儀屋さんを信頼?して任せているのですから。だから処分に困るのであればどうしてそれを手配したのかということになります。最近では壷を用意せず木綿の袋を用意される方も増えてきました。骨壺ではなく骨袋なわけです。これをそのまま墓へ埋葬します。これはひとつのエコロジーでもあります。だいたい葬儀ビジネスには使い捨ててしまうものが多すぎるのです。だからお金がかかって、葬儀もできない・・・という状況も生んでいるわけです。
葬儀屋さんもそういう意味で選択肢を広げ・・・というと商売の片棒を担いでるようですが、壷にするか袋にするか、いろいろ選択肢があっていいと思います。壷であれば事前におつくりいただけますよ、とか。骨袋などはご自身で経の一節や、好きなことばなどを書いてご自由にご用意していただけますよ、とか。実際にその延長には様々なコンセプトが提案され、商品化してプロデュースされているのです。それをひとつひとつ選びとっていくことになります。ただそれは人がつくってくれたイメージに個性を置き換えているに過ぎません。大切なことは代わりのきかない人生を、どう生きるのか、何を大切にしていくのかということです。
今、現実に葬儀が、たとえばデザイナーズマンションを選ぶがごとく、ハウスメーカーの建売りを選ぶがごとく、さらにいえばその間取りやクロス、カーテンを選ぶがごとく葬儀に係る「モノ」を自由に選択する、もしくはどれかに当てはめて選ばざるを得ない状況にきています。「モノ」にこだわった方の葬儀であればそのひとつひとつがこだわったもので飾られてもいいのでしょう。逆にそのすべての「娑婆でのこだわり」を離れたと受けとめるならば、何もこだわる必要はないのです。
いずれにしても亡き人を冒涜していく行いは誰も望みませんし、すべきではないのでしょう。ですが現実にその気はなくても、他人に壷を捨てさせたり、塩を撒いたり、世間に流されて「喪中」を年末に限って宣言してみたり・・・知らず知らずに亡き人を仏さまとせずに、穢れた存在にしてしまっている私たちでありますし、そういう「世の間」に身を置いているのです。

壷を預けにこられた方には「どうしてじぶんたちで処分できないと思ったのか、その理由がわかればご自分たちで処分しなければならない気になると思います」と申し上げました。
理由は聞きませんでしたが、もしそれが壷を割ったり、捨てたりすることで罰や祟りを恐れたりするのであれば、その罰を与えるのは誰なのか、誰が祟るというのか。つい先日、亡き人を仏さまとしていただいていきますという葬儀を勤めたばかりであるにもかかわらず、です。ただ、葬儀屋さんが勝手に用意したというのであれば、葬儀屋さんに尋ねてみるのもひとつです。壷を売った側としては、お客様が不要になったものを引き取ってくれるのでしょう。ですが、やはりあえて自分たちで責任もって処分するところに大事な意味があると私は思っています。それは墓石や仏壇でも同じです。新しいものを買い求めたときに、古いものを墓石屋さんや仏壇屋さんが引き取り処分するのが当たりまえのようになっていますし、そうしてもらった方がねんごろに処分してもらえるだろう、という期待もあるわけです。たとえ仏壇や墓石を新しくするにしても古いものを「ゴミ」にするのはその人自身です。
骨が入っている壷は「ゴミ」でないでしょう。「ご本尊」が安置された仏壇はもちろん。先祖の名が刻まれた墓石もしかり。仏壇や墓石を新しくした、というだけで満足はできません。それまで大事にされてこられた「もの」を「捨てた」ということを自覚しなければならないのです。尊いのは「もの」ではなく「こと」でありますから、手を合わせるという尊い事柄は継続されるわけですが、自分では処分もせずに人に処分させて安心しているとすれば、それは尊きことではないのではないでしょうか。
骨壺を割ったり、木箱を壊したり、またそのままきちんと分別してゴミに出したり、どちらにせよ自分たちでできるのはここまでです。あとは結局収集してもらい、焼却や最終処分は人に任せていくしかありませんが、責任を持って自分たちでできるところまでやるところに、亡き人を罰を与える存在にしない、祟るような存在にせず、ほとけさまと受けとめていく積極的な姿勢ではないでしょうか。
葬儀ビジネスは、本来遺族がやらなければならないことを奪っているともいえます。代金と引き換えにです。ビジネスを批判するつもりはありません。ですが「仕事ですから」の一言だけで何でも引き受けてしまうことがいいとは思えませんし、それを望む客の責任ももちろんでしょう。そしてそれを黙認している僧侶にも、です。

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