遊煩悩林

住職のつぶやき

人類の記憶

2007年07月25日 | ブログ

壊れたパソコンのハードディスクのデータ移行がなんとか無事に終了しました。私なんかの頭脳には到底記憶できない膨大で大事な記憶が取り出せるようになって一安心です。ただ、いくつかの設定とか、ブックマーク(お気に入り)は新しい装置に引き継ぐことができませんでしたので、それらはまたやり直しです。
さて、パソコンの記憶はそれ自体がなくならない限り、取り出すことができます。しかし人間はそういうわけにいきません。
ある年配のご門徒「最近もの忘れがひどくてな、忘れるといかんので、何でも書くようにしとるんや。だけどな、書いた紙をどこにやったか思い出せんのや」。切実です。
人の記憶は年齢や病気によってどんどん取り出せなくなっていきますし、命終すれば消えていくわけですが、パソコンとは違って、その数々の記憶と思い出、経験とか知識・教養などによって形成されたその人の生き方や、その人が大切にした人や物や事柄は少なからず身近な誰かによって引き継ぐことができます。
人間が生きる、つまり「人生」とは、その人が何を大切にして生きるかということが根本にあります。その最たる事柄が「本尊」として、本当に尊いこととしてあるわけです。ですから、「人生とは」とか「自分探し」とかというのは、つまり「本尊」に出会うということで、それを本当に尊い事柄としてその他さまざまな出来事に対処していくのが「人の道」ということができます。
今回のパソコン騒動では結局、新しいハードディスクに記憶を移し替えたわけですが、人間はそういうわけにもいきません。ですが記憶は消えても、本尊は残るのです。
考えてみれば、いま私にはお釈迦さま以来2500年のときを超えてナムアミダブツという本尊が伝承されてきたわけですが、その伝承の縁となってくれた、いわゆる「先祖」に対する私の記憶は大概いい加減なものです。
父親と母親、それぞれの祖父母、さらにそれぞれの曾祖父母、とさかのぼったところで14人全員の名前すら出てきません。10代さかのぼると1,024人、20代で1,048,576人、30代までさかのぼれば1,073,741,824人の親さまによって「本尊」が伝承されてきたのです。少なくともそこにはお釈迦さまや親鸞に関係されてナムアミダブツの法を聞いて生きられた方がいるはずです。
人の誕生の意味は「本尊」を見つけるところにあるのです。人の記憶は消えてしまいますが、人の歩みや歴史は残すことができます。人類の歴史が数多の人間の記憶と伝承であるとすれば、人類の記憶が「本尊」として見出されてきます。それをいかに自覚し、伝承するかというところに私の生きる意味があります。

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道具

2007年07月19日 | ブログ

17・18の両日、京都に行ってきました。行ったのは真宗本廟(東本願寺)ですが、100万人とも言われる祇園祭の観光客の1人にカウントされていることでしょう。
夜は久しぶりに木屋町を訪ね旧友たちと飲み明かしました。
四条西木屋町を上がったところにある「蛇の目屋 鱗」というお店は、新しいお店ですが落ち着いた雰囲気でゆっくり飲めるお店です。社長以下グループ各店の店長や従業員たちは皆むかしの仲間たちです。
京都お出かけになられれば是非お立ち寄りください。

さて昨晩、二日酔いで会議を終えて帰ってきたところ大事件が起こりました。
PCを立ち上げたところいきなりフリーズ。強制再起動をしたら聞きなれない警告音が鳴るだけで動かなくなってしまいました。マニュアルなどを見てあらゆる手を尽くしましたが、何ともならず。寺と個人の情報が詰め込んである装置が動かないと、時間も止まってしまったような感覚に襲われてしまいました。
で、今朝からお参りの合間を見てはappleのコールセンターに電話をし、最終的に修理しかないということになりました。Norisと名づけられたPCは、要入院を告げられたのでありました。
しかしながら、手術中にハードディスクが初期化されてデータが消えてしまうことを了承いただけますか?という問いには「はいそうですか」と容易には同意できません。
とりあえず、明日は名古屋の東別院の公開講座に出かける予定ですので、栄のapple storeにアポをとりました。norisのハードディスクの移行が可能ならば、Mac Miniという道具を手に入れようと思います。ほかにアイデアがあればどなたか教えてください。
浄土真宗に「祈り」は不要ですが、norisの記憶が無事であることを祈らずにはおれません。
幸い、ネット上の情報はいつでも更新できるので、坊守のPCを借りてつぶやきは更新していきたいと思います。
ところでパソコンだけでなく、人間にはたくさんの記憶と思い出が詰っています。この記憶や思い出はいつかその人の命とともに消えていくものですが、いま、私がここに生きていると実感できるのはこの数多くの記憶と思い出によってであることを思います。ここにまで流れてきた生命という命と、精神といういのちに思いを馳せたときに頭が下がります。
同時に、パソコンやOSという頭脳を交換するかのごとく、人間やいのちがただ利用するだけの道具になっていないかを考えさせられます。

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宗と選挙

2007年07月13日 | ブログ

あなたは主権者として日本国をどんな国にしたいと欲(おも)いますか?

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この国の主権者である国民一人ひとりが、九条をもつ日本国憲法を、自分のものとして選び直し、日々行使していくことが必要です。
(九条の会 http://www.9-jo.jp/

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「日本国憲法」は世界の他の国々のものと違ひ、自国の人々と他国の人々との血を流して書き上げられたものです。此点で日本の憲法は世界無類の作品だと云わなくてはなりませぬ。(中略)これは第一次及び第二次の世界戦争に参加した国々の人々が、実際に戦時中言語に絶した苦しみ悩み惨めさを体験したその心理のの結晶と論理の帰結とに外ならないのです。それ故に、此点に関しては、「日本国憲法」の中の此条項(第9条)は実に世界的意味をもつて最も大切なものと認めなくてはならぬのです。(中略)世界は実にその世界的理想の実現化をまづ日本に課したものと云ってよいのです。
(鈴木大拙「日本の霊性化」/1946大谷大学講演録)

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上記は「念仏者と平和 -改憲・教育基本法『改正』問題と私たち-」(真宗ブックレットNo.12)の児玉暁洋氏の「願生浄土と戦争放棄」の中に記されていた言葉の引用です。これらの言葉から感じられてくる事柄、それはまぎれもなく「憲法改正反対」です。
国の平和は武力を持ってまもるという立場と、武力によって保たれている平和を平和というのかという立場があります。核と戦争、そして平和という点で言えば、この議論になりますが参院選の争点はこれだけではありません。「年金問題」は国民の不安を煽るだけ煽って最も大切な問題を見えにくくしています。そんな現状にあって「念仏者」という立場に立つひとつの視点として、心に残る言葉を紹介しました。
私たち個々の毎日の取捨選択の一つひとつが国をカタチづくっているのですが、「主権者」としての自覚に立ったとき「私」は果たして何を願い何を求めるのか。「票」を投じる上で一人ひとりが真に問うべきことです。

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孤独と罪

2007年07月12日 | ブログ

今朝(7月12日)の中日新聞に

反戦僧侶名誉回復 真宗大谷派が決定

という記事がありました。
1945年に78歳で逝去された竹中彰元という真宗の僧侶。反戦を呼びかけたことで陸軍法によって逮捕され、宗派は布教資格を剥奪し僧分の位を下げるなどの処分をしました。宗派がこの処分の間違いを認め、処分を取り消し、功績を顕彰する催しが今秋行われるという記事でした。

戦争は人類の敵
日中戦争は侵略

といった趣旨の言動によって逮捕されたその時代状況と、それに同調して処分を下した宗派の体質を問わされます。1937年の逮捕、翌年の宗派による処分から名誉の回復に実に70年を要しました。
「戦後レジームの脱却」などと、もはや「戦前」といわれる今日にあって、宗派は新たな戦争の惨事を危惧して「憲法改正反対の決議」を、そしてその足がかりである教育基本法改正反対を決議しました。その態度は、戦争に協力した宗派の責任を表明した1995年の「不戦決議」による姿勢です。
決議では「惨事を未然に防止する努力を惜しまない」といいますが、今回の名誉回復にはあまりにも時間がかかり過ぎたのではないかというのが印象です。そこからは、どこまでも仏の法が主とならずに人間が人間を裁く「法律」を主とする体質が未だに温存されているようにも感じます。
宗派には、かつて戦争反対を訴えて僧籍を剥奪された僧侶もいます。それらの方々の信念に思いを馳せたときに、そのような時代社会の中で貫いていけるものを果たして持ち合わせているのかが問われてきます。
「念仏者と平和」という真宗のブックレットにこんなエピソードが記されていたのを思い出しました。「アメリカの原爆製造チームの中心にいたオッペンハイマーは、最初の核爆発の実験に成功したときに、『物理学者は罪を知ってしまった。それはもう失うことのできない知識である』という言葉を吐いたといいます。(中略)彼はしかし、その当初あの時代のアメリカの『原爆の父』と言われながら、次の核融合爆弾の製造を拒否して、孤独に追い込まれ、孤独のうちに死んでいました」。
反戦を訴え続けた住職らもまた、念仏とその信念に貫かれた人生であったとはいえ、同朋であるはずの宗派・教団からの処分の中、孤独の中で死を迎えていったことを思うとき、自分はこの孤独を受け入れられるだろうか、また逆に同朋の孤独を見殺しにしてしまう自分ではないかと問わされます。

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政治と宗教

2007年07月10日 | ブログ

通夜から帰宅するとお茶の間ではNHKのクローズアップ現代が放送されていました。
内容は

巨大教会が政治を動かす-アメリカからの報告-

と題したものでした。

今、アメリカでは「メガチャーチ」と呼ばれる巨大教会を拠点に信者が急増。来年行われる大統領選挙にも影響を与える勢力として注目を集めている。メガ チャーチはショッピングモールのような施設にレストランから託児所まで備えた一種のコミュニティー空間。格差や競争で分断された人々が集える「場」となっ ている。これまで宗教保守の牙城だったメガチャーチだが、信者の急増によって「中絶反対」「同性婚反対」だけでなく、「温暖化」や「貧困」といった問題も 重視し、政策的には民主党に接近。"宗教に熱心な人=共和党支持"という構図が変わりつつある。宗教と政治が密接に絡み合うアメリカで、早くも過熱する大 統領選の知られざる側面に迫る。(http://www.nhk.or.jp/gendai/)

この「メガチャーチ」については、実態についてよく知ってから一考したいと思いますが、参議院選挙を控えて宗教と政治について少し考えさせられました。この時期にこの番組が企画されたのは、もちろん大統領選の側面ということなのでしょうが、日本の参議院選挙を見据えてという意図を感じます。
「政教分離の原則」といいますが、靖国問題や憲法改正、公明党とその支持母体の関係、もっと身近な例でいえば公的施設の建設現場での「地鎮祭」の問題など、複雑な要素からその解釈がとても難しい問題です。「政教分離の原則とは?」と問うたときに、つきつめていけば国家権力によって信教の自由が侵されてはならないという憲法第20条にいきつくのですが、どの時点で信教の自由が侵されるかの解釈となるとこれまた明確な基準を見出すことは不可能に近いと思います。
参院選を控えていま思うことは、一人ひとりの有権者の「宗」によって「票」が投じられるということです。たまたま特定の宗教に属していることから、その視点でさまざまな社会問題をみてきたということはもちろんあるのですが、では所属する宗教団体によって「票」を投じるわけではありません。「宗」というのは、ここでは「何を願いとするのか」ということです。「何を本当に大切なこと」として、「何を願い」「どんな世界を求めるのか」ということです。その人が「何を本当に尊いこと」としているのか、つまり「本尊」が問われているのだと思います。
家族がどこそこの党員だからとか、世話になったからだとか、あの候補者の人柄が好きだからとか、会社の関係で「しょうがない」だとか、もちろんどこそこの宗教団体に所属しているから、という理由で票を投じるのだとすれば、それは本当に尊い事柄が見出されていない証拠です。
何が私たち一人ひとりの本当の利益であって、望む世界なのか。ただその時その時の自分勝手な都合だけでは、どこまでも状況に流されていくばかりです。政治は人間の営みである以上、個々の「宗」とは切っても切れないものなのです。ただ、「数の論理」で、特定の「宗」が優遇されたり、一方で弾圧されたりしてはなりません。それが「政教分離の原則」でありましょう。

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