遊煩悩林

住職のつぶやき

どんな鏡を磨くのか

2018年07月08日 | ブログ

彼が殺される1週間前に詠んだ「合掌」という詩が掲載されています。

http://yoshi392.sakura.ne.jp/si.html

皮肉にも各地が豪雨による災害を被っている七夕の夜に、京都の岡崎別院で通夜が行われたと聞きました。

時の法務大臣が

「判断する上では、さまざまな時代の中のことも、そしてこれからのことも、ともに考えながら、慎重の上に慎重に、重ねて申し上げますが、鏡を磨いて、磨いて、磨いて磨き切る気持ちで、判断いたしました」

という彼らの処刑。

いま、そして「これからのこと」を考えていくのであれば、どうして高校生であった彼が入信し、ハタチそこそこで集団殺人に加担することになってしまったのかを、生きて語ることが彼にはできました。

彼らの処刑に「被害者の会」世話人の代表の方が、

「井上、新実、土谷、中川、遠藤、早川という名前を聞いたときは動悸がしました。今後のテロ防止のために、もっと彼らにはいろいろなことを話して欲しかった。専門家に、死刑囚にいろいろなことを聞いて欲しかったので、それができなくなってしまったなという心残りがあります」

と。

被害に遭われた方から発せられたこの「心残り」が、「これからのこと」を物語っているように感じます。

私たちの宗派が作成した「死刑問題に関するリーフレット」に、元参議院議員の中山千夏さんの言葉が寄せられています。

http://www.higashihonganji.or.jp/release_move/leaflet/pdf/death_penalty_issue.pdf

死刑は、人を殺してはいけませんというルールを壊すもので、殺人を例外的に正当化することで治安の悪化を招く、と。

「地下鉄サリン事件」発生当時大学生だった私は、その年の阪神大震災で学年末テストがどうなったかは記憶に残っていませんが、春休みに山梨県の長坂というところで受けていた「合宿免許」中にテレビで事件を見ました。

いま、オウムに変わるカルト集団が変わらず、そうとも知らぬ若者を勧誘している今日。

いま思えば、彼が私で私が彼であったかもしれません。たまたま縁がなかっただけのこと。

そんな感覚を思い起こしながら、彼を知る私たちの仲間が行ってきた死刑回避を求める活動http://yoshi392.sakura.ne.jpに賛同して法務大臣宛の署名をしました。

今さらですが、ここでは署名をした者としての言い分をつぶやくのみです。

国家による殺人に何もできずに加担する一人として。

この集団処刑には、大臣が語ることができない意図と、もしかすると彼女も知り得ない背景があるであろうことだけは認識しておきたいと思います。

http://blogos.com/article/309390/?p=1

同時に、数日に及ぶ豪雨で被災された方々に、未だ行方不明の方がおられる段階でお見舞い申し上げるのはいささか不謹慎と存じ、ここでは。

ただ、被害が予想されるタイミングということは意識させられます。

人的被害を免れないことが想定される特別警報は、自分の身は自分で守りなさい(自己責任)にすぎず、自治体レベルで手を打てない状況を作り出すこの国はいったい何を優先して何を守っているのかと。

「鏡を磨いて、磨いて、磨いて磨き切る気持ち」の判断。その鏡は何を写す鏡なのか、何にピントを合わせた鏡なのか。

どんな鏡を持ち合わせているのか、如の鏡・自然の道理に確かめなければなりません。

多くの人を見殺しにしているとも気づかない私が。

南無阿弥陀仏

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1 コメント

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宗派声明 (釈了典)
2018-07-10 09:54:40
真宗大谷派(東本願寺)が「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」を発表しています。

http://www.higashihonganji.or.jp/news/declaration/24873/

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