遊煩悩林

住職のつぶやき

ウデンウデン ウタクウタク

2023年05月22日 | ブログ

おかげさまで永代経法要を勤めさせていただきました。

ご参詣の皆さま方、ご懇志を寄せていただいた皆さまに対しましてお礼申し上げます。

法要の記念に、東本願寺出版発行の『終活と宗活』という冊子を施本させていただきました。

https://higashihonganji-shuppan.jp/

法要を勤めるにあたって先に触れたとおり、「永代供養」と「永代経」が「ごっちゃ」になっているのではないかという印象。

ざっくり言ってしまえば、永代供養は終活、永代経は宗活という括りになるのではないかと。

さて、法要では名古屋の荒山優さんにお話を頂戴しました。

讃題は「四法印」。

仏教徒には言わずもがなの4つの法印について、やさしくご教示いただきました。

諸行無常:ありとあらゆるものごとはすべて移り変わっていく

諸法無我:この世のどこにも「私」はいない---誰かとの関係性によって「私」は変化する

一切皆苦:すべての出来事はままならない(思いどおりになることはない)---差異を認める---他者の尊敬

涅槃寂静:おさとりの境地は音ひとつなくしずかである---満ち足りた状態

とのご解釈から、ここでは詳しく記せませんが、それぞれ

諸行無常とは「ありがとう」

諸法無我は「おかげさま」

一切皆苦は「ごめんなさい」

涅槃寂静は「ごちそうさま」

といただいています、とのご自釈を表現してくださいました。

そして、なむあみだぶつというお念仏にそれがすべて集約されてありますね、と。

なるほど、なむあみだぶつの中身は「ありがとう」「おかげさま」「ごめんなさい」「ごちそうさま」だとすれば、私たちが仏さまに向かう態度が問われてきます。

仏さまに向かう本性が、「御利益」を求める心になってないか。

願い事を叶える宗教と事実に目覚める宗教、つまり都合がよかろうが悪かろうが、ありとあらゆるままを「いただきます」と。

「永代供養と永代経」「終活と宗活」の違いに通じるものを感じたのでした。

なむあみだぶつのご利益とは。

不都合は受け入れられない「私」が照らし出されます。

タイトルの「ウデンウデン ウタクウタク」は、優さんがお話の冒頭に紹介してくれた『無量寿経』のことば。

有田憂田 有宅憂宅

田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。

(田なければまた憂えて田あらんと欲う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。)

あったらあったで、なければないで憂いてばかりの姿は、あったらあったで、なければないで満足の世界から教えられる。

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ごっちゃ

2023年05月13日 | ブログ

 

jyosyoji.info

 

常照寺永代経のお知らせでございます。

真宗門徒における「永代経」が自明の如くあった時代は隔たり。

「何ですか?それは」とのお尋ねもしばしば。

ことごとく日ごろの住職のお伝えの乏しさを実感しながら。

釈迦のおみのりを、宗祖のおねんぶつを、いついつまでも永代にお伝えください。

との願いを元にいただいたご懇志によって営まれる法要。

世間でいう「永代供養」とごっちゃに考えるとややこしくなる。

施主さまの故人に対する「永代供養」の意を、寺は上記のニュアンスの懇志として受け取る場合があります。

施主さまは、これで故人の供養をお寺にお任せできたと安堵される一方、寺としてはいよいよ、永代経のもともとの願いをお伝えしたい。

終わったと思ったら終わってなかった。

そんな住職の内面を吐露してようやく、他者への供養に決着して、いよいよ私の往生が課題化されてくるという展開がみえてきた。

さて、釈迦のおみのり、宗祖のおねんぶつを今のこの世にあって、この私が聞くとは。

まず私が聞くしかない。

ともに聞かせていただきたく、お勤めさせていただきます。

どうぞどなたさまもお参りください。

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有ること難し

2023年05月01日 | ブログ

どこが賑わったかと、大型連休の地方のニュース。

この地の圧倒的な観光スポット「おかげ横丁」。

事前の報道では、お肉屋さんはコロッケを1日何千個売りたい、と。

とある店舗の店長さんは「(観光客が押し寄せる)覚悟はできてる」と。

いつかの飲食店の従業員さんは「来るなら来い」と。

そこに職するものの現実的なことば。

「店」対「客」の構図。

集客横丁。

集金横丁。

そこに「おかげ」はあるのか、と。

この地で商いができるのは、神宮の威光のおかげというのだろう。

「おかげ」はリスペクト。

お商売される方を批判したいのではなく、報道の仕方を言いたいのでもない。

どちらかといえば私は「客」側でもあるし、従事される方から周り回ってお布施を頂戴する側でもあり。

ただ「おかげ」が欠如した群衆の密集地には恐怖を感じるのだ。

その構成員の一人ではあるのだが。

店も客も互いにリスペクト。

売る方も買う方もおかげさま。

それによって世間がうまくいって「三方よし」と。

近江商人の心得。

近江商人を代表する伊藤忠兵衛は篤信の門徒だったと伺っている。

https://diamond.jp/articles/-/283337

「おかげさま」の語源は「お蔭」。他力の信仰のことばだ、と。

さて、思いを馳せて

なんでもあたりまえにしてしまうと

ありがたさを見失ってしまう

荒山優

昨年の永代経の法話メモから。今月の掲示板に。

外宮へ向かうお寺の山門前の渋滞の車列から目を凝らしていただければ、と。。

私は何を有り難がって生きているのだろう。

何が、有ること難し、か。

「観光」は光を観ると。

店だけでは成り立たぬ、客だけでも成り立たぬ。

商品だけでも金だけでも成り立たない。

提供する側もされる側も。

店と店。

商売敵とはいってもお互いさま。

客と客。

渋滞に割り込まれてもお互いさま。

レジの列に他の客が割り込んでこようが。

「おかげ」のない修羅場。

オレの伊勢うどん、オマエとっただろ。

何が誰のか。

そもそも。

「智慧の光に遇うこと難し」の私を観るのだ。

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