遊煩悩林

住職のつぶやき

恩知らず

2016年01月18日 | ブログ

常照寺の報恩講に向けて仏具のおみがきをしました。

おみがきを終えて新年会。あるご門徒さんが「おみがきはただ仏具をきれいにするだけやないですね。心をみがく、信心をみがくっていうことですね」といって酒を注ぎにきてくれた。

「信心をみがく」ってどんなイメージですか?と尋ねると、「うーん、きれいに見えた仏具もみがいてみればやっぱり垢がついとる。ワシら一所懸命ホトケさんに手を合わさせてもらっても、やっぱりキタナイ心が混ざっとるんとちゃいますか。だからその汚い心をもっとキレイにしやなあかんのとちゃいますか」

その時は「ほな、みがいて満足するだけやなくて、頑張って報恩講に参らんといけませんね」と、そんな会話でした。

仏具を磨いたらキレイになるのは世間ではあたりまえのことです。だけど世間を客体とする真宗仏教で「信心」つまり信仰心をみがくというとどんなのか。

親鸞はご消息(お手紙)に、師の法然上人は「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と、つまり浄土の教えに生きる人は愚者になって往生するのですといっておられたといいます。

成仏、仏になることを目的とする仏教において、浄土の教えからすれば往生成仏するのは「愚者」にならんといかん。

浄土真宗で「信心をみがく」というのは、「愚者」になるということ。世間のイメージとはかけはなれてますね。

阿弥陀如来の信仰を篤くするというのは、必ず救う、必ずたすけるという如来の本願力を疑わないということにつきます。自分の努力や修行で往生するのではない、如来の他力によって往生成仏する。

オレはこれだけホトケさまのお飾りをピカピカにしたといって功徳を積んだ気になるのが世間でいう仏教だとすれば、真宗の仏教は、仏具を磨けば磨くほど、キタナイものが露呈してくる。

磨けば磨くほどピカピカにかがやくお荘厳。鏡のごとき仏の荘厳が映しだす私のこころの愚かさをはたして自覚することができるか。

阿弥陀如来は、自分の力では何とも救いようのない者をすくいとるはたらきです。救われようと努力を重ねるものを救うのではない。なぜなら、他力の救いを信用せずに自分の力を信用するのですから。つまり自力を信じるというのは、他力を疑うことに他ならない。

阿弥陀さまが必ずたすけるというのにそれが信じられない。だけどそれを愚人というのだ。

大丈夫だ。阿弥陀にかかればみな愚人だった。必ずたすかる。

さて報恩講。恩に報いるというが、まず恩を知らねば。知れば恩を忘れていたことがわかる。忘恩に気づくことができる。

恩知らずなんだ。いつも私は。

報恩講のご参詣をお待ちしています。

 

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成人

2016年01月02日 | ブログ

大晦日から新年にかけて112吼の鐘の響きに聞きながら、続けて修正会をお勤めしました。

その感話で言ったことですが、伊勢の町はどなたか「偉いさん」をお迎えする前に主要な道路が舗装される。

他にいっぱい凸凹の道があるにも関わらず。

お正月には、首相はじめ多くの「偉いさん」が伊勢を訪れます。今年はサミットもやるという。

数年先には東京オリンピックだと。頑張ろう日本。一億総活躍だと。

 

いつもご無沙汰ばかりしている親戚や縁者に、せめてご挨拶ができる年末年始。妻の祖父は100歳を数えた。

「一億総活躍」の一億人は誰のことで、だれが除外されているのだろうかと考える。

「一億総活躍」という響きを、「もっと頑張らんかい!」と聞いてしまう私に問題があるのかもしれませんが。

頑張れる人は頑張っているし、もうこれ以上頑張りようのない人もいる。

活躍なんてできなくてもいい。報われなくても頑張ってもいい。そりゃ儲かった方がいいけど、儲からんでもいい。

ただ、ただ、何のために頑張っているのか。「国家」のために頑張らなくてはいけないのか。

だとしたら私はお国のために生まれ、お国のために生きているのか。

私はただ、生まれてきてよかった。誰と比べることもなく私が私であってよかったと言えるようになりたいと思う。

自分が自分であるために頑張る。それでいいと思う。自分のことばっかりだけどそれしかない。

「人のために」「社会のために」「子や孫のために」といっても全部じぶんのためだ。

人偏に為で「偽」だ。

ただ、ただ、ほとけさまに手が合わせることができる人でありたいと思い、頑張れなくてもいいよ、ほとけさまに手が合わさることができる人であってほしいと、こどもたちに伝えた。

ほとけさまに手を合わせることで人は人間となる。人となる。「成人」とはそういうことだろう。

これまでいろいろな教えをいただいてきた。人間を忘れていることを教えられ続けてきた。教えをいただいて人間になっていきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

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