遊煩悩林

住職のつぶやき

執行猶予

2011年05月27日 | ブログ

50年に一度の親鸞聖人の御遠忌法要が28日の結願日中法要をもって御満座を迎えます。
御遠忌法要を迎える前にも記したことですが、宗門挙げて取り組んできた法要が終わり、その後にオツカレ以外の何が残るのか、残ったのかということを尋ねていくための猶予が、親鸞の祥月命日である11月28日までご門徒の一人ひとりに与えられているようにも思います。

言い換えれば「君たちはいったい何を大切にしていくのかね?」という問いを、このような状況下での御遠忌法要を通して問われ、そのご命日にはっきりと「はい、このことを大切にしていきます」と応えていくことが求められているような気がします。

とくにこのたびの御遠忌は、準備に準備を重ねてきたあげく、震災によってそれらの予定がことごとくキャンセルされていくなかで勤められました。
予定を立て、準備を重ねてきたにもかかわらずキャンセルされたことの中には、誤解を恐れずにいえば、いざとなったら取り止めるようないわば付録的な催事もあったのではないか。そして何があっても生き残った者が果たしていかなければならない大切なこともあったと思うのです。
何が何でもこのことが大切だということを言い切っていけない自分というものを感じます。

また、御遠忌の記念事業の一つとして東本願寺の御影堂が御修復されましたが、それはつぎの100年をみていく事業だと教えられました。
では、この法要を終えて私たちは、50年後の800回御遠忌、250年後の1000回忌に残していかなければならないことは何なのかを自身の上に確かめておかなければなりません。
思えば50年前、700回御遠忌の翌年に真宗同朋会運動という信仰運動がスタートしたと聞きます。それは15日間で100万人ともいわれる参詣を得ながらも、それだけで満足するわけにはいかないことが確かめられてのことだったと思います。

だれかが「つぎの世代がこの問題にとりくんで、解決してくれるだろう」と予言したとすれば、それはたいていの場合、一種の願望夢にすぎない。

『反哲学的断章』(丘沢静也訳)ヴィトゲンシュタイン
「けさのことば」(中日新聞2011.5.27)から

震災によって、つぎの世代に残していくのは、私たちの欲望が結集した核のゴミだけではならんことははっきりしてきました。お寺の存在自体が負担の重いゴミにされつつある風潮の中で、厳しくとも変わることのない確かなことと、それを知らせる場をきちっと確かめ残していくためにも、どのような態度で11月28日の宗祖のいのちの日を迎えるかということが御遠忌法要から問われてきたことです。

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宗教的バリアフリー

2011年05月25日 | ブログ

戦国時代、大阪城がまだ石山本願寺であったころ、浄土真宗は一向宗と呼ばれ信長が手を焼くほどの一大勢力でした。
当時、日本には多くのキリスト教宣教師が訪れ活動をしています。
その宣教師の活動が「キリシタン文書」としてヨーロッパの教会に報告されています。

「キリシタンが見た真宗(真宗海外史料研究会編集/東本願寺出版部)によると、同じ仏教徒でも禅宗については「これらの人々は偉大な瞑想家」であり「彼らを論破するために学識をそなえていることが必要」というのに対して浄土真宗については「これらの人々は甚だ無知で」「彼らを論破することは容易」と評され、さらに「邪悪な宗派」「デウスの教えが抱える最大の障害の一つ」「大阪の領主(顕如/本願寺法主)は、日本にある最も有害な宗派の首領」など、コテンパンに表現されています。
しかし、このコテンパンなところが重要なのでした。
宣教師は当初、日本人をキリシタンに改宗させるには権力者階級や知識階級といわれる貴族をキリシタンにすることが重要だと考えたようですが、実はそうでなかったのです。「無知で論破することは容易」だと考えていた農民をはじめとする庶民の大多数が真宗門徒であり、信仰あつい人々だった事実があのようなコテンパンな表現に示されています。

さて時代は下って江戸時代、キリシタン信仰が禁止され、いわゆる「寺壇制度」がしかれた幕藩体制のなかで「天子天台、公卿真言、公方浄土、禅大名、乞食日蓮、門徒それ以下」という表現があったといわれています。(「仏の名のもとに」東本願寺出版部)
これもあまりの表現ですが、そこには当時の身分制度の固定化にいかに宗教の思想が利用されたかということと同時に、とくに重要なのは、社会の最底辺に位置する人々の救いは浄土真宗以外にはなかったことを意味しています。

何が言いたいのかというと「宗教的バリアフリー」の精神を浄土真宗が担っていたということです。
「仏教を学んだものは救われる」「修行をつんだものは救われる」というのはどこまでも条件付きの救いです。
仏教を学ぶことができない、修行をつむことができないものはどうなのか、ましてや女人は救われない、障害者は救われない、殺生者は救われないと条件付きの救済を説く排他的な仏教のなかで、それらの救いを説いたのは親鸞だけであったといってもいいのでしょう。
「バリアフリー」は人を選びません。
老人でも病人でも、女性でも障害者でも、そして健常者といわれる人でも、です。
つまりそれは「天子でも」「公卿でも」「公方でも」「大名でも」「乞食でも」「それ以下」でも、ともに救われることを意味しています。

「罪」ということを重要視するキリシタンが、いかなる罪をも救いの原理とする真宗の教えを知った驚きと、自らの信仰の限定性に気づかされた感情があのコテンパンな表現に表されているのでしょう。
そしてカトリック系の宣教師は真宗が「ルーテルの説と同じ」とまでいうのです。
「ルーテル」とは、宗教改革のマルティン・ルターです。

キリスト教より数世紀前に誕生した仏教ですが、その宗教改革も数世紀はやく行われたのでした。
何も浄土真宗が他の仏教よりも優れているということが言いたいのではありません。仏教がキリスト教よりもすすんでいるということが言いたいのでもありません。問われるのは、改革によって「救い」が私のところにまで届けられているのもかかわらず、改革以前の限定的で排他的な「救い」を尊びたがるような我が心です。

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ユーラシアダイナミズム

2011年05月24日 | ブログ

Yoma

本堂の向かって左側の余間に奉掛してある二幅の掛軸がご修復されて、色彩鮮やかに戻ってきました。
何十年もの間に表装は煤け、破れ、紐は千切れ、湿気と乾燥の繰り返しで絵具が剥がれ・・・もったいないことでした。

さて、ご門徒の皆さまにはここで問題です。
それぞれどなたのご絵像でしょうか。

答えはコチラから
常照寺ホームページ
http://www17.ocn.ne.jp/~jyosyoji/buddhism/basic.html

「余間」。
「よま」というわずかなスペースですが、そこはユーラシアダイナミズムが表現された空間です。

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節電グッズ

2011年05月17日 | ブログ

無断転載ご免なさい。

2011517cyunichi01

2011.5.17中日新聞朝刊

「ああ ぞっとするだろうね」佐藤正明 作

庶民には手が出ない値段でしょうね。
電源が繋がっていないところに悲しみの現実が表現されているように思いました。

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もうひとつの目線

2011年05月17日 | ブログ

日本の凶悪犯罪は戦後減少傾向にあるということについて何年か前にここに記したこと(遊煩悩林2008.6.14http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji/2008ですが、それから数年経った今もうひとつ持っておかなければならない視線についての報道がありました。
それは「刑法犯の認知件数」を実際より少なく見せる統計上の操作が行われていたことが愛知県警で発覚したという記事(中日新聞2011.5.16夕刊)です。
いわゆる凶悪事件がどれだけ含まれているのかはわかりませんが、少なくとも前年比12.1%減とした2010年の認知件数も疑問だといいます。
愛知県警は、2003年に戦後最悪の22万件の刑法犯を2015年までに10万件以下に抑えることが中長期目標といいますが、増えたり減ったりで思うようにいかず、2010年度は当初5%減の設定が8.5%減に強化されていたそうです。
結果、実際に発生した刑犯罪を少なく見せかけ、ノルマ達成のための統計が操作されたということです。
安心安全に対するイメージは思ったほどではないことを知らされている今日、もはや私たちには操作された情報しか与えられず、想像力もイメージも奪われ操られようとしている・・・操られているという目線を確かめておかなければならないと思います。

20110510_112140_3 そういえば数日前、日本総合研究所の寺島実郎氏の話を聞きました。
関心事としては遊煩悩林5月13日http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji/2011/に記したとおりですが、その中で聴講者の原発に関する質問に対して「日本だけが原発を撤退しても、近隣諸国が推進していては意味がない。日本は原子力に対する技術を維持することが重要だ」と。推進派でも反対派でもなく、原子力に関する技術力を持ち続けるべきだと考える、と述べておられたことが印象的に残っています。
六ヶ所のプルトニウムの終息に要する数万年のことを考えればその技術力は必須ですから、当然だとも思います。
それを前提として解釈すれば、浜岡だけでは駄目だよ、国内だけでも駄目だよ・・・オバマ大統領のいう「核廃絶」は全世界の原発もNoのはずでしょう。現在の技術では対応しきれない廃棄物を抱えているのですから今後の技術的な推進力としてはもう充分なはずです。
だけど近隣諸国に原発がある限り、その技術力は持っておきましょうというのです。
六ヶ所の核処理施設にはIAEAの担当者が四六時中、張り付いているともいいます。世界が日本の核武装を疑っているということです。
一方で全世界で核の平和利用をしているのは日本だけだとも指摘します。平和的利用技術を有する国としてその技術力は保持するべきであり、その範囲内で原子力発電を何割かの割合で維持するべきではないかとそのスタンスを表しておられましたが、氏の真意はあまりにも広い視野ですから量りかねます。
ただ、日本が平和的な利用目的のみで技術を持つということの重要性を示しておられます。日本がそこから方向転換するようなことがあれば、日本は直ちに国際社会から某国々のようなポジションに立たされると。
しかし、核を保有する国々がそうであるように、それはどこまでも転用可能な代物です。
このようなことばを思い出しました。

戦争は戦争の顔をしてやってこない
「美しい国づくり」という顔をしてやってくる

遊煩悩林2009.3.28http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji/2009/

危機的状況にこそ「美しい国づくり」とか「復興」「再生」のレトリックに絡めとられないよう一人ひとりが注意しなければならない、そんなご指摘をいただいたようにも感じます。
「美しい国づくり」という改憲志向はそのまま戦前思考であり、それに乗っかっていくことはそのまま権力に巻かれていくことを快感とする、長いものに巻かれることでしか安心を得ることができない「いのち」を放棄していく発想です。
ご批判を承知であえていうなら、それは「国家」を主体として個人の主体性もなく、私のいのちに対する誇りも自信も見出せない(国の)奴隷的発想ではないでしょうか。

どこまでも国の奴隷でありながら、文句ばかり言いたがる私だからこそ・・・です。

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