遊煩悩林

住職のつぶやき

それっていいんですか

2016年05月26日 | ブログ

「世界経済の安定」というテーマの会議ならば、静かにしておこうかと思いましたが。

いちおう神宮にもっとも近い場所にある真宗寺院のひとつ、ひとりの住職として、「それっていいんですか?」「大丈夫ですか?」と。

G7サミットの開催に伴って安倍首相が神宮宇治橋で各国の首脳をお出迎えする演出をされました。

どこで出迎えてもいいわけですが、わざわざ。

お出迎えだけではなくて、橋を渡って「正宮」へと。

NHKでは「訪問」と表現して、参拝シーンは画像がスタジオに戻されて映されてはいませんでしたが、民放では堂々と「参拝」と表現されています。

正月恒例の神宮参拝についても、ここで何度かつぶやいていますが、あるご婦人の「靖国神社は駄目なのに伊勢神宮はいいんですか」という問い。

遊煩悩林2014.1.22 http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/79d3c47c1084b2ea3b4f900c3c6935a5

私たちはもう少し敏感にならなくてはいけないのではないかというつぶやきです。

「靖国」とは質が違うといいますが、戦時中は国威発揚の精神的支柱として機能した(利用された?)伊勢の神宮です。

地元が注目されることは嫌な気はしませんが、「そんなもんだ」と片付けずにその「問い」に一人ひとりが向き合わなくてはならないことを思います。

時に沖縄の「地位協定」の問題、米大統領の広島訪問に関する「核」の問題も同じ線上にある「問い」ではないでしょうか。

600億円の税金を費やす「会議」です。

真宗の寺院が神都に開かれた意味を自身に問いながら、その責任を自覚して敏感に静かに「それっていいのかな」とつぶやいておきたいと思います。

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ラッキョウの皮

2016年05月04日 | ブログ

D'où Venons Nous Que Sommes Nous Où Allons Nous

P. Gauguin 1897

言わずと知れたゴーギャンの名画に付されたタイトルです。

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか

問い方は様々だろう。私たち一人ひとりがこの世に誕生した意味は、一人ひとりがこの問いを明らかにしていくところにあると言ってもいいと思っている。

『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』 (森達也 著/筑摩書房)をようやく読み終えた。

第一線の科学者に「いのち」の根源を問う内容でしたが、枕元に本を置いて読んでいると、科学的な専門用語が並んでくるとすぐに眠りに落ちることができた。

時折、目の覚めるような言葉が目に飛び込んでくる。

・ヒトが自分の脳を使って「自分って何だろう」と考えているのは、言ってみればオナニーみたいなものです。

・「自分って何だろう」と考えること自体、滑稽な話なのです。(略)「自分って何だろう」と考え始めた時点で、その上の自分、さらにその上の自分という多重の薄皮が発生してくるのは当然の成り行きです。そうやってループを走り始めてしまったらもう私たちの負けなんです。それは身から出た錆。思考の垢です。脳の中にあるのは神経活動のイオンの流れ以外の何ものでもない。そんなイオンの渦に「自分って何だろう」という疑問を持ち込むこと自体がおかしくて。

・言語の副作用として「自己を問う」という虚構トラップが生まれて、私たちはその罠にまんまとはまってしまっている。(略)延々と終わらないのに、実体がない。ラッキョウの皮を剥いていったら身がなくなってしまうのと同じです。行き着く先の空虚さが明確であるにもかかわらず、それでもなお問いたくなってしまうというのは、トラップとしか言いようがない。

・「我々は何ものか」については、「宇宙創生期に物質と反物質がほとんど消える中で残されたほんの僅かな物質の末裔である」との解答が導き出される。

このような表現にときどき目を覚ましては言葉を追った。

「オナニー」とか「トラップ」とか「ラッキョウの皮」とか、こうした刺激的な表現ではありますが、いかにこの問いが「難中之難無過斯(難中の難、これに過ぎたるはなし)/正信偈」なのかを物語っているような気がします。

「難中之難無過斯」は、いってみれば絶望的表現です。この問題をクリアすることなど到底できない。

だけど正信偈の場合はそのあとがある。

印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機

「印度・西天の論家、中夏・日域の高僧、大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす」と。

インド、中国、日本の高僧がたは、釈迦の出世の意味をあらわして、阿弥陀如来の本願が「いま」「ここ」に存在する私のためであることを明らかにされたというのです。

生まれたことの意味。どこから来てどこへ行くのか。自分とは何か。

ただ死に行くためだけに存在しているのではない。絶望の中で生き抜いていかれた方々の智慧を蒙って、堂々と問い続けていきたい。

私たちは決して答えを発見するために生まれてきたのではないかもしれない。問い続けることが私たちが生きることの意味ではないかと思いつつ、今月の掲示板にあげてみた。

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