遊煩悩林

住職のつぶやき

国畜を生きる

2015年02月18日 | ブログ

「私は、70年近く憲法を支持してきました。現在の首相は憲法を停止しています。しかしながら、憲法が停止されているという自覚が多くの日本人にはありません。首相によって停止状態になっている憲法を生きた状態に戻すよう、裁判所に求めたいのです。」

これは2月2日に横浜地方裁判所で行われた秘密保護法違憲・横浜訴訟の第2回口頭弁論において伊藤成彦中央大学名誉教授の意見陳述です。
憲法停止状態。なるほどISILが日本を敵国とみなす根拠でもありましょう。
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20150217/Bizjournal_mixi201502_post-2552.html

先月末の常照寺の報恩講で、講師の片山寛隆先生から憲法第99条についてご指摘がありました。

第九十九条【憲法尊重擁護の義務】
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

誰が憲法を守らなくてはならないのかという問題提起でした。現憲法下では当然、首相その人がこの憲法を尊重し擁護する義務を負っているというものです。

そしてこの伊藤教授の「憲法停止状態」の指摘は、まさに憲法擁護義務を負う首相自らがそれを否定している現状を的確に言い当てているように思います。
「違憲」という言葉を様々なジャンルでやたら耳にすることが多くなったような気がします。憲法と現状の齟齬がますます顕著になっている中で、その溝をワザと深めているようにも感じます。つまり違憲状態の既成事実を積み上げているのではないかということです。

さて一昨日、桑名別院で「真宗と憲法」という講題で、刑法学者である中京大学教授・名古屋大学名誉教授の平川宗信氏の公開講座がありました。
ここでご提示いただいた「軍事・戦時法制一覧」という資料があります。戦前・戦中の軍事・戦争法制と現在の「安全保障」関連法制を対比させたものです。
それによると「軍事行動」「軍隊組織」「軍紀・軍律」「機密保護」「戦時体制」「集会・結社・表現規制・治安維持」「国民精神」に至るまで、戦前法制に相当するものが戦後の安全保障法制の中で整備されてきてしまっていることが示されています。
もはや私たちが生きているのは「戦後日本」ではなく「戦前日本」ということを強く意識させられます。

「愚民化」といわれて久しいですが、私たちがウカッとしている間にそれだけの準備がすすめられてきたというわけです。その最終段階として、今春の統一地方選また来年の参院選を経て「改憲」の総仕上げにかかるというところにまできてしまった。
平川氏はこうも指摘されます。自民党の改憲案の前文には「この憲法を『制定』する」とある。この表現は現行法を『改正』するものではなく、現行法を廃止して新憲法を「制定」するということである、と。憲法は国のあり方を示すもの。「どういう国を選ぶのか」というのは「どういう憲法を選ぶのか」ということだから、この改憲案はまさに「現在の国を廃止して新しい国になること」を意味するのだと。

さらに、先の憲法尊重擁護義務について、改憲案では

すべて国民はこの憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。

擁護義務から「天皇」が除外され、「国民」が追加されている。要するに権力を縛るための憲法が国民を縛るものにすりかえられているのです。

また、先の改憲案の全文には
(我々は)活力ある経済活動を通じて国を成長させる
という文言があり、憲法の擁護義務を国民に負すということは、国の経済成長に資するものとして国民を位置づけるものといえます。

問われるのは、私たちは何のために生まれてきたのか。そして何のために生きるのかということです。
国の経済成長を支える奴隷として私たちは生まれてきたのか。
平川氏は「国畜」と表現されておられました。
私たちは「国家における畜生とされていく」と。

「『三悪趣国家』を目指す自民党改憲案」ということが「真宗」からみえてくるといいます。
三悪趣は地獄・餓鬼・畜生です。常照寺の寺報(朋光NO.38)http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/3868976b12aa33733a536566f49451a9
に平川氏の新聞記事を引用しておりますが、まさに地獄・餓鬼・畜生に満ちた国家を選ぶのか、無三悪趣つまり戦争の地獄のない、経済の餓鬼のない、国家に隷従する畜生のない国を選ぶのか。
私はいったいどんな国に生きたいのか。

懇親会の席で平川先生と名刺の交換をさせていただきました。
その名刺にはすべての肩書の前に「真宗念仏者」と記されていました。
先生は、改憲してはいけないということではなく「国内に外国の軍事基地を置いてはならない」といった条文を加えたフィリピンのように、改憲の意義も提出されておられました。
私たちができること、しなければならないことは、「憲法の空洞化を防ぐこと」「憲法を現実化すること」つまり、停止状態化した憲法を生きたものにしなければならないことだと聞かせていただきました。
そしてそれ以前に、意識か無意識かはとにかく「地獄・餓鬼・畜生を求める私」であることを深く自覚しておかなければならないことを思います。

同時に私たちの宗派、東本願寺にも「宗憲」といういわゆる憲法があります。その宗憲がほんとうに生きたものになっているのか、そして宗派の議会において決議された1995年の「不戦決議」について、それが言ったままで終わってしまっていないかということを、一住職として省み、寺の活動に反映させていかなければならないと思います。
一昨日の公開講座のサブタイトルは「真宗念仏者は、どのような国と憲法を求めるのか」でした。
真宗門徒として、仏教徒としてご門徒と語り合っていく場として寺の本来性を回復していかなければなりません。

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科学と非科学の間にて

2015年02月07日 | ブログ

ご門徒のご法事でのこと。
年明けのご法事の予定が、息子がインフルエンザだから来週にと。その来週、今度はワシがインフルエンザになったので来月にとご配慮くださった。
当初の予定よりひと月遅れでお勤まりになったそのご法事の話題はインフルエンザの予防接種は有効か否か。
結局、打たんより打った方がいいやろ、と。その根拠はインフルエンザにかかっても症状が楽になる、と。
先月からスタートした「親鸞仏教に学ぶ講座」で聞いたこんな話を思い出して、勤行後に申し上げました。

ウチの地域では、家族に不幸や病いが重なったりすると、「ちょっとみてもらった方がいい」という。
「ちょっとみてもらう」と「5代か6代前の先祖が迷うておられる」とか「水子が祟っている」とか。
どうしたらいいんでしょうと尋ねると、この壷を毎日なでるとよい、とか。
その壷を買って毎日なでているがどうも病気の調子が良くならない、と。
「それはね。壷をなでているからそのぐらいの症状で助かっているんですよ。」
というお話。

「インフルエンザワクチンに予防効果はない」また「壷をなでる行為に家族の病気を治す効果はない」という立場からすれば、ワクチン接種は壷を買うようなものだということになりましょう。
ワクチンを接種したから症状がやわらいでいるかどうかは、接種せずに罹患した場合と同時に比較しなくてはならないのですからわからんことですし、壷をなでてなかったらもっと重傷化してたかもわからんことです。

壷に効果があるとかないとか、ワクチンに効果があるとかないとかをここでいいたいのではありません。
どうにもわからんことで、善いとか悪いとか損したとか得したとかガヤガヤガヤガヤ言って過ごしているこの私を慈しみ悲しんでくださっている方がおいでになる。
そして老病死を超えてそのことを伝えようとしてくださっている方がおいでになる。
このガヤガヤ言う私を慈しみ悲しんでくださっている如来。そしてそれを伝えようとしてくださる方が亡き方々、ご先祖といわれる諸仏ではないでしょうか。
そのことを教えてくださった親鸞の仏教にご門徒ともにガヤガヤ賑やかに学んでまいりたいと思います。

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