遊煩悩林

住職のつぶやき

プライオリティ

2016年12月28日 | ブログ

毎年のことですが、「クリスマスはやったんですか?」と聞かれる。

「クリスマスをやる」という表現がなかなかしっくりこない。

そうこうしていると「正月は何日にやる?」と。

これもまた何をやるんだ?と。

そういえば「お盆する」ということばも聞いた。

とはいっても考えればわかることで。

クリスマスを「やる」のは、いわゆるクリパ(クリスマスパーティ)的なイベントをやるのか。チキンを焼くのか。ツリーをデコるのか。プレゼントを交換するとか。

正月を「やる」、お盆を「やる」というのは、親類・縁者があつまって宴会でもやるとか。

結局、集まっての飲み食いを「やる」かどうかということか?

とにかく寺としては「クリスマス」という行事はやらない。やらないというか今のところやってない。

個人的には、いただいたケーキを食べたし、焼いた鳥を食べたかもしれない。

ただ「やるの?」と聞かれて、「やらない」とだけ言うと、「可哀相に」と慰められたり、「お寺さんってたいへんですね」と労って?くれる。

いやいや「やらない」のがたいへんなのか、「やる」ほうがたいへんなのか。

家族的には「やらない」ということで、いちおうの了解がとれているのでさほどの深刻さはない。

イエスは偉大ですから、ウチもクリスマスをやってもやぶさかではないのですが、家族あげて祝うほどの偉大さは不勉強だし、もっと身近に祝わなくてはならない方がいらっしゃった。

プライオリティとでも申し上げるのでしょうか。

だから我が家は4月に「はなまつり」をやる。

お誕生日よりもご命日に重きを置いてきた伝統からすれば、先月末に東本願寺の「報恩講」に参らせていただいた。

11月21日から28日までの期間中、25日のたった一座だけではあるが。

25日はイヴイヴイヴにあたる。祇園まつり風にいえば宵々々。私たちでいえば逮々々夜。

お参りしている時間よりも、はるかに飲み食いしている時間の方が長かったとの反省は毎年のことです。

やはり飲み食いだけでは「たすからん」。いやもっと真面目に丁寧におまいりしたとしても「たすからん」。よりたすからんことがわかるということだ。

たすからんところにおたすけがある。

さぁ年末。鐘を撞こう。

ご批判を恐れずにいえば、「除夜の鐘」もやってもやらなくてもいい。鐘をついたらたすかるのでもなく、鐘をつかなかったからたすからないのでもない。

煩悩の汚れなど落ちようがない。

「たすからんこと」がなかなかわからない。頭でちょっと理解するだけだけど。

「除夜の鐘」はやります。「修正会」もやります。何それ?といわれても。

今年も1年、つぶやきにお付き合い下さいましてありがとうございました。

毎年、つぶやきを製本しているのですが、年々、本の厚みが薄くなってきています。

それもプライオリティという概念のせいということで。

明年もよろしくお願いします。

 

 

井上雄彦さん作の『親鸞屏風』の画像を転用しています。
詳しくはこちら ☞ http://www.flow-er.co.jp/nshinran/

コメント

流れ

2016年12月27日 | ブログ

 

わずかな時間でしたが、おかげさまで親子でテレビ出演させていただきました。

なるほど、こういう「流れ」でお寺の門を叩いて来られたのかということが、放送をみてやっとわかりました。

この流れが、あらかじめわかっていたら「もうちょっとうまいこといった(言った)」のになと。

来るなら来ると言ってくれれば「もうちょっとうまいことやった」のになと。

いずれにしても、ちょっとうまいこといった(やった)くらいではたすからんもんだ、と。

 

それにしても年間にどれだけの方がお寺を訪ねてくださるでしょう。

そのおひとりおひとりに、お訪ねになってくださる「流れ」、理由や動機、経緯があるわけです。

テレビの取材はイレギュラーですが、普段お寺には法要の参詣や、葬式・法事に参られる方、掃除に来られる方、会費を納めに来られる方、悩みを相談に来られる方などなど、さまざまな方がおいでになってお寺をお寺として機能させてくださっている。

なかには、「今日は雨が降って足元が悪いから寺参りはやめておいて」と家族に言われて喧嘩して出てこられた方とか・・・。

寺に来たというだけじゃなくて、そこに来るまでの「流れ」。

その「流れ」ということは、なかなか寺の中からは把握できない。

逆に、来ていただくこちらにもさまざまなタイミング、流れ、リズムがあるわけです。

いつ、だれが、どうして、寺の門を叩いてくれようとも、ちゃんと対応できればよいのですが。

放送をご覧になっていただいたとおり、です。

住職が「ちゃんとして」いるかどうかはとにかく、ほとけさまの智慧と慈悲は「いつでも、どこでも、だれにでも」ちゃんとはたらいておってくださる。

「救い摂って捨てない」のがほとけさまだということは、私たちは「選びとって捨てる」存在だということです。

テレビの編集などもそうでしょう。選んで切って捨てる。

選ぶだけじゃなく、切って捨てる私という存在。そうでないと生きられない闇を抱えているのだ。

だから、闇だからそこに智慧の光が差してくるんだ。

だけど自分が闇にいることにはなかなか気づけない。

コメント

たすからん

2016年12月21日 | ブログ

さてさて、告知させていただいてからずいぶん時間が経ちました東海テレビ「スイッチ」。

「はじめまして - 街道を歩く - 」という企画での取材でしたが、さて放送があるのか、カットされるのか。

いよいよ番組は伊勢市内へとやってきましたので、明日か明後日かというタイミング。

しかしこのタイミングは別院報恩講とダダかぶり。放送時間はお日中法要の最中ですので、業界関係者は視聴不可かと思われましたが、明後日であれば午後1時の結願日中までの間にチェックしていただければ幸いです。

人はちょっとうまいこといったくらいではたすからん

と書いた先月の掲示板。

「そやなぁ、たすからんたすからん」

「じゃどうやったらたすかんねん!」

とノリツッコミ的自問をしながら、先月末は地元の仲間たちと東本願寺の報恩講にお参りさせていただきながら尊い言葉に出遇わせていただいた。

放送されるかどうかはとにかく、テレビ取材で問いを受けた以上、寺の責任者としては何かそこに応える義務を果たさねばと。

おねんぶつの仏教にわが身を学ぶものとして

助からぬことがわかったときにお助けがある

という応答を12月の掲示板に書きあげさせていただきました。

暁烏敏という仏者のおことばです。

一見はぐらかされているようにも聞こえるかもしれませんが、浄土真宗の救いということをまことに的確に、そして私たちが陥りやすい感覚をするどくついてくださることばです。

私たちが陥りやすい感覚というのは、「ガンバロウ」ということです。

ガンバレガンバレ、もっともっとガンバレという声なき声に支配されている国家のなかで、頑張ったら報われる、頑張って救われようとする我が根性。

うまいこといったのは頑張ったからだという自己満足。ダメだったのは頑張りが足らなかったからという自己責任の脅迫。

そんななかで、まさに自分の力で助かろうと頑張っている。どうなったら助かるのか、どうなったら救われるのかということもはっきりせずに、です。

ガンバルのは大切だと思います。決して頑張るなとか、頑張らんでいいということが言いたいのではありません。

ただ、頑張ってちょっとうまいこといってもやっぱり助からん。そこにまず立脚しなくてはならんのでしょう。

いくら頑張ってもじぶんの力では助からん。

頑張って何とかしようという私に「何ともならんよ」と。

頑張っても何ともならないことがわかったときに、おたすけがおたすけの方からやってくる。

それが「他力」ということなんでしょう。

この「他力」のことを浄土真宗では「阿弥陀如来の本願力」と表現し、ナムアミダブツという。

ただこれでは、ただの知的理解です。

問題なのは「たすからんことがわかる」かどうか。

どうもそれが私にはわからない。分かり得ないのかもしれません。

そうはいっても自分の力で頑張っているといういう自負の中に生きている間には、少なからず分かり得ないのでしょう。

自分を「たすからない」者として見いだすことなど果たしてできるのか。

「助からんことがわかったときにお助けがある」というのは、私には到底成り立たない救済かもしれない。

さて、一番やっかいなのがこの考えなのだ。

他力の本願を自分には成り立たない救済ではないかと疑ってかかっている。これはやっかいだ。

やっかいな私だけど、そんな私が疑おうが信じようが、そんなことには関係なく「たすけよう」というはたらき、たすけようとされるほとけさまがおいでになる。

頑張って信じなくてもいいのだ。

だけど、信じられているということだけは知っていた方がいい。

この世に人間として生まれてそのことがわからなければ、恩知らずの一生だ。

コメント (1)