遊煩悩林

住職のつぶやき

親鸞聖人御絵伝

2006年01月30日 | ブログ

常照寺の一年で、最も大切な報恩講をお勤めさせていただいた。
29日がご満座。それに応じて28日はお逮夜を勤め、夜は親鸞聖人の生涯を「御伝鈔」を拝読し、そのご恩徳を聞かせていただいた。

さて、報恩講には、本堂内に親鸞聖人の御絵伝をお掛けする。正式には四幅の絵伝を余間にお掛けするのが正式なのだが、常照寺の余間にはいわゆる一貫代の掛軸を四幅お掛けするほどの余裕がない。
これまでは、一幅の掛軸に四幅分の絵伝が集約されたものをお掛けしていたのだが、今年は四幅の絵伝をお掛けして、報恩講を厳修することができた。Img_3120
というのは、常照寺の余間にあわせて表装されたものを調整したから。常照寺で四幅の絵伝をお掛けするには余間を広げるしかないと思っていた。
これまでの絵伝は一幅に四幅分の絵を縮めて描かれているため、正直一つひとつの絵に何が描かれているのか分かりにくかった。
それが、四幅の絵伝によって見やすく、また遠路お越し下さった川瀬先生の丁寧なご法話によって、視覚的にも聴覚的にも親鸞という一人の人間を宗祖としていただいていくことのご恩を知る機縁となった。

正直なところ、常照寺の建つ伊勢近郊ではまだまだ「報恩講」という行事が馴染みが薄い。門徒が報恩講を知らないのは住職の怠慢である。
ご開山のご恩を身近に感じられるような歩みを私自身がしていかなければならない。来年の報恩講まで、また聞法精進あるのみである。

報恩講の写真集を常照寺のホームページにアップしました。

コメント

報恩講

2006年01月27日 | ブログ

明日から常照寺の報恩講が勤まる。
数ある年中行事の中でこの報恩講の時は、本堂のお荘厳が特に重々しくお飾りされる。ご本尊前や宗祖の御影前の卓(燭台・香炉・花瓶を備える台)には水引を張り打敷をお掛けする(遊煩悩林2005.12.10)。また、普段は卓の上には燭台と香炉と花瓶の「三具足(みつぐそく)」がお備えされているが、報恩講の時は燭台が一対、花瓶が一対、それと香炉のあわせて五台の仏具が備えられる。このお荘厳を「五具足(ごぐそく)」という。(お内仏のお荘厳についてはこちら[Enter]

Img_3153さらに、他の法要時には「お華束(おけそく)」という丸餅を積み上げて「杉盛(すぎもり)」という盛り方でお餅をお備えするが、報恩講の時は特に「須弥盛(しゅみもり)」という盛り方をする。須弥盛は、白い丸餅に紅や藍の色を施して橙とともに須弥形に盛る。須弥形とは、お釈迦さまがご説法された須弥山という山を模したかたちである。こうして盛られたお餅を供笥(くげ)という台に乗せてお備えする。

本山などの報恩講では、三河などの信仰篤い門徒らが「お華束講」というお講を組織して本山の報恩講に寄進する。自分たちで餅米を収穫し、餅をつき、丸めて須弥形に盛るまでのすべてを行うわけである。それが、お華束講がご開山のご恩に報いていく姿なのである。

しかし、常照寺ではそこまでの事は到底できない。餅は餅屋さんに白・紅・藍の餅を注文する。須弥盛はそのカタチになったお飾りがあるのでそれを用いている。本来であれば、ご開山(親鸞聖人)の報恩講だから、出来得るだけのお飾りを施していくべきなのであるが、その内容よりも体裁だけが保たれているようにも感じる。

とにかく、本堂の荘厳は整った。明日は朝から世話人の方々によって本堂や山門に五色幕が張られ、吹流しが立てられる。境内にも報恩講をお迎えするお飾りが施されるのである。
これだけのお飾りをして報恩講をお勤めさせていただけるご恩を参詣各位とともに感じとっていく報恩講でありたい。

報恩講については「遊煩悩林2005.11.21~11.28」にも詳しく書いてますので、ご覧下さい。

今年の常照寺の報恩講の模様は(お荘厳・参拝風景・御伝鈔・「書」と折紙の作品展など)ホームページにアップする予定です。

コメント (2)

眼鏡

2006年01月26日 | ブログ

数日前に注文したメガImg_0200ネが出来上がってきた。
特に今使っているものに不具合があるわけではないのだが、メガネを換えるのはいい気分転換になる。少し贅沢だが、メガネを換えることで、見る方も見られる方も随分気分がかわる。

メガネ歴は15年ほどになる。中学1年まで1.5あった私の視力が、知らない間に落ちていた。遺伝情報は適確である、父も母も兄も目が悪い。
視力の低下を知ったのは野球部の顧問M先生に指摘されたのがきっかけであった。「視力はかってこい」と。さすがに生徒をよく見てくれていた先生であった。
それからメガネとの付き合いがはじまる。はじめてメガネをかけてみた世界は、それまで見ていた世界とは別物であった。見えていないことに気づかずにいたことに気がついた。
それからかれこれ15年、コンタクトにしようと思ったこともあったが、やはりメガネを選んだ。
メガネは顔の一部分であるといっていい。顔は心の名刺みたいなものだが、それぞれ主張の違うデザインのメガネでは同じ表情でも印象が違う。それだけにメガネ選びは慎重を期す作業である。
好みや気に入ったブランドで選ぶか、それとも接する人に与えたい印象を優先するか。「ああ見られたい」「こう見られたい」なんて考えているといくら迷っても結論が出ない。

かつてはブランドイメージに自分を重ね合わせて選ぶこともあった。眼鏡に自分を合わせていたといっても言い過ぎではない。かといって自分に合う眼鏡を探そうと思ってもなかなかそうもいかない。精一杯自分に似合うものを探す訳だが、何せ自分のことがわかっていないのだから何を選んでいいのかわからない。
実際、自分では似合っているつもりでも、他者からはそう見えないことはよくある。
なんだかんだいっても結局は好みだが、好みのものが似合うとは限らない。
お洒落というのは自分のことが本当に分かっていることをいうのだろう。自分のことがよくわかっているということは自分に似合うものがよくわかるということだ。

自分の内面、外面、いずれも自分で知ることは難しいが、知る努力は必要である。

伊勢メガネさんは、遠隔地からもお客さんが訪れる人気のショップ。ご夫婦もスタッフの女の子も、根気よくメガネ探しにお付き合いくださる。
ちなみに我が子がかけているサングラスは伊勢メガネ[Ise Megane]さんにプレゼントしてもらった。ちゃんとUVカット仕様である。

コメント

続・仏さまになった人

2006年01月25日 | ブログ

先日、訃報をお伝えした仁くんのお母さんからお手紙をもらった。

「親孝行するまで死ぬな」といっていたあの子が、順番を間違えて逝ってしまった。

お母さんがいう「親孝行」とは「親を送ること」、つまり親の葬儀を勤めることをいうのだろう。

私が中学の時、母親が死んだ。そして22の時に父が死んだ。
ただの強がりかもしれないが、「親が生きている間に親孝行なんてできない」なんて自負を持った。ただ自分に言い聞かせていただけかもしれない。
そして親の葬儀が「親孝行の始まり」なのだと。もしかしたら誰かにそんな言葉をかけてもらったのかもしれない。

今年母親の17回忌を迎える。
今、思うのは、あの時の母親との別れがなければ今の自分は存在しないということ。
母との別れをともに悲しんだ父との時間、そして8年前の父の病と死がなければ、同じように今の自分はいない。
とすれば、いま私が幸せであるかどうかによって、父や母の死の意味が変わってくる。あのときの「死」は、今の自分のあり様によって受けとめ方が変わってくる。
たとえば、「今、不幸せなのはあの時のあの出来事のせいだ」とか「あの時の出来事のおかげで幸せなのだ」とか、今をどう生きているかによって、何とでもいえる。
さて今、私はどうかというと正直なところ、お寺で生活をする中で幸せを感じることが多い。

母の死によって「人はなぜ死ぬのか」という問いをもらった。その問いはいつのまにか「人はなぜ生きるのか」という疑問になった。それらの疑問は「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」という真宗のスローガンに集約されていくことで、大谷大学への進学へと結びついた。
お寺で仏に向き合う生活を決断させたのは父の病のおかげである。父の癌は私がお寺に帰る機縁となった。そして父との別れは、常照寺という道場で仏を学ぶ生活を自分で決断するには必要なご縁であった。
お寺での生活の中で、妻に出会い、そして子どもに出あうことができた。
そう考えると今、私が感じる幸福感は父母の死を抜きには語れない。
ただ、こうして過去を振り返り、勝手に点と点を繋ぎ合わせているだけなのかもしれないが。

ただ、「仏様になった人」に今日また教えられたことがある。
「孝行は死んでからでもできる」ということだ。
順番を間違えてお母さんよりも先に逝ってしまった仁くんも、
はたらきとして生き続けている。私の父や母もそれぞれの親を残して逝った。

「仏様」になったというのは私の了解である。
厳密にいえば、死んでもなお、残されたものを生かそうとしているはたらきのことを「仏様」と呼ぶのである。俗にいう「死んだら仏」とは違う。こちらがどんな「生」を生きるか。「仏」としてどんなはたらきに出会っていくかだ。それが仏教なのだろう。

コメント

病む日

2006年01月23日 | ブログ

「2-3週間の入院生活のスタートだ、慣れないし大変そうだが逃げれば余計に辛いので知らぬ地に旅するごとく楽しんで来るつもりだから心配するな。」

私たち夫婦と仲良くしてくれている画家のT氏からメールが届いた。
胸の腫瘍を摘出するための入院ということである。

「見舞は不要。何故なら養生しに行くわけだから、人に逢う気遣いはパスしたいのだ」

婦人のブログによると入院用の洒落たパジャマを購入したとあるが・・・、細やかな気遣いがいかにもT氏らしい。
たいして心配はしていないが、気がかりなこともある。氏が入院中、アルコールを控えることができるのか?

メールにはこうも記されていた。

「皆、病や死に行く不思議ばかり気になるみたいで、ちっとも今自分が生きている不思議を考える余地がないのだ」

氏にはいろいろ教えられることが多い。
氏のそんな言葉に思い出した詩がある。東井義雄という人の「ご説法」という詩だ。

雨の日には
雨の日にしか聞かせていただくことのできない
ことばを超えた ご説法がある

老いの日には
老いの日にしか聞かせていただけない
ご説法がある

病む日には
病む日のご説法がある

お天気の日にも
健康な日にも
大切なご説法があるのだが

そういう恵まれた日には
嵐の日や雪の日の無電のように
こちらの側に雑音がありすぎて
どうも 聞きとりにくい

病む日を恵まれたおかげで
長いお天気の日 健康な日に
聞きもらしてしまったご説法に
耳を傾けさせていただく

「生は偶然、死は必然」といわれるが、考えてみれば今生きているということは「不思議」以外の何ものでもない。
この不思議ないのちについて、誰もが自分の問題として真剣に考えてみなければならない。

手術の無事を祈りたいところであるが、私が祈ったところでしょうがない。
「今、生きている不思議」を思う。それがT氏のご説法であろう。

コメント