遊煩悩林

住職のつぶやき

何を見ているの?

2009年09月29日 | ブログ

「死刑廃止を求める市民の声」による「新法相に死刑執行の停止を要求する市民の共同声明」の賛同を呼びかけるメールが「教団と教学を考える協議会」から転送されてきました。

詳しくは下記のURLにアクセスして下さい。

死刑に異議あり!! http://www.abolish-dp.jca.apc.org/

また、下記の声明に賛同される方は

「市民の声」Mail shikei_haishi@yahoo.co.jp

に「声明に賛同します」と明記の上、10月4日までに「住所(市区町村名まで/番地不要)」と「氏名」をお知らせ下さい。

千葉景子新法相に、死刑執行の停止を強く要求する市民の共同声明

私たちは、日本政府・法務省が現在、人権を何よりも尊重する世界の大勢に逆らって死刑の執行を強行し続けていることに、耐えがたい恥ずかしさと深い憤りを感じています。
私たちは法務大臣に就任したあなたに、死刑執行命令を下さないよう、強く要求します。
世界の流れは死刑廃止へと向かっています。死刑を廃止した国の数は1981年末には63カ国でしたが、1991年末には83カ国、2000年末には 118 カ国と年々増え、本年(2009年)6月には140カ国に達しました。192の国連加盟国中、実に72%の国々が死刑を廃止しているのです。
最近では、3月19日に米国のニューメキシコ州が、4月27日にアフリカのブルンジ共和国が、さらに6月23日には同じくアフリカのトーゴ共和国が死刑を廃止しました。?また昨年10月、国連の自由権規約委員会が日本政府に死刑廃止を強く勧告したことは記憶に新たなところです。そして同年12月の国連総会は死刑執行停止決議を採択しましたが、それはその前年(2007年)12月の同決議採択より多くの賛成を得てなされたのでした。
さらに本年7月28日の森英介法相による3人の死刑執行に対しては、欧州連合(EU)が議長国声明を発して「遺憾の意」を表明するとともに、日本政府に「死刑を法的に完全に廃止するまでの間、その適用を停止するよう」要求しました。
いわゆるG8の中で死刑を存置しているのは、米国と日本だけですが、米国は死刑を大幅に減らしています。
しかし日本はこのような世界の流れにあえて挑戦するかのように、死刑の執行回数を増加させています。2006年には4人、2007年には9人、そして2008年には15人、2009年には7月までに7人の確定死刑囚に死刑が執行されました。しかも日本の法務省は隔月執行を方針とし、司法における死刑判 決も2004年以降激増しています。?日本はまさに「死刑大国」の醜態を世界にさらしています。
足利事件では無期懲役の判決 を受けていた菅谷利和さんについて再審開始決定がなされ、菅谷さんは釈放されましたが、それが意味するものは刑事事件にも誤判がありえるということです。 ところが飯塚事件で死刑判決を受けた久間三千年さんに対しては、再審請求の準備中であったにもかかわらず、昨年10月、死刑が執行されてしまいました。
私 たちは重ねて、あなたが死刑を執行しないことを強く要求します。あなたがなすべきことは、死刑廃止の滔々たる世界の大潮流に沿って、死刑制度廃止の努力を始めることです。法務大臣としてのあなたの最初の仕事が「死刑大国」の汚名を返上することであることを私たちは心から望みます。

ある程度?それなりに?この問題に関心がない?と、また他人事だと考えている?うちはなかなか「ハイハイ」といって賛同の意思を表示してメールすることは簡単なことではないのかもしれません。
ですが、せめて賛同の意思を表示するまではできなくとも、「死刑」という制度が私の何を問うている課題なのかを考えてみるきっかけとなれば・・・という思いから、「市民の声」のメールをここに記してみました。
人間が人間を殺すことを条件付きで許すこと・・・それが正しいのか間違っていることなのかという問題ではないと思います。
私はそれでいいのかどうなのか。
裁く側、裁かれる側、執行人、それぞれの家族・友人・・・立場の問題でもないのでしょう。立場を超えて、人間としてどうなのか。
賛同するにして も、しないにしても・・・自分がいったい何様なのかを問うて下さる問題提起です。

「光市母子殺害事件」の被告の死刑判決はまだ記憶に新しいような気がします。
事件当時18歳の被告少年はすでに28歳。近日刊行予定の彼と周辺を追ったルポタージュに、実名が表記されるという記事を見かけました。
「元少年」や「少年A」とかの人間らしからぬ呼び名が、死刑を求める世論を生んだとして、自分が出会った『人間』としての彼の存在感を表現するために実名の表記は重要だと著者はいいます。
タイトルは「◯◯(実名)君を殺して何になる」というストレートなものです。
それにしても事件後、彼に接見した人は、知りうる限り「彼を殺していいのか」という印象を発信されている方が多いような気がします。
「実際に出会った人が抱かれる印象」と「出会ってもいない元少年のイメージ」には、はるかな隔たりがあるように思えてなりません。
彼岸会で提起された「あなたはいったい何を見ているの?」という言葉が私たちに突きつけられています。

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彼岸のお土産

2009年09月26日 | ブログ

「シルバーウィーク」というネーミングがつけられた一週間。
時の表現でいうところの「彼岸」が過ぎ去っていきました。
しかし本当に「彼岸を過ごした」といえるか、ただ「彼岸をやり過ごして」しまったのではないか。果たして彼岸が彼岸となったのか、と今年も問われてきます。
彼岸のお中日、今年も名古屋教区教化センター主幹の荒山淳先生から「お話」+「楽(竜笛)」の演奏に浄土の響きを聞かせていただきました。

老いと病いの場に仏法がなければ 死の現場にも仏法はない

名古屋教区教化センター発行のセンタージャーナルの淳先生の巻頭言からこの言葉を引用して常照寺の掲示板に記したところ、この言葉の背景に即したお話をいただきました。そのなかで紹介して下さった詩を書き留めておきます。
イギリスの老人ホームで、ある女性の死後、そのベットの下から見つかった紙片に記されていたメッセージです。

看護婦さん、あなたはいったい何を見ているの?
あなたが私をみるとき、あなたは頭を働かせているのかしら。
気むずかしい年老いたおばあさん、それほど賢くなく、とりえがあるわけでもない。
老眼で、食べるものをぽたぽた落とし、あなたが大声で「もっときれいに食べなさい」と言っても、
そのようにできないし、あなたのすることにも気づかずに、
靴や靴下をなくしてしまうのは、いつものこと。
食事も入浴も私が好きか嫌いかは関係なく、あなたの意のままに、長い一日を過ごしている。
あなたはそんなふうに私のことを考えているのではないですか。
私をそんなふうに見ているのではないですか。
そうだとしたら、あなたは私を見てはいないのです。
もっとよく目を開いて、看護婦さん。
ここにだまってすわり、あなたのいいつけどおりに、
あなたの意のままに食べている私がだれか、教えてあげましょう。
10才のとき、両親や兄弟姉妹に愛情いっぱいに注がれながら暮らしている少女です。
16才、愛する人とめぐりあえることを夢見ています。
20才になって花嫁となり、私の心は躍っています。結婚式での永遠の誓いも覚えています。
25才、安らぎと楽しい家庭を必要とする赤ちゃんが生まれました。
30才、子供たちは、日々成長していきますが、しっかりとした絆で結ばれています。
40才、子供たちは大きくなり、巣立っていきます。
しかし、夫がかたわらにいて見守っていてくれるので、悲しくありません。
50才、小さな赤ん坊たちが、私のひざの上で遊んでいます。
夫と私は、子供たちと過ごした楽しかった日々を味わっています。
そして、夫の死・・・希望のない日がつづきます・・・。
将来のことを考えると、不安と恐ろしさでふるえおののきます。
私の子供たちは自分のことで忙しく、私はたったひとりで、
過ぎ去った日々の楽しかった思い出や、愛に包まれていたときのことを思い起こしています。
今はもう年をとりました。
自然は過酷です・・・
老いたものは役立たずと、あざ笑い、からかっているようです・・・
体は、ぼろぼろになり、栄光も気力もなく、以前のあたたかい心は、まるで石のようになってしまいました。
でもね、看護婦さん。
この年老いたしかばねの奥にも、まだ小さな少女がすんでいるのです。
そして、このうちひしがれた私の心もときめくことがあるのです。
楽しかったこと、悲しかったことを思い起こし・・・愛することのできる人生を生きているのです。
人生は本当に短い、本当に早く過ぎ去ります。
そして今、私は永遠に続くものはない、というありのままの真実を受け入れています。
ですから看護婦さん、もっとよく目を開いて、私のことをよく見てください。
気難しい年老いたおばあさんではなく、もっとよく心を寄せて・・・
この私を見てください。

先生が紹介してくれたメッセージとは少し「訳」が違うようですが、「私は三年間老人だった(パット・ムーア著)」という本にも、そのメッセージが紹介されているそうです。
イギリスのヨークシャーの老人ホームに勤務する看護師から著者のところに送られてきた手紙に添えられていたメッセージです。
一人の老婦人の死後、看護師が彼女のベッドの下からこのメッセージが記された紙片を見つけたといいます。
そのメッセージは、病院の看護師全員に配られ、今その詩は介護に携わる人間のバイブルともなっているそうです。

このメッセージから先生は「いのちに二種あり」と教えてくれました。

消滅するいのち
回復するいのち

このいのちの二種類の視点を、「彼の岸」からのお土産にしたいと思います。

さて、もうひとつのお土産は、楽僧でもある淳先生の竜笛の音色でした。
たまたま、その日の晩に「楽」のお稽古があるということで持ち合わせていただいていたこともあり、法話の最後に「五常楽」という曲を一奏していただきました。
控室で、私も吹かせていただきましたがヒューヒュー息の音のみで、まったく笛の音は鳴りませんでした。ちなみに坊守は鳴った・・・
「普及版の竜笛もあるよ」と店まで紹介してもらいましたが、よくよく考えてみれば・・・神宮のお膝元である伊勢にもきっとあるだろう、と翌日市内の神具店へ行ってみました。
通称「プラ管」と呼ばれる樹脂製の「竜笛」と「篳篥」もあり、両方買ってしまいました。
まずは音が鳴るまで・・・ご近所の迷惑にならぬよう・・・
これも彼岸の土産となるよう・・・三日坊主にならぬよう此岸で精進です。
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「りっかいにん」ていうの?

2009年09月20日 | ブログ

過日、宗議会の選挙がありました。
「宗議会」といっても、ご門徒の皆さまには馴染みのない言葉かもしれません。
宗派の運営は立法・行政・司法の三権分立制をとっています。
全国の僧侶の代表者ら65人の「宗議会」と、全国のご門徒の皆さまの代表者65人で組織される「参議会」がその立法機関にあたります。
その宗議会の任期満了に伴い、このたび選挙が行われたのでした。
選挙といっても三重教区の場合は、これまで議席1に対して候補者も1名というのが通常になっていましたから無投票で議員が選出されていました。
それが今回は候補者2名。20年ぶり?に投開票が行われたのでありました。
投票所の「立会人(説明会では「りっかいにん」と読んでいました)」として、投票日の朝8時から夜6時まで投票函を睨みつける仕事をいただき、投票所に缶詰にされました。
それにしても投票日の前日と前々日は不在者投票の期間が設けられていましたから、選挙日はもう少し時間短縮してもよかろうに・・・。投票所の設置から投票函の封緘をして見送るまで、非常にナが~い一日でありました。
それと、選挙条例には「いちおう」郵便投票制度がありますが、当然ながら?きわめて限られた人にしか対応できない制度だなと、選挙条例や施行条規をはじめて見て、そして実際に選挙をやってみて感じました。もう少し幅を広げた方が「特権」的にならないと思います。たとえばo大学の職員は郵投okで、d大学の職員はダメだとか・・・?。
あと問い合わせが多かったのは、国政選挙でいう投票所への「入場券」的なものがないので、手ぶらで行っていいのかという不安の声でした。
投票管理者が選挙人名簿で本人確認をするのですが、やはり顔の知らない人もいるわけです。「必携」とまではいわないにしても何か「入場券」的なものがあった方が、「宣言投票」とかいうややこしいことになることを思えば無難ではないでしょうか。
はじめて宗派の選挙を経験して、そんなことを感じたので記しておきたいと思います。次はいつ(数十年後?)投開票が必要になる選挙があるかわからぬことですが・・・。
ところで「立会人」は、ほんとうに「りっかいにん」っていうのでしょうか?
投票函は「とうひょうかん?」「とうひょうばこ?」。
そのへんだけは、はっきりさせておきたいのですが・・・。

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彼の岸に挑む態度

2009年09月12日 | ブログ

秋の彼岸会のご案内をご門徒の皆さんにお送りしました。
秋のひととき是非ともお寺での時間をお過ごしいただきたいと思います。
今年も、名古屋東別院にある名古屋教区教化センターの主幹をしておられる荒山淳先生にご法話をいただきます。
その淳先生が巻頭言を記しておられる教化センタージャーナル「No.69」の「法輪、転ずることなき時代」と題された文章の中にあった

老いと病いの場に仏法がなければ
死の現場にも仏法はない

ということばを、今月の常照寺の掲示板のことばとして引用させていただきました。
このことばだけ掲示板にはってあると、「?」「?」「?」という方もあると思いますが、あえて自己批判の意を込めて発信しています。
お彼岸を迎えるひとつの態度として、憶念しつつ彼岸を迎えたいと思います。
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コマーシャルはテミジカニ

2009年09月07日 | ブログ

宗派の出版部「通信員」としてはじめてのお仕事をいただきました。「本」を紹介する文章のご依頼です。
?どんな本でもいいということだったので、最近関心を持って取り寄せた何冊かの本の中で面白かった本を紹介することにしました。?
ただ、与えられた文字数は180-190文字。?一冊の本を 200文字にも満たない言葉で紹介するというのは「難行」でした。?文字数無制限でダラダラ書く癖がついているので、とりあえずダラダラ書いてみて、それ をシェイプアップするつもりでいたのですが・・・。
削れるだけ削って、 残したい文字だけになった文章を妻は「何が書いてあるかわからナーイ」「こんな本読みたくなーイ」という顔をして「ちょっと私には難しい」といってくれました。
それでも毎日この180文字ばかり悩んでいるわけにもいきませんし、〆切がありますから、内容はともかくどこかで「これでよし」としなければなりません。?
自分がこの遊煩悩林でやっていることは、伝えたいこと、言いにくいことを回りくどく表現したり、ぼやかして表現することだったような気がしてきました。?言いたいことや伝えたいことを最小限の言葉で的確にズバリ表現することは実に難しいことだと改めて教えられたような気がします。?
ちなみに、掲載予定は東本願寺出版部発行の月刊「同朋」11月号、The Bookというページです。?購読されている方は、ふだん何気に通り過ぎるページかもしれませんが、目を留めてやって下さい。?ボツになっていたら笑って下さい。?
購読されてない方はキャンペーン中なので是非申し込んでみて下さい。

東本願寺出版部
読みま専科 TOMOぶっく http://books.higashihonganji.jp/
ひとこと宣伝まで・・・。

そんな原稿に四苦八苦してる最中、ある方がこれ読んでみて下さいといって「寺よ、変われ」という本をプレゼントしてくれました。 寺に居住する住職に手渡すには抵抗のあるタイトルなハズです。 その意図するところはまだ分かりませんが、「神道」を「家の宗教」にされておられるその方が、「真宗聖典」を片手に尋ねてこられました。お商売上の付き合 いで長年お寺に出入りされ、時には勉強会にも足を運び、法話も聞いて下さっている方です。その方がこういわれるのです。
「私はいったい何になるんでしょう?」と。
最初は意味がさっぱり判りませんでしたが、話を聞いてみると・・・
「ホトケになるのか・・・ボサツになるのか・・・」と。
「ミタマ」ではないのですか?と逆にたずねたところ、ミタマは聞こえはいいのですが、やはり自分たちは死はケガレだと聞いてきましたから、どうもそれはイヤなんだと。自分自身の人生がすべてそこで否定されてしまうような感覚なのだと受けとめました。「神道では山田太郎(仮)の御霊という言い方になると思うのですが、仏教的には山田太郎(仮)というホトケになるのですか。」
「真宗的には『ショブツ』という言葉がありますよ」
「『ショブツ』というホトケになるのですか」と。
「真宗的には仏道を歩むときの名のりとして『釋○○』という法名を受けますから、釋○○という名の諸仏 となるということでしょうかねー」と申し上げました。
「ただ『念仏申せば仏となる』と私たちは教えられていますが、如来の慈悲は念仏を申さないものをも『すくいとる』のですから、その辺は『内心に他力の信心をたくわえる』という方法も説かれていますから、必ず『釋』を名のらなくてはイカンとか、改宗云々ということではなく、教えを聞いて歩むことが大切なんでしょうね」
そんなやりとりがあって、その方がお帰りになってから言葉が至らなかったなあと思いました。
釋○○という法名を名のる諸仏となる人生を生きた人、と遺された者が受けとめていく歩みを果たしたかどうかがやはり私たちのところで問われてくることなのだと思います。そうなると御霊でなく諸仏とな る、すなわち浄土に往生する生き方、人生、生活が求められてくるのですから必然的に神棚や御霊壇を排して、仏壇を安置しそれをお内仏として荘厳しなくてはならないような、また『釋』を名のる必然が生まれてくるのではないかと考えられてきたのです。
ただそこまでこちらからいうことではないのかもしれません。宗旨を変えるということにはまだまだ抵抗のある「世間」 ですし、明治のときに「仏」を排して、わざわざ「神」を選びとった経緯があるのですから、そのリスクや背景をしっかりふまえる時間も必要だと思います。最終的にはご本人の選びとりということになるのでしょうから、押し付けてはいけないのでしょう。
なんて、やはり「世間」に怯え、はっきり的確に手短に伝えることができない私なのでありました。?

ちなみにThe Bookで紹介した本は「空気と世間」という本です。

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