遊煩悩林

住職のつぶやき

神のご意志のままに

2011年02月21日 | ブログ

東本願寺発行の「法語カレンダー随想集2011」。
(東本願寺出版部 tomoぶっく http://books.higashihonganji.jp
その6月の随想に登場した92歳のおばあちゃんの1周忌をおつとめしました。
画家で絵画の指導をされている娘さんが随想集のお礼にと、ご自身の作品集を贈呈くださいました。
ご自身は洗礼を受けたクリスチャンですが、表紙には「阿弥陀如来の本願力のままに」というメッセージとペンネームが記されていました。
彼女からすれば「神の大いなるご意志のままに」というところなのかもしれませんが、作品集「Art & haiku」表紙の「この場所も世界の街と空続き」というhaikuからは、言語や宗教の違いを超えて「共に」「はたらき」に「おまかせ」するという信仰の表明に映りました。
同時に、自身の信仰を大切にするということは、他者の信仰を尊ぶことだとも感じました。
信仰とは「本尊」をもつことです。
「本尊」は「ほんとうに尊きこと」。「このことを私はほんとうに尊きことといたします」という態度表明です。だから同時に、私はあなたがほんとうに尊いこととすることを敬います、と。
自分の本尊をもつということは、相手の本尊を尊重することでもあることを教えられました。

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念仏という劇薬

2011年02月19日 | ブログ

津市の高田本山専修寺へ武田定光氏のお話を聞きに行きました。
「念仏者の原点を問う-承元の法難からみえてきたもの-」というテーマで、800年前の事件があぶり出す、現代を生きる私の欺瞞性について聞きました。
法然・親鸞らが流罪に遭った承元(正しくは「建永」)の法難(http://ja.wikipedia.org/)について、「難行好きの易行嫌い」が法然・親鸞を弾圧した根本動機であるといわれました。
苦行(難行)をした者が救われて、念仏(易行)を称えただけでは救われないという発想が、「ただ念仏」をすすめた法然・親鸞を弾圧したのだということです。
誰にもできないことをやった人が優れているという価値観は、千日回峰行(http://ja.wikipedia.org/)を成し遂げたものは通常土足厳禁の京都御所内に土足で参内できるという、現存する特権的体制に資しているといってもいいのでしょう。
それが寺院や僧侶の特権化を温存しているというだけではなく、そこに「努力」とか「忍耐」とか「達成」が人間にとって価値のあることとする原理があるのです。
その象徴が、よく寺で売られている「気心腹口命」の書にある、と。
Photo_2 今の金閣寺の和尚が揮毫したかどうかは知りませんが「気は長く、心は丸く、腹立てず、口慎めば、命長かれ」そこに良民の価値を持たせてきたのです。
未だに、それが常識的で円満に長生きする秘訣だと信じる人がいるわけです。もちろん「気が短く、心はとがって、腹を立て、言いたい放題言っている」自分の戒めと称してです。
「生まれた意味」を戦後の日本はまじめに考えてこなかった。そのツケがいま回ってきていると武田氏はいいます。
聖道門(難行)の仏教は“真面目にやると”自殺するしかなくなってくるともいわれました(回峰行の修行者の携行品にはは首を括るひもがあるともいいます)。
それは現代の自殺者数に対する仏教徒としての自己批判でもありましょう。
「頑張れ!頑張れ!努力が足りない!」「耐えろ!耐えろ!辛抱せい!」「もっと!もっと!まだまだやれる!」と、努力し、耐え、達成することの意味を曖昧にして鼓舞してきた結果です。何のために頑張って、何のために辛抱して、何のために達成しなければならないのか・・・そのことを問わせなくさせる、愚民化させるのが(易行)弾圧の目的です。

日本に伝わった大乗仏教は「いつでも どこでも だれでも」救われる教えです。気が短く、心は尖り、腹を立て、言いたい放題の私が・・・です。
努力したものだけが報われるのではなく、耐え忍んだものだけが実を結ぶのではなく、達成したものだけが救われる教えではなかったはずです。
なのに、努力もせず、耐え忍ぶこともなく、やり遂げることができない者は「ただ念仏すればよい」という教えは弾圧されたのです。
それを武田氏は「『難行好きの易行嫌い』が親鸞・法然を弾圧した」というのです。
つまり「難行好きの易行嫌い」というのは「努力すれば報われる教」「耐え忍べば道が開かれる教」「達成すれば100万円教」の信者、つまり私のことをいっているわけです。
「親鸞を弾圧した側に自分は属している」という視座です。
「いつでも どこでも だれでも」が大乗仏教ですから「むかしむかし、比叡のお山で、何とかという偉いお坊さんが・・・救われた」のではないのです。
「いつでも どこでも だれでも」の大乗精神の弾圧側に立っているということは、「いま」「ここ」「私」の全否定に他なりません。
いまここで私が“頑張って”いつか成仏する(救われる)のではないということです。いまここに私が“ある”ということがそのまま成仏(救済)といっていいのでしょう。
「修行をしなければ救われないのが聖道門、修行をしたら救われないのが浄土門」とも表現されていました。
「これだけやったから一人前だ!」という聖道門に対して、どれだけやっても決して「一人前だ」とはいわせない浄土門・・・。それでも「一人前!」の評価を求める私こそが、念仏を弾圧する超本人なのでありました。

親鸞の思想は、人間からやり甲斐や達成感を消滅させてしまう思想である。もっといえば人間から「生き甲斐」を取り上げてしまう思想である。「ただ念仏」は弾圧を受ける思想である。

ともいわれました。
南無阿弥陀仏の念仏は「劇薬」なんだ、と。

南無(=まかせる)+阿(=無)+弥陀(=量)+仏(=真理)
直訳→「人間の思いでは量ることのできない真理にすべてをまかせること」
ラディカルにいうと、阿(=無)+弥陀(=量=意味)→「無・意味」=「阿弥陀」

このように表現するとそれはニヒリズム(虚無主義)だと誤解を受ける可能性もあるが、「意味」の病いを患っている人に処方できるのはこれしかない、と。
つまり「何のために」「生まれた意味」「真理」「救い」「ほんとう」ということが問題にならないうちは効き目もありませんが、その問題に直面する人には「自力無効」の易行は特効薬になるということでしょうか。「特効薬」というと誤解があるかもしれませんが、それは「念仏しかない」という確信だと思います。
著書には「『無・意味』という意味」を開くというべきである」とありました。
「逆説の親鸞(雲母書房)」

長くなりましたが・・・最後に、武田氏からの課題。

京都から自坊に戻った青年僧侶に向かって門徒の方が投げた問い。
「若さん、京都でのご修行は大変だったのでしょうね?」
この問いにどう答えるか?

易行に対する姿勢と態度が問われます。

それにしても、現代日本の日常生活で青少年が南無阿弥陀仏と発声することは「難行」なのかもしれません。それを取り上げてきた弾圧者の自覚に立てば・・・です。

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誕生日+命日=人間

2011年02月17日 | ブログ

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卯年3周目の誕生日を祝ってもらいました。
mailやfacebookにも誕生日のメッセージをいただきました。
年を重ねるごとにお釈迦さまの36歳はどうだったかとか(35歳で「仏陀」となった)、親鸞聖人はどうだったかとか(越後にご流罪になって1年・・・ちょうど五木寛之の連載小説の今ごろ・・・「愚禿釋親鸞」を名のっておられた)、比べるわけではありませんが生まれ育った時代というか環境に絡めとられて、ますます愛欲名利に埋没していくじぶんが知らされてきます。
お寺での生活のなかで、日本人は誕生日より命日だろ!と戦前のあり様を唱えて、誕生日を祝う習慣をどこかで遠ざけてきた感もあります。じぶんや子どもたちの誕生日をワイワイ祝いながら、です。
思うのは「誕生日おめでとう」という祝いの言葉はそのまま「誕生の意味」を問う言葉でないかということです。やがて命日を迎えていく私の存在の意味とでもいいましょうか、生まれてきたことの意味です。
「おめでとう」は、その存在を認め、肯定してくれていることばです。肯定といってもそれは「価値」ということではなく「意味」です。
生まれてきてよかったね!と、そう感じることに鈍感になっているじぶんに改めて気づかされることばだと思いました。
「価値」にしてしまうから、生きているうちは価値があって、死んだら価値がないみたいに扱われてしまうのでしょう。
価値ではなく誕生の「意味」を問い続けたいと思った誕生日です。
誕生日と命日は1セットです。誕生日がないのに命日も、命日のない誕生日もないのです。だから誕生したら「人間」だというのではなく命日があって、もしくはそれが約束されてはじめて人間です。
それを踏まえたところで、遠くはなれたところからのmailは「今」という時間の共有を、そしてひとつのケーキを囲む家族は「今」「ここ」という時と場所を共有したことをお互いに「御目出度う(オメデトウ)」と言祝ぐ(寿ぐ・コトホグ)のでしょう。
そしてそれは「遇う」ということによって支えられているのでした。
だから「オメデトウ」は「有難し」なんでしょう。

遇いがたくして いま遇うことを得たり
聞きがたくして すでに聞くことを得たり

2月のカレンダーのことばです

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非日常生活

2011年02月15日 | ブログ

いやいやいやこの伊勢でも大雪が続きました。
大雪といっても数センチ積もるだけのことですが、スノータイヤ装着率の低いこの地方では大混乱です。雪の重みに絶えきれず数カ所で電線までも切れていました。
昨日、雪が降りはじめたのがお昼過ぎ・・・常照寺では、来年開催の仏教講座の企画会が夕方4時に予定されていて、桑名・鈴鹿・津・松阪・多気・伊勢・志摩から十数名のご住職方にお越しいただくことになっていました。
開催か中止か・・・悩みながら一番遠い方に電話をしてみたところ、「北の方は降ってない」ということですでに出発。講師をつとめる津のご住職は「雪がパラついてきたから電車に乗った」と。
講師が向かっているのに中止にはできないと思っていたところ、ミルミルうちに積もってきてしまいました。
予定の4時には、ご遠方の方を中心に続々とご参集をいただき、逆に比較的近隣のお寺さまは積雪により出発できる状況ではなくなっていました。
「夜には雨になる」という気象予測をアテに、会議が終わる頃には解けるだろうと2時間半ほどの会議を終えたところ・・・。

これでは帰れんわ!

ということで居酒屋とホテルを予約。ではタクシーを・・・と電話したところ「すべてストップ」ということで居酒屋さんにお詫びの電話・・・。
満を持さず、意を決してノーマルタイヤ3台でホテルへ向けて出発、通常10分もかからない道中は大混乱の大渋滞で40-50分かけて到着。ホテル内の和食レストランでの食事となりました。想定外の繁盛におそらく厨房も大混乱だったと思われます。
2次会の場所を探しましたが・・・「よし!部屋飲みや!」とコンビニに行って再び唖然。おにぎり、弁当の類いはすっからかん。非常時にあって恐怖に似た不安と、我れ先に、早い者勝ち的な空気を感じました。
幸いおつまみ系とハードリカーはまだまだ余裕がありました。
非日常が演出する惨劇に自らを問いなおしながら?深酒に浸り、早朝の帰宅となったのでした。

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小便小僧

2011年02月09日 | ブログ

・・・慌ててトイレに駆け込んで用を足し、安堵と至福につつまれた次の瞬間「え」も言われぬ温もりで目を覚ます・・・誰しも記憶にあるのではないでしょうか。

「やっちゃった・・・」
長男がどんな夢を見たのかどうか、冷たくなったパンツの居心地にバツが悪そうに起きてきました。
妻がシーツとマットを洗濯しようと布団をめくると、長男が表現した地図とは別にもうひとつ小さな地図が・・・妹よ、お前もか!

濡れたシーツと敷マット、そして蒸れた毛布。
いつもはひとつずつ洗濯機で洗うものの、家庭用では「型を整えなおして!」とたびたび作業を止めてしまいます。
おねしょの洗濯は脱水、乾燥と一日がかりです。
子どもたちのおねしょのたびにブルーな妻ですが、通園途中にある「布団OK!」のコインランドリーに目を付けていたそうです。
チャンス到来とばかりに、犯人をそれぞれ保育園と幼稚園に送り届けた帰りに「はじめてのコインランドリー」に行き、その驚きと感動を語ってくれました。
敷マットシングル2枚分と毛布2枚、これをいっぺんに回して1時間足らず・・・
これで夢から覚めた夢もこわくないか?!

ランドリーは進化、そして清潔好みは退化・・・そういえば昨日、7年ぶりにあたらしくなった掃除機の排気はなんと吸い込む前よりクリーンなんだとか。

夢から覚める夢を見ているのは子どもたちだけではありません。
私たちはみんな「夢から覚めたような夢を見ている私」ではないかと仏はいいます。
遊煩悩林2010.11.13 http://ryoten.blog.ocn.ne.jp/jyosyoji/2010/11/

「おねしょ」の語源は「寝小便」から来ているとしても、小便小僧の「小僧」ってどうよ!と思っていたら・・・「小僧」はもともと「坊主」の対義語なんだそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

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