遊煩悩林

住職のつぶやき

「この」問題

2017年03月13日 | ブログ

結果的に、月に一度の同朋会をサボることになってしまった月はじめの博多出張。

出張のテーマは「お経」に記述された差別的表現について。

戦前・戦後を通してこの問題をお寺に問い続けられた井元麟之さんの地元を訪ねました。

井元さんの没後も問題提起は続いています。それはお寺が問われたまま応えてこなかったからでしょう。

寺に対するこの問いかけを、寺に従事する僧侶が一人ひとりの課題にしてこなかったというのが、問われ続けていることの内実です。

「寺が」問われているという他人行儀的な姿勢、僧侶の当事者意識の低さが問題を放置し続けてきた。

僧侶がどのようなつもりで法事でお経を読誦しているのか。そのことが問われてきたのです。

ようやくこの問題を自分たちの課題として受け止めようとする寺の姿勢は評価されるのですが、それを読誦する僧侶の一人ひとりのこの問題に取り組む姿勢はまだまだ評価に値するものにはなっていないのでしょう。

「その(差別的表現)部分」は飛ばして読んでいるとか、「そのお経」は読まないとかでは話になりません。

お寺は2023年に宗祖である親鸞の生誕850年を数えようとしています。親鸞を聖人と呼んできたことの意味、その誕生の意味を確かめていく大事な時間です。

宗祖の生誕850年はまた「立教開宗800年」ともいわれます。浄土真宗が開かれたことの意味を重ね合わせながら、私はいったい何を学んでいくのか。

そして宗祖親鸞聖人生誕850年・立教開宗800年を迎える2023年の前年は、他でもない「この問題」を問い続けてきた全国水平社の創立100年。

その前々年に開催される東京オリンピック。開催の最低条件としてすすめられる国際人権規約を採択するオリンピック憲章に則った諸整備。

すでに施行された「部落差別解消法」や「障害者差別解消法」、また「LGBT差別解消」に向けた法整備、「アイヌ文化博物館」建設や開会式でのアイヌ古式舞踊など、これらが実質的にオリンピックを契機に果たす効果は何なのか。

開催のための口先だけの法律であれば、それは差別を口実化して煽っていくだけのことになる。

オリンピックを経て、水平社創立100年を経て迎える宗祖親鸞聖人生誕850年・立教開宗800年に向けて、盛り上げるべきはお祭りムードではなく「この問題」に一人の僧侶としてどう向き合っていくかだと思う。

そんな目指すべき姿勢を明確化したとき、問いかけられつづけているこの問題に、常に蓋をして逃げ惑っている自分を発見させられます。

数日前、靖国神社を訪問して、まだまだ向き合わなくてはならない大きな課題を再認識させられました。

同時に、三重の仏教青年会の仲間たちに紛れて、東京の若い僧侶たちと交流して、逃げ回っていても渦中だと刺激を受けました。

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わすれなのかね2017

2017年03月11日 | ブログ

先週の博多出張につづいて、今週は東京出張で、『遊煩悩林』ブログ上でのご案内がギリギリになってしまいましたが、「勿忘の鐘2017」とお彼岸のご案内です。

3月11日の震災発生時刻に鐘をつきます。

14時46分から鐘を鳴らしたのち、15時から本堂でお勤めとお焼香、その後NHKの『証言記録 東日本大震災 「岩手県陸前高田市」』のDVDを堂内のプロジェクターで観たいと思います。

どなたでもご参加いただけますので、お出かけください。

ご参加いただいた方の中からご希望の方に、4月15日(土)に松阪市の農業屋コミュニティ文化センターで上映される映画『太陽の蓋』のチケットを差し上げます。

http://taiyounofuta.com

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ん?

2017年03月07日 | ブログ

第一金曜日の同朋会。

毎月書き換えるお寺の「掲示板のことば」について説明責任を果たす場でもあります。

今月は、博多出張の帰着が遅れて説明責任を果たす場を逃してしまいました。

常照寺の同朋会メンバーは住職不在でも成り立っていく頼もしい聞法者で構成されております。住職不在の方が盛り上がるかどうかはわかりませんが・・・

 

世話にならんと威張る人 お世話になりますと頭が下がる人

 

今月の掲示板の言葉ですが、この言葉に果たさなくてはならない説明責任は何もありません。

お感じいただくまでのことですが、あえて申し上げるとするならば、「どちらがいい」というのではないということです。

威張る人がダメで、頭が下がる人がいいと言いたいのではないということです。

威張る人には驕りが、頭を下げるには打算がはたらいたりするものです。

この言葉のヒントになったことばがあります。

スマホに残っていたどこかの掲示板のことばの写メ。

そこには

世話になりたくないと気づかうより

お世話になりますと頭の下がる方が大切ではありませんか

と書かれてありました。

こちらの方がメッセージがはっきりしていますね。

でも、このままだと何かしっくりこない。

だってこのままだと僕のメッセージじゃないですし、僕にはこのような問題提起はできないなと思ったのです。

まあ、「世話」の程度にもよるのでしょうが、この「気づかい」にも尊いことがあるんじゃないかなと感じるのでございます。

いつも申し上げることですが、常照寺の掲示板は明確なメッセージを発信するというのでなく、「ん?」と立ち止まっていただくことを念頭にしておりますので・・・

とにかく。そのうち誰かに世話にならざるをえない老病死が待ち構えているわけです。

誰かの世話にならざるをえない状況を認識したときに果たして自分はどのような姿でおるのか。

世話になっているという実感があれば、頭を「下げる」のではなく、自ずと下がっているのでしょう。

いま「あなたどうなの?」と問われています。

日頃いろいろな方の世話になりっぱなしですが、なかなかその世話になっていることさえも気づかぬような恩知らずが私です。

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