遊煩悩林

住職のつぶやき

用事

2009年03月29日 | ブログ

    ものを取りに部屋に入って
    何を取りにきたかを忘れて
    戻ることがある
    戻る途中で
    ハタと思い出すことがあるが
    その時は すばらしい

    身体が先に この世へ
    出てきてしまったのである
    その用事は何であったのか
    いつの日か思い当たるときの
    ある人は 幸福である
    思い出せぬまま
    僕はすごすごあの世へ戻る

    「生」杉山平一

気がついたらこの世に存在していた「じぶん」。
それを「身体が先に出てきてしまった」と表現して、ものを取りにいって忘れた場面になぞらえる。常に、この世に出てきた「用事」とは何だったのかを問い続けておられるからこその着眼、発想であるのでしょう。
彼岸会で荒山先生が紹介してくれたことばのひとつです。

そしてもうひとつ

    人間に生まれた限り
    どうしても
    遇わねばならぬ
    人がいる
    それは 私自身である

    広瀬 杲

とのことばを導いて紹介してくれました。

この世に人間に生まれてきた「用事」とは、「私」に遇うということです。

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あなたは人を殺しますか

2009年03月28日 | ブログ

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか」の著者アレン・ネルソン氏の訃報が今朝の朝刊(中日新聞)に伝えられていました。
自らの戦争体験を語り「憲法9条を世界へ」と訴え、日本の各地でも講演活動されました。
ネルソン氏の講演を聞いてこころ動かされた方から、年明け早々に「ネルソンさんの病状が思わしくなく、闘病には多額の費用がかかるためにカンパを募る」というメールを受け取っておりながら、何もせずにいる間にその知らせを聞くことになりました。
皮肉なのは、訃報を伝える新聞の1面には、北朝鮮の人工衛星を撃ち落とすための「軍備」が「国民不在」のまま粛々と進められている記事が躍っていることです。
「長距離弾道ミサイルが日本に落下した場合に備え」ということになっていますが、「ミサイルを飛ばさせ」「それを迎撃する」といっては飛躍があるのかもしれませんが、そう表現するならば、まさに戦闘状態です。つまり戦争です。
翻訳家の池田香代子さんは「戦争は戦争の顔してこない」と指摘し、ある大谷派の師は「美しい国づくりという顔をしてやってきます」と申されました。まさにそれが現実になりつつあります。
方や「人工衛星」という名の「ミサイル」によって、一方「破壊措置」とか「安全」「保障」という名目で・・・です。

ネルソンさんは、少女から尋ねられたのだそうです。
「Mr.ネルソン。あなたは人を殺しましたか」
私たちは常に被害を想定しますが、そうではなく、私が人を殺す人間となるということです。すでに私たちはそれを黙認しているところで加担しているわけです。
戦争体験を語る人をまた一人、私たちは失い、自ら体験者になろうとしているとは言い過ぎでしょうか。
「Mr.&Mrs.あなたは人を殺すつもりですか」
とネルソン氏に問われています。

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暇つぶし以上に

2009年03月27日 | ブログ

借りてきた はかりの上に
自分のしあわせをのせている
あなたが 僕には悲しい

知ったかぶりをした かおのうらで
いつだって 他人をせめていて
あなたが 僕には悲しい

たらいで生まれて
おけのなかまで

何もわからず生きている
時の流れが悲しい

暇つぶし以上に何をしていますか
暇つぶし以上に何をしていますか

「暇つぶし以上に」小椋 佳

彼岸会で荒山先生が紹介してくれたことばのひとつ。何も付け加えることはありません。

もうひとつこんなことばを添えてくださいました。

自己とは何ぞや
これ人生の根本問題なり

清沢満之

自己の根本問題ですから、このことが明らかになっていないのに、あれやこれやといっても空しいだけです。この自己の問題を問うことを避けて、むやみに時を過ごす私。そこから逃げている以上はどれだけ「誰かの役に立っていること」をやっていても暇つぶし以外の何ものでもないのでしょう。

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そのうち

2009年03月25日 | ブログ

そのうち お金がたまったら
そのうち 家でもたてたら
そのうち 子どもから手が放れたら
そのうち 仕事が落ち着いたら
そのうち 時間のゆとりができたら
そのうち そのうち そのうちと

 できない理由を
 くりかえしているうちに

結局は何もやらなかった
むなしい人生の幕がおりて
頭の上に淋しい墓標が立つ
そのうち そのうち 日がくれる
いまきた この道 かえれない

「そのうち」相田みつお

彼岸会で荒山先生が紹介してくれたことばのひとつ。

お寺にいると「またゆっくりお参りさせていただきます」と、体裁よくお断りをいただくことが少なくありません。すぐにそんなことを考えてしまったのですが、このことばは、誰かのことをいっているのではないのでしょう。他でもない、この私のことを言い当ててくれているのです。
あの人はいつも「そのうち」「そのうち」言っている、というのではないということです。いま、一所懸命にやってるつもりになっている私が、本当に大切なことを置き去りにしてどうでもいいことばかりやっているのでないかと問わされてきます。

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これでいいのだ?

2009年03月24日 | ブログ

彼岸が過ぎていきました。というと、ただ時が流れていっただけに聞こえます。
彼岸を「彼の岸」といただくならば、彼の岸が過ぎていくというのは、つまり悟りの岸からどんどん離れていく、まさに煩悩の生活に埋没していくありさまということになります。
まあ「彼岸」を過ごすといっても煩悩の真っただ中におるわけです。彼岸に生きるということは娑婆ではあり得ません。
彼岸のお中日にご門徒とともに彼岸会を勤め、ひととき浄土の教えを荒山信(名古屋教区恵林寺住職)先生に聞かせていただきました。
ウンチク的にとくに耳に残っていることがあります。
赤塚不二夫氏の「天才バカボン」。この「バカボン」は梵語であるというのです。ご存知の方はとにかく、私はそれを初めて聞きましたので「へぇ・へぇ・へぇ」っと。調べてみればその種の番組でも紹介されたことがあるそうです。
バカボン、漢字にすると「薄伽梵」または「婆伽梵」、もとは梵語、つまりサンスクリットで「Bhagavad(ヴァガバッド)」と発音されることばが中国に渡って漢字に置き換えられた(音写)といいます。その意味は「煩悩を超えた徳のある者」。「覚者」「世尊」とも訳されるそうです。
荒山先生の述懐によれば、バカボンに出てくる「これでいいのだ!」の境地は、まさに目覚めた者のことばであると。
バカボンのパパの「これでいいのだ」は、まさにお念仏なのでありました。
自然(じねん)の理をそのまま受けとめていく姿勢、ありのまま、あるがままをそのまま引き受けていく姿が描かれていたのでありました。
赤塚先生は仏教徒、なかでも真宗の念仏者であったそうです。
その宗教心の現れがバカボンであり、そこには真理が赤塚不二夫なりに表現されていたのでありました。
彼岸の声を聞くというのは、ありのままをなかなか引き受けられない私を知らされるということでしょう。教えに会って初めて自己執着の煩悩に埋没している我が身が知らされてくるのでした。
「彼岸」は梵語の「paramita (パラミタ)」を音写した「波羅蜜多」からきています。意味は「到彼岸」ということです。迷いの此の岸から彼の岸に至るというのです。私たちは自分自身が迷いの境地を彷徨っているとは、なかなか認めることができません。彼の岸からの呼び声によってはじめて迷っていたことに気がつかされるのでした。

浄土の教えを聞くということは、私の姿が知らされるということです。彼岸に限らず、手を合わせて如来の、釈尊の、親鸞聖人の、そして亡き方々の彼岸の声に耳を傾けたいものでありますが、建て前だけでなかなかそうはならない私という存在が知らされてきます。それを「これでいいのだ」では、開き直りもいいところです。そんなわたしが本当に救われなければならないものとして見出され、手が合わさったところに「これでいいのだ」の世界が開けてくるのでありましょう。


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