遊煩悩林

住職のつぶやき

一万円札を好きになれいないワケ

2017年01月24日 | ブログ

『週刊朝日』のこんな記事をみて早速『マンガ まさかの福澤諭吉(遊幻舎)』上下巻を注文しました。

https://dot.asahi.com/wa/2017011800026.html

読みながらふと、いつかこのブログに「私が一万円札を好きになれないワケ」を書いた気がして過去のブログを検索。

様々なキーワードを入力しても出て来ずにあきらめて、別の仕事にとりかかっていたところに出てきました。

ブログに書いていたのではなくて、ある機関誌に寄稿させていただいた「書籍紹介」に、それらしいことを書いていた記憶でした。

あくまでも「書籍紹介」ですから、「私が一万円札を好きになれないワケ」を書いたワケではありませんが。

お金が嫌いなわけではありません、むしろ好きな方。

ただしどうして今のお札、しかも日本で最も貨幣価値の高い一万円札にこの人の肖像が刷られているのかという「問い」にぶち当たったとき、いまどうして『美味しんぼ』の雁屋哲さんが『まさかの福澤諭吉』を書いたのかということの意味がみえてくるような気がします。

なぜ一万円札が聖徳太子から福澤諭吉になったのか。そもそも日本の最初の紙幣に「神功皇后」がどうして使われたのか。どうしてそれまでの「両」が「円」になったのか(これについては過去に書いてました。遊煩悩林2008.2.25http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/25e1ce05b44221cb6684c5c6a216f598

疑問が膨張していきますが、それらの背景を知ることで、今この自分の当たり前に思っている価値観や考え方が、実はいつどこでつくられてきたのかという過程を知ることができるような気がします。

同時に『学問のすゝめ』をベストセラー化し、戦争を肯定化する根拠を求めたのはいったい誰だったのかを考えると、他人事ではありません。

そんな自省の念を含めて「私が一万円札を好きになれないワケ」を2010年の『同関協だより』第44号「気になる一冊」から読み取っていただければと、下記に転載させていただきます。

 『同関協だより』第44号は下記のアドレスからもご覧いただけます。

東本願寺 http://www.higashihonganji.or.jp/release_move/free/pdf/douseki_03.pdf

東本願寺無償配布発行物 http://www.higashihonganji.or.jp/release_move/free/

 

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生きるって?

2017年01月20日 | ブログ

今朝のNHK「あさイチ」に俳優の鈴木亮平さんがゲストで出演されていました。

恩師で映画監督の故 塩屋俊さんとの思い出のエピソードの中で、2010年の映画「ふたたび」がとりあげられていました。

「ふたたび」は、ハンセン病療養所を50年ぶりに退院された元ジャズトランペッターとその孫を描いた作品。

「ふたたび swing me again」予告 https://www.youtube.com/watch?v=2jHNVYLcVj0


また、昨日の新聞(中日新聞2017.1.19)に、映画「あん」の原作を著したドリアン助川さんが、名古屋市立大学で著作をもとに生きる意味について講演されたという記事がありました。

「あん」http://an-movie.com

「あん」執筆にあたって取材を重ねられたところから感じられた「生きる意味」、生まれたことの意味、生きることの喜びと苦しみ・・・

「ふたたび」も観たいな、ドリアン助川さんの話も聞いてみたいなと思いつつ、常照寺報恩講のご案内です。

今年は28日の午後、この映画「あん」を本堂内のプロジェクターで放映します。

親鸞さまの報恩講でどうして「あん」を?をひとつのテーマにしながら。

寒い中ではありますが、温かい飲物を用意してお待ちしております。

 

井上雄彦さん作の『親鸞屏風』の画像を転用しています。

詳しくはこちら ☞ http://www.flow-er.co.jp/nshinran/

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初夢

2017年01月06日 | ブログ

伊勢神宮の正月3が日の参詣が約50万人だとか。

もともとそんなキャパシティじゃないんでしょう伊勢という町は。

インターチェンジを封鎖したり、交通規制したり、バスでスライドしたり、あの手この手でこなそうとするんですが無理もある。

総理大臣のことはじめを伊勢からはじめる必要があるのかどうかはとにかく。

3が日でも渋滞しない寺の前の道路が、首相がおいでになると余波で渋滞の車列が門前にまで及んでくる。

お寺は静かな正月ですから、特段に迷惑を被ったわけではありませんが、なかには迷惑だという人もおいでになる。

迷惑の「ものさし」は、個々の都合に過ぎませんが。

今年の年賀に「正覚大音 響流十方」と記しました。門前の掲示板にも書した。

大晦日から元日にかけて寺の鐘をついた。126吼。煩悩の数ではなくて打数です。

「吼」と数える。正覚の大音が126回「吼えた」、十方に響き流れたとの解釈は私の都合。

なかには迷惑な騒音で睡眠が妨害された「迷惑騒音 睡眠妨害」という人もおいでになるかもしれない。

迷惑の「ものさし」。

なかには「除夜の鐘」をとり止めたり、日中に時間変更したところもあるといいます。

戦時中に武器製造のために梵鐘を拠出してきた歴史からみれば、寺の鐘が鳴るのは平和の証。

伊勢の町は、長い間、何かに配慮して鐘を鳴らさなかった。鐘楼さえ建ててこなかった歴史がある。

それはどんな「ものさし」によるのか。

鐘が鳴る迷惑、鳴らない迷惑。

鐘の音は仏願だと思う。「大音」は音量、ボリュームではない。「大願」だと。

鐘の音が仏教だとすれば、それに迷惑するというのは「廃仏」の感覚。無自覚ではあろうけど。

ただしその「音」によって、それを不快に感じることによって自覚させられてくる。

「自覚」、つまり覚まされてくることがある。

明治の初めの「廃仏毀釈」。仏を廃し、釈迦を捨ててどうなったか。

だいたい仏の教えは自己批判を伴ってくる。「自己肯定」の「ものさし」で聞けば心地よいはずがない。

だけどそれが「覚める」ということだ。

覚まされ続けなければ、いつまでも正月の夢の中のまま一年が過ぎる。

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響流大音

2017年01月01日 | ブログ

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