遊煩悩林

住職のつぶやき

組会

2006年08月30日 | ブログ

昨日、真宗大谷派三重教区南勢一組の組会が開かれた。組会は「そかい」と読む。「組織」の「そ」というわけだ。
馴染みのない響きなので「何の会?」といわれることも多い。
わかりやすくいえば「真宗大谷派」という「国」の「三重教区」という「県」の「南勢一組」という「市」の議会、市町村の行政でいう市議会のようなものと思っていただいていい。
内容は、三重教務所長(「県知事」的存在)の巡回による本山(真宗大谷派)の方針伝達と三重教区の2006年度(2006.7.1~2007.6.30)の予決算・事業計画の報告。そして南勢一組の予決算と事業計画等の承認などである。
これらを受けて常照寺では来月「門徒総会」(町会?)が開かれ、末寺である常照寺の運営が決定されることになる。
よく、寺は自坊の運営だけをしているようにも思われがちだが、真宗大谷派の場合こういう機構がある。
ちなみに本山の議会は「宗議会」と「参議会」があり、それぞれの地方には「教区会」という議会がある。
さて、今年度南勢一組で行われる教化事業は次のとおり。それぞれ該当する方は予め予定しておいていただきたい。

組同朋総会・教化委員会 2006年7月24日(月)法受寺
組教化委員組会・所長巡回 2006年8月29日(火)法受寺
門徒会総会・所長巡回 2006年9月1日(金)常照寺
門徒会研修 2006年19月26日(火)無碍光寺
声明講習 2006年10月12日(木)立雲寺
寺族推進員研修1 2006年11月2日(木)常照寺
育成員研修 2007年1月9日(火)法受寺
門徒会研修2 2007年2月1日(木)常照寺
同和研修 2007年3月9日(金)玄徳寺
他推進員研修2 2007年5月25日(金)無碍光寺

第8次壮年特別伝道「真宗入門連続講座」
第1回 2007年2月18日(日)常照寺
第2回 3月25日(日)無碍光寺
第3回 4月15日(日)桑名別院
第4回 5月13日(日)常照寺
第5回 6月1日~3日(金~日)真宗本廟

親鸞聖人講座
隔月 坊守会 南勢一組一部(松阪)・二部(伊勢)

真宗公開講座 2007年6月16日 青山ホール

以上

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「いいこと」と「わるいこと」

2006年08月29日 | ブログ

真宗教団連合が発行している「法語カレンダー」、その月々のことばを味わう上での手引きとなる法話集が東西両本願寺の出版部から発行されている。本願寺出版社の「月々のことば 9月のことば」のところにこんな記述があった。

「南無阿弥陀仏と称えたならば何かいいことがありますか」
と尋ねられたことがあります。
その時には「『何かいいことって』って何ですか」と逆に聞いてしまいました。
その時の『何かいいこと』は、病気が治るとか、今の心配事が解決するなどということでした。

当然のことだが、念仏をいくら称えてもそんな『いいこと』はない。
「念仏は悩む人を救うのであって人の悩みを救うのではない」とも教えられる。
「いいこと」「悪いこと」って何だろう。
「吉」とか「凶」とか。「禍」とか「福」とか。
結局はその人にとって都合の「いいこと」「悪いこと」という以外にない。
「いい」とか「悪い」とかっていう「ものさし」がいかに曖昧なものかをたとえることばに「塞翁が馬」という中国の故事を思い出した。

辺境の砦の近くに、占いの術にたけた者がいた。ある時その人の馬が、どうしたことか北方の異民族の地へと逃げ出してしまった。人々が慰めると、その人は「これがどうして福とならないと言えようか」と言った。数ヶ月たった頃、その馬が異民族の地から駿馬を引き連れて帰って来た。人々がお祝いを言うと、その人は「これがどうして禍をもたらさないと言えようか」と言った。やがてその人の家には、良馬が増えた。その人の子供は乗馬を好むようになったが、馬から落ちて股の骨を折ってしまった。人々がお見舞いを述べると、その人は言った。「これがどうして福をもたらさないと言えよう」一年が過ぎる頃、砦に異民族が攻め寄せて来た。成人している男子は弓を引いて戦い、砦のそばに住んでいた者は、十人のうち九人までが戦死してしまった。その人の息子は足が不自由だったために戦争に駆り出されずにすみ、父とともに生きながらえる事ができた。このように、福は禍となり、禍は福となるという変化は深淵で、見極める事はできないのである。

念仏は「損」か「得」か、「いい」か「悪い」か、「吉」か「凶」か、「禍」か「福」かをはかる「ものさし」ではない。
「真」か「偽」かをはかる「ものさし」である。
人間の都合のいいことを叶えようというのは「偽」の宗教だろう。
しかし「偽」に頼りたいと思うこころを問わねばならない。

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人間にとって大切なこと

2006年08月28日 | ブログ

広島出身の戦前の政治家に望月圭介という人がいる。
広島は古くから真宗の教えが広くいきわたったところでもあり、この地のご門徒は特に安芸門徒といわれている。
さてその熱心な安芸門徒といわれた望月氏が当時内務大臣であった時のエピソード。
大阪城の天守閣が補修されているときに、望月氏が視察に訪れた。
そこで一生懸命作業される職人らに

「毎日ご苦労さん。あなた方は毎日そうやって働いていて下さるが、一体何のために働いているのかね?」と質問したといいます。
時の内務大臣であることを知らなかったのであろう職人の一人がこう言います。
「そりゃあんた、働かんと金貰えませんがな」と。
すると望月氏「それならその金貰ってどうするのかね?」
職人「そりゃ、米買うためですよ」
望月氏「何のために米買うのだね」
職人「何のためにって、そりゃ喰うためですがな」
望月氏「ほな何のために喰うのかね」
職人が「喰わなかったら死にますがな」と答えた時に、望月氏はさらにこう尋ねたといいます。
「喰うておったら死なんかね?」

毎日、忙しい忙しいと過ごす中で何か大切なものを見失ってしまっているのではないかということを提起されるエピソードである。
「忙」は文字どおり「こころ」が「亡い」さまを表す。
「喰うために働き、働くために喰う」そんなどちらが主であるかどうかわからない所をぐるぐると回りながら時間を費やしている。
生まれたての赤ちゃんは誰に教えられたわけでもなく、母親の乳首を探す。働くためではない、ただ生きるという本能のままにである。「ただ、生きる」ということの意味を考えなくてはならない。

お釈迦さまにはこんなエピソードがある。

ある日、お釈迦さまが散歩されていると田んぼのあぜで休んでいた農夫がこんな声をかけた。
「ブッダ(おしゃかさま)よ、あんたはそうやってぶらぶらしている間に、わしらはこうして毎日、田をたがやして食物を生産し、自分や家族に食べさせ、人にも提供している。あんたも少しは田をたがやしたらどうか」と。
お釈迦さまはこう答えられた。
「農夫よ、あなたはそうやって田をたがやしているが、私もまたたがやしている」
農夫「たがやしているって、どこの田をたがやしているのですか」
お釈迦さま「私がたがやすのは、こころの田である」と。
お釈迦さまが開拓されたのは、人間の精神面における生産道でありました。(観経序文の問題点/東本願寺出版部)

忙しい日常のなかで、人間として生きる上で大切にしていることは何か。仏教では「三宝」という。「仏」と「法」と「僧」、仏は法を説かれた仏陀(お釈迦さま)、法は南無阿弥陀仏、僧は「僧伽(サンガ)」のこと、ともに仏法を依りどころにする仲間のことである。

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どんな世界に生まれたいと願うか?

2006年08月27日 | ブログ

昨日、ネット上のニュースには、ある中学生の自殺がとりあげられていた。
親殺し、子殺し、または夫や妻を殺すなど、家族殺しが月並みな話題のようにも感じるほど報道されている中で、ネット上でこの自殺の話題に目がいったのは、ちょうどこんな記事を読んだ直後だからであった。
真宗大谷派が毎月発行する同朋新聞の9月号が手元に届いた。その1面には12年前に「スミマセン。もっと生きたかったけど・・・」という遺書を残して自殺した当時13歳の少年が、家族一人ひとりに折った折り鶴の写真が掲載されている。紙面ではこの少年の父親の活動とインタビューが掲載されていた。少年の父親は今、いじめのつらさを訴える講演などの活動をしている。少年と同じように人にいえない苦しみを持っている子どもたちへのメッセージの中に

何もしないでも
何もできなくても
ここにいてくれる方が
よっぽどうれしい

と記されている。

この新聞を読んだ同じ日、一家5人が乗る乗用車に、飲酒運転の車が突っ込んで3人の子どもが死亡したというニュースを見た。

日常に伝えられるこれらのいのちの問題から、果たして自分は「いのち」という事柄をいかに受けとっているのかと考えさせられる。
いじめを苦にして自殺した少年少女。突然の事故で奪われた幼いいのち。これらのいのちをどのように受けとっていくのかという重い課題が両親をはじめ、このニュースを聞いたもの、そして社会全体に向けられている。
たとえばこれらご両親がどんな無宗教者でも、あるいは信心家であったとしても「子どもたちはどうして死ななければならなかったのか?」「どこに行ってしまったのか?」ということと向き合わねばならない時が必ずあろう。そして「どうしてこの子たちは生まれてこなければならなかったのか?」と苦しまなければならない。
私たちは葬儀に際してこう表現をする。「亡き人は浄土に還られた仏さまです」。そんなことばが現場では何か白々しくしか聞きとれないかもしれない。だけど、死んだ子どもたちが浄土のはたらきに還ったと願わずにはおれなくなるのが、苦しみの中で真実に出会った人のこころであろう。それは、いずれ自分も浄土に還りたいと願わずにはおれないこころである。だからこそ生きている今、残された時間に浄土の世界を選びとり、聞いて、知っていかなければならない。
問題は、どんな世界に生まれたいと願うか、ということだと思う。
浄土は死後の世界ではない。浄土を願って生きるところに大切なことがある。
問題を外に向け、加害者を取り囲む環境や責任の所在を明らかにすることも大切なのかもしれないし、もちろん加害者を裁くことも社会的には必要なのであろう。しかし、最も大切なことは「いのち」をいかに受けとっていくかということだと思う。

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秋の彼岸のご案内

2006年08月23日 | ブログ

さて、お盆が過ぎ、ややもするとすぐ彼岸がやってくる。
春秋の彼岸は太陽が真西に沈む。この方角にお浄土があると教えられ、春秋のひとときに浄土が言い伝えられてきたのである。
お浄土は物質ではないから、「西」といわれるのは、私たちが向かうべきこころの方向を指し示している。
彼岸とは「彼の岸」、つまり浄土をいう。真西に沈む太陽に「浄土」という方向を教えられ、西に向かって座し、浄土に生きることを願う。そして私たちが日ごろ、何を大切にして生きているのかを確かめる。常日頃バラバラになりがちな一人ひとりのこころの模様を確かめていく仏事である。
そして「西」と指し示されるお浄土に向かって我々は生きていることを確認するのである。ただし浄土は遥か彼方にあるのではない。それと同時に「死」の事実もまた「生」の延長線上の彼方にある出来事ではない。「生」すなわち「死」、生きることのなかに「死」ということが内包されている。だから「浄土」とは決して死んでから行く世界のことをいうのではない。今、浄土を願いとしながら生きるということが願われているのであろう。「生きながらにして浄土往生を得る」。
では、その「お浄土」とは何を意味しているのか。一人ひとりが問い尋ね、お浄土とそのはたらきにふれていく機縁となるよう・・・。
常照寺のお彼岸のご案内を申し上げます。
是非ご参詣下さい。

秋のお彼岸会
9月23日(祝)秋分の日 午後2時~
名古屋教区 荒山 淳 先生の法話

私たちは今、何を大切に、何をたよりに、
依りどころに生きているのでしょうか?
秋のひととき、ともに仏法に聞いていきましょう。

門徒総会
彼岸会終会後

2005年度決算/2006年度事業計画等
「御遠忌お待ち受け総上山」について
「真宗入門連続講座」開催について

倶会一処 追弔会 - 常照寺 -
納骨式 - やすらぎ公園 ? 

9月23日(祝)午前11時~

常照寺の墓所「倶会一処」にこれまで分骨された方々、
また新たに分骨される方の追弔法要をお勤めします。
法要後、やすらぎ公園内の寺墓に納骨します。
亡き方の遺骨を分けることで広がる仏縁です。

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