遊煩悩林

住職のつぶやき

おくりびとのおくりさき

2010年01月28日 | ブログ

報恩講をお勤めします。
逮夜日のよるは「おくりびと」を本堂のプロジェクターで放映する予定です。
「おくりびと」については賛否ありますが、少なくとも「たいせつなこと」を学んでいく入口にはなると思いますし、これならお寺にも足が向くという方がいらっしゃるとすれば、それもまた大切な機縁となるものと思います。
ところで、年頭にいただいた、ある先生からのお年賀に

映画「おくりびと」には、「おくりさき」が画かれていない・・・

というご提起をいただきました。

昨年の米国アカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画「おくりびと」。わたしも感動しました。が、なにかオカシイの感が・・・。いろいろとアタルうちに出遇った言葉が上記の一言。原作者といわれていた青木新門氏が原作者(『納棺夫日記』)であることを拒否した、その想いを語った言葉でした。衝撃を受けました。葬儀に、あるいは法事に導師としてかかわるわたしに「そもそもお前もおくりびと。先立つお方をお前はどこにおくった?天国とか、星になったとか、風になるの、とか、門徒にいいかげんなこと言わせとるのは誰のせいか?否、そもそもお前の行き先、はっきりしとるのか!?」と、・・・今、グサリ!と効いている一言です。

2010年賀正

さてこのご指摘をムネにしながら「おくりびと」を鑑賞し、報恩講はどんな恩に報いるお講(あつまり)なのか確かめたいと思います。

よるご参会の方に青木新門氏の著書「いのちのバトンタッチ」(東本願寺出版部)を差し上げます。部数限定ですのであしからず・・・。

2010honko

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対決姿勢

2010年01月27日 | ブログ

日帰りで京都へ。
2時からの会議でしたので、いつも13時30分の会議に間に合うように乗る近鉄特急だと30分の余裕があったので、いつもは素通りしてしまう阿弥陀堂と御影堂の両堂にお参りをしました。阿弥陀堂にはハイチでの地震に対する救援金箱が設置されています。小銭を入れつつ改めて他人事にしかできないことをかみしめつつ手を合わせました。

京都に向かったのは「真宗大谷派同和関係寺院協議会」が宗派の協力を得て行った「真宗大谷派における部落差別問題実態調査」報告会に出席するためでした。

Img_0016_2 今回の報告会の会場は、何かいきさつがあるのかどうかはわかりかねますが本山宗務所の議場でありました。
真宗大谷派の最高議決機関は、僧侶の代表者会である宗議会と、ご門徒の代表者会である参議会で構成されていることは、ご承知のご門徒もいらっしゃることだと思います。
その議会が開かれる「議場」です。
議場よこに設置された喫煙施設はよく利用しますが、縁の遠い議場にはじめて足を踏み入れ、目にする機会となりました。

さて、報告会では「真宗大谷派における部落問題実態調査をどう読むか」と題して、調査に当初から関られた熊本学院大学社会福祉学部教授の山本尚友氏から講義があり、その中で、分厚い報告書から何を読み取るかということについてのご提言をいただきました。
部落差別問題について、時代は「寝た子を起こすな」論が蔓延しているとした上で、今なおいわれなき差別を受けている被差別部落のご門徒が所属する寺院から「(寝た子を起こすような)取り組み・運動はもうやめてほしい」という意見がいつ出てきてもおかしくはない状況が読み取れる、と。
今回の実態調査は、一般社会に向けられた地域調査や意識調査とは違って「寺院」を対象にした「はじめての」の調査であったが、そこから見えてきたことは「もうやめてほしい」という意見が、いわゆる「被差別寺院」から挙がってきたときに、その要求とどう「対決」していくのかという課題に向き合う覚悟をしておかなければならないことが明確に見出されたという意味において有意義な調査であった、という内容として了解させていただきました。「対決」という言葉をあえて用いておられたのが印象的でした。
質疑では「寝た子を起こすな」の「寝た子」は誰のことかという問いに対して、それは「差別をする人」ではない、「部落差別」そのものだとおっしゃっておられました。
当然、「寝てない」前提があってのことです。
また、個人的にずっとモヤモヤしていた、解放運動は「差別をなくす」ことを目的にする運動なのかという課題に対しても、部落差別問題における解放運動は「被差別部落をなくすことを目的とする運動である」と指し示していただきました。
そして宗派組織に対してご自身の大学組織の現状をふまえた上で、今後も「全宗門的課題としてやっていく」という方向性を明示していくことが重要であることを強調されておられました。イヤイヤやっている、またはヤラされている姿勢ではすぐに『差別事象』となって現れてくる、というご提言でした。
部落差別問題についての学習態度については、(どの組織でも)やる人は熱心にやるが、やらない人はとことんやらないことが顕著であるともいっておられました。
常に「目を逸らそう」とする自分自身を言い当てることばです。

ところで、本山発行の「同朋新聞」その2月号の9面にある「人間が人間であるために」欄を担当をさせてもらいました。
「真宗大谷派における部落問題実態調査」関連の記事です。是非お読みください。

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寺に人が来ないのは

2010年01月24日 | ブログ

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おみがきをしました。
例年になく大勢の方がお手伝いに来てくださり、ワイワイ賑やかに「仏事としてのおみがき」ができました。
「仏事としての」というのは、ただ仏具をキレイにしただけにとどまらないということです。
今回はじめて参加してくださった方が多かったのはまずもって何より有り難く嬉しいことですが、混乱もありました。
多くの仏具をバラバラにしておみがきしますから、例えば香炉の蓋と取手を固定する真鍮製のくぎのような小さな部分が紛失してしまったりなど、こちら側の注意と配慮が緩慢だったことが、お迎えする側の私と世話方の反省です。
だいたい常照寺の場合は当番制で動員する行事や集まりはひとつもありませんから、お一人おひとりのご門徒が「よしこの日は寺に行こう!」と「その気」になってくれないことには足が向けられないわけです。寺の行事に誰かに誘われたわけでもなく、ご案内を見ただけで「はじめて参加する」人がおいで下さるには、まず予定を立てて、それなりに覚悟というか勇気をもって来られるのだと思うのです。
それを考えれば、はじめて来られた方や、はじめてお子さまや、お孫さんを連れて来られた方がおってくださったことは、意識とか無意識とかでなく「伝統」という流れを自ら知り、伝えようと実践する行為だなぁと頭がさがります。
問題はそれを迎える側です。寺に居住する私はもちろんですし、寺に足を運ぶことが日常化している人の姿です。お寺に馴れてしまったものの態度が問われるのです。独占的になってはいないかということです。
私が幼い頃は「ようおいでになったねぇ」と迎えてくれる先輩たちがおられたなぁと思うのです。そういう言葉によって「間に合わない自分」が育てられてきたのです。
毎年、報恩講をお迎えすることをとおして、やはりその恩を忘れておったことに気づかされ、その恩に報いるせめてもの行いとして、新たな参詣者をお迎えし、自分の知った恩をお伝えする場としてつとめられてきたのではないでしょうか。
「仏事としてのおみがき」は、大勢でやることに意味があるのでしょう。ビギナーもベテランもいてこそ「仏事」が伝統されてきたし、されていくのでしょう。
一人でできることをみんなでやることに意味がある。
しかし近年、事情が変わってきました。油に灯心を垂らして灯した輪灯は電化され、煤が出なくなりましたからおみがきする回数が減りました。
そして真鍮みがき剤やおみがき用の布までも進化して非常に便利になってしまったのです。
かつては歯磨き粉みたいなものでゴシゴシと時間をかけてやっていましたから、人が多ければ多いほど助かったわけです。
今の製品は、薬品に仏具を浸してそれを拭き取るような作業でピカピカになるという、少人数で素早くおみがきできるようにつくられた代物ですから、大勢でやると混乱するのです。
だからといって、段取りのいい少数精鋭がいいとか、アタマカズさえ揃ったらいいというのでは、誰にも伝えることができません。
わざわざ何のためにご門徒の皆様全員におみがきのご案内をするかといえば、どんなご縁でも「寺に身を運ぶような人となってほしい」という願いがあるからです。
しかし、今回はじめて参加された方が「また来年も参加しようね」と、また孫を連れてきてくれたおじいちゃんのそのお孫さんがおじいちゃんの年になったときに、孫の手を引いてどこかの寺へおみがきに出かけてくれるような願いを伝える迎え入れの態度であっかというと、どうでしょう。
下手をすれば「自分たちでやるからもういいよ」的な狭義での親切は締め出しにも近いのではなかったかとまで思います。
狭義の親切心の根はどこにあるか、それは「やらされている」という被害者意識にあるのでしょう。
「ありがとうまた来てね」で送り出すはずが、伝わったのは「何でワシがこんなことせんならんのや」では・・・寂しいばかりです。自も他も救われることはありません。自分たちのお寺だという意識を少しでもお伝えできれば、互いが「有り難うご苦労さま」でつながっていくのです。
こちらが想定する段取りばかりに気を取られ、せっかくの伝統の場を、見知らぬご門徒とご門徒がつながっていく大切な場を、実は迎える側が奪ってしまっているということを強く認識させられます。
段取りは狂うもんです。それをフォローできる人がいるのですから、狂ってもいいのです。
そういう信頼を確かめることもひとつだと思いますし、そもそも一人でやらずにみんなでやることを前提とする「仏事としてのおみがき」の目的は、互いの違いを認識し「バラバラでいっしょ」なんだということを知ることにあるのです。
だいたい常照寺の仏具のおみがきはその気になれば1人・2人でできる程度のもんです。それをわざわざ30人も40人もの人数で、わざわざ昼食を用意してやるということはどういうことなのかを、迎える側がしっかりと確認しておかなくてはなりません。大切なその確認を怠った責任を感じます。
同時に、本当ならば頭を下げてお迎えしなければならない私が、自分だけの都合で焦り、威張っているのでしょう。まず、自ら頭を下げて「ご苦労さん」と迎えられることがなければ、その人もまた頭を下げて次の参詣を迎える人間には育たないのです。
なんでも経済的で合理的に・・・という尺度に飼い馴らされてしまった者の「忘恩」を気づかしむるおみがきの伝統でありました。
早く安く済ませること。それしか考えようとしない現代に、わざわざその必要はないことを伝える先人の知恵が仏具という財というカタチで遺され伝えられてあったのでした。
世間の忙しさの合間をぬって出て来られた皆さんなのですから、ダラダラとおしゃべりしながら寺でのひとときを過ごしてもらう、「仏事」を楽しんでもらわなくてはならんなぁと。そんな気遣いも配慮も欠けているなぁと・・・他人事のように思うのでした。
だから報恩講を勤めるのです。ただ時期が来たから毎年やっとるわけではないのでしょう。

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愚痴も言えないはず

2010年01月23日 | ブログ

坊守が退院しました。
椎間板のヘルニアが悪化して寝たきり(寝ることもままならず)でしたが、何とか自力歩行ができるまで回復してお寺に戻ってきました。
留守中ご迷惑をお掛けした皆さまにお詫び申し上げ、ご心配と励ましをいただいた方々にお礼申し上げます。
7日に入院してまず、硬膜外へのブロック注射をしましたが効き目なし。次いで神経根ブロック注射を打ったところ、一時は痛みが軽減したようですが束の間、やはり激痛に・・・。そうこうしている間にオシッコの制御機能まで麻痺してしまい18日に手術を受けました。
手術そのものは1時間ほどで終了。手術室から出てくるなり「動いた!」といって足を子どものようにバタバタさせる姿に安堵しました。
退院は週明けというお話でしたが、術後、病院の廊下をウロウロうろうろする姿を目撃されて「じゃあもう出てってもらおうか」ということになったのでした。
しばらくは安静ですからご門徒の皆さまには何かとご不便をおかけすることと思います。
それにしてもたった2週間あまりの入院でしたが、健康な日には想いはかることもない様々なことを知らされました。
病者本人のつらさ、子どもたちの我慢、両親の親身、ご門徒の心配、家族・縁者の励まし、幼稚園の先生のフォローなどなど、本人もこれほどひとの「つながり」を感じたことはないといっています。
それだけでなく、病床600という大病院のシステムとそこに従事する医師・看護士らの体制と姿勢。同部屋患者の様々な人間模様とその家族の苦悩・・・。
これらはこの2週間に私の目が外に対して垣間見たことです。
その目を我が身に向けたときに映し出された姿こそ、妻が病の身にまでなって知らせたオノレのあり様でした。
家で痛みにもがき苦しむ妻を見て苛立ちさえ覚えたその自分が、せいぜい1日に30分病室を訪ねては「どや?大丈夫か?」と声をかけているわけです。
彼女はそのことについては何も言いませんが、そんな夫の姿はどんなふうに映ったのでしょうか。
知らされたのは、他人の痛みに対してどうすることも出来ないことへの苛立ちと、痛む妻の姿から目を離すことができる気分的な余裕。それは何もできないのに、何かやってやろう、やらなければならないというこころから離れたことの開放感でしょう。それよりも日頃、完全に彼女の存在を「あて」にしている自分です。いなければいないで自分でやることを、いればやろうとしない。たとえそれが痛みを押して無理をする姿であったとしても・・・です。子どもの面倒や、炊事、洗濯、掃除などなど・・・要は利害関係にしてしまっていたということでしょうか。つまりこれまで妻の「無理」を「利用」して、自分のやりたいことをやっていただけだったということです。
しかもその「やりたいこと」すらも文句を言いながら・・・。
とにかく病の「当事者」ではない私にとってはそんな「ありのまま」の姿をさらけ出させた彼女の病いでした。
しかしこれだけはしかと考えさせられました。今回は病院に入院させ、手術室に送り出す側でしたが、遅かれ早かれ立場が入れ替わる時が来る・・・。
病床についてはじめてみえてくる風景と人間模様がきっとあるんだろうと。
そのときは愚痴も言えないはずの私ですが・・・。

Img_0013_2 写真は摘出したヘルニア。生々しいので加工してあります。触感はわかりませんが見た目は鶏皮もしくは軟骨?ホルモン?といった感じ・・・。執刀医は「思ったより大きい?」とか。これが彼女を寝たきりにさせてまで人のつながりを自覚させ、また夫の身勝手さを浮き彫りにしたホトケさんということになるのでしょうか。ナムアミダブツ・・・

 

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みがく

2010年01月22日 | ブログ

報恩講を前に恒例のおみがきをします。

もちろん仏具を研くのですが、それをとおして実は何が磨かれるのか。
本堂で仏典アニメなどを放映しながらやろうと思いますので、ご門徒の皆さまには、どうぞお子さまやお孫さま連れでお出かけください。

Omigaki

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