遊煩悩林

住職のつぶやき

立場を棄てて無責任を生きる

2015年06月27日 | ブログ

出会った人に劣等感を抱かせることができる人材、某広告代理店の社是だと聞いたことがあります。

私は女装するようになって、じぶんのカラダがいわゆる女性向けの衣服が合うことに気がついた。だってもともと世界のデザイナーのほとんどは男性だし、170cm以上あるモデルを想定して女性服がデザインされているんだから。私たちの身の回りにはそうやって劣等感を抱かせる装置がちりばめられているんです

一昨日、愛知県岡崎市の三河別院で開催された、真宗大谷派女性室の公開講座に寄せていただきました。

「私の『役割』ってなんだろう? -日々、生きづらさを感じていませんか?-」

というテーマでお話しいただいたのは、東京大学東洋文化研究所の安富歩教授。数年前に京都の東本願寺で行われた親鸞聖人七百五十回御遠忌のあるシンポジウムでお見かけしたしたときは男装でしたが、今回は女装された教授にいろいろ教えていただきました。

性同一性障害に悩む男性のコンプレックスのひとつに「ノドボトケ」があるそうです。このノドボトケを削る手術で、なかには声帯を傷つけてしまって重度の後遺症をのこす場合もあるといいます。

講師の場合もともとノドボトケがないんだそうです。だから「ノドボトケの有る無しで『男女』を規定するなら私は『女』なんです」と。この国の男女の性別の法律的根拠について、「性器の形状」と定められてある。だから男性が女性へ、女性が男性へ性別の変更をするときはこの「形状」を整えなければならない。男性器をいわゆる女性器に「みえる」ような、女性器をいわゆる男性器に「みえる」ようにするというのです。子宮の有無とか、子どもが産めるとかいう基準ではなく「性器の形状」にこだわっている国なんです、と。

もともとどちらかの「性」にわけられない性質をもっている私たちを、「性器の形状」だけで「性別」を判断していることの異常性、それ以外に多様な特徴があるにもかかわらず性器の形状にこだわる変態性。その意味ではこの国は「性器の形状に異常にこだわる変態国家だといえる」と。

「性器の形状」にこだわることの変態的発想さえやめれば、さまざまな差異を認めあう多様性がひろがるというご指摘だったと思います。

生まれた瞬間からその形状によって♂♀に分類されて、♂は水色、♀はピンクを充てがわれ、♂は「男らしさ」を、♀は「女らしさ」を求められていく。まさに生まれた瞬間から男女の「役割」を与えられて、成長とともにその立場を担わされていく。

私たちは知らない間に「立場」を生かされているのではないか。もともと人間として生まれた本質を放棄して、気づくこともないまま立場を充てがわれてその役割を演じることを、私たち一人ひとりが黙って選びとっているのではないかと考えさせられます。

「立場主義のイデオロギー」と、講師は表現されます。

今回の講座のチラシに

私たちは、自分の人生を生きていく上で様々な場面に応じた役割を担っています。「役割」を果たす上で、日常生活が我慢と忍耐で「生きづらく」感じ、「何だか違うなぁ」と思いながらも、頑張りすぎていないでしょうか。ほとんどの人は何役もの顔を持ち、自分自身を犠牲にしてまでも環境にマッチした生き方をしようとしています。その「役割」はあなたが自分で決めたものですか?すでに与えられたものですか?あなた自身が、世間の「らしく」ということで、自分や相手をカンジガラメにしていませんか?一緒に「役割」・「生きづらさ」について考えてみましょう。

とあります。「何だか違うなぁと思いながらも、頑張りすぎていないでしょうか」と。みんなが自分の立場を守って頑張り続けた結果が先の大戦だった。「頑張ろう」をやめておけば少しはマシな結果になっていたと。そして東日本大震災以降の社会状況について

私たちの今の社会は、意義を感じることのできない、無意味な役割に満ち満ちているのではないでしょうか。それは、やればやるほど、個人の命を削り、社会を破壊します。この状態は大変危険であって、そのことは、東日本大震災によって生じた様々の出来事によって露呈しました。最も典型的であったのは原発事故です。このようなことをしていると、社会はやがて統御できない暴走に突入してしまうのです。私は、人々がこの偽の役割の罠から抜け出し、社会の暴走を止める方法を探求し、それを親鸞の他力と方便の思想に見出しました。このことをお話ししたいと思います。(公開講座:講師からのメッセージ)

「原発はない方がいい」とみんなが思っているのに、「戦争はアカン」とみんなが思っているのに、全然違うところに向かっていっているこの状況は、もしかすると私たちが自分の立場を遵守し、役割を果たすことに頑張っていることにその原因があるのではないかと思い当たります。

自分の立場を守りながらいくら政権の批判をしても意味はない。安保反対!原発反対!とデモをして過半数をとったとしても、結局だれかがその立場を引き継いでいく構造です。

講師は「一人ひとりの生き方が変われば過半数もいらない」と。「人間社会は分業でできている」というとおり、役割と立場の大小さまざまな歯車でまわっているのだから、もっとも効果的なのは、たった1%の人が立ち止まれば歯車が止まる、と。

私たち一人ひとりの生き方が変わるというのは、今まで果たしてきた役割を認識して、その立場を放棄するということでしょう。歯車をまわすためだけに人が生み出されるところから自らを解放する。その1%とは誰か、自分だけは立場を守り誰かがその1%になればという自分の姿が見えてきます。

「そもそも人間に『責任』をとる方法はない。すべての『責任』を如来におかえししていく」という講師の言葉が印象に残っています。「全責任無責任主義」と言っておられましたが、奇しくも講座を終えて帰ってきた地元では、京都教区靖国問題学習会の「一切平等・非戦平和主義に生きた植木徹誠氏に学ぶ」現地研修会が開かれていて懇親会だけ参加させてもらいました。植木徹誠は息子の「無責任一大男」「わかっちゃいるけどやめられない」植木等のキャラクターの背景に生きているのだと感じました。

立場と役割のシステムには意味を必要とする。国のために死んでいくことに意味を与える装置が「靖国神社」です。女性室の講義でも講師は「立場主義イデオロギー」にふれて「靖国神社」に言及されておられましたし、靖国問題学習会が伊勢を訪れて植木の思想にふれていただいたことに、たまたまですが何かいよいよ問題の本質がはっきりしてきたようにも感じました。

7月の掲示板に貼り出す言葉を早速したためました。

立場を生きていると ほんとうの自分がわからなくなる

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ならんことをなす

2015年06月21日 | ブログ

数日前、「地域で活躍している若い人をターゲットに取材しているのですが」と電話があった。
今どきの「取材詐欺」か「掲載詐欺」の類いかと思ったのですが、聞いてみると新聞の支局。
折り込みの地方版で「今どきの若いもん」という企画の取材だという。
お寺の世界ではまだまだ「若手」といわれますが、今年40歳になったので、いいのかなーと思っておりました。
では「取材の日程を」ということで、「学校からお帰りになるのは何時ごろですか」
「・・・・・。」
「今どきの若いもん」は今年10歳になる“せがれ"のことでございました(汗)。

学校から帰ってきた本人に聞くと、その日、社会見学の一環で近くの高齢者ディサービスセンターを訪問してお年寄りと交流したそうです。その交流を取材に来ていた記者が、「お坊さん」を名のるせがれに目をつけてくれたのでした。
取材の日、目をつけてくれた若い女性記者とは違うベテランの男性記者さんにややテンションをおとしつつ、「あなたにとってしんらんさんはどんな人なの?」「お寺は何をするところなの?」「お坊さんになって何をしたいの?」などの質問に親子そろって「う~ん」と唸りながら取材を終えたのでした。
私自身、それらの質問には答えをもっているつもりでいましたが、それが非常におぼろげな認識だったと気づかされました。「若いもん」が取材の対象でしたが、「もう若くないもん」が次世代にちゃんと伝えていかなければならないことは何なのかはっきりしていないことを思いました。
「私にとって親鸞聖人はどういう方なのか」「この地域に浄土真宗の寺が開かれているということはどういった意味があるのか」「そしてお寺や僧侶がほんとうにはたしていかなければならないことは何なのか」。私たち親子だけでなくご門徒とも語り合っていきたいと思います。

 

ところで取材中、どこで習ったのかは知りませんが彼は「亡くなった人のためにお参りする」と確かに語っていましたから、記者さんは「亡くなった人の冥福を祈る」と表現してくれたと思うのですが、それはいずれも浄土真宗ではありません。「冥福は祈らない」のが真宗でしょう。これから僧侶としての歩みの中で、いつ、そのことがはっきりしてくるかなーという楽しみももらいました。
じぶんで望んだわけでもなく浄土真宗のウチに生まれたものの、どこで浄土真宗の仏教に出遇っていくかという課題。私自身は真宗に出遇っているのかとも思います。
「戦争が起こらずに」にしても、「みんなが幸せに暮らせ」にしても、その願いを叶えるためにお経を読むのではないでしょう。お経を利用するのではなく、「人殺し」はしないさせない、そういう教えを自らの信仰にしているにもかかわらず、実はそれに加担したり黙認したりしている自己を発見していくのが仏道なんでしょう。
知らない間に彼もいわゆる世間でいう「お寺」や「お坊さん」また「ぶっきょう」のイメージを身につけているんだと思いました。問題はその世間の「すり込み」に対して、何のフォローもできてないことです。
寺や坊主の存在意義は、自己を問うことを抜きにして地域や社会のためであったり、故人の冥福を祈るためであったりしないとならんみたいなことが「世間」なんだと思います。当の坊主がそれでは仏教もお経も何もかも「国家」の都合に利用されていくしかない。かつて寺や坊主は戦地に人を送り出し、「人殺し」の手伝いをしてきた。さらに戦死者を讃えることで戦争を美化してきた。「世のため」「人のため」「亡くなった人のため」は聞こえはいいですが、人の為と書いて「偽」とあいだみつをのいうとおりです。
狭義の「みんな」が「幸せに暮らす」という強迫観念に縛られて戦争するんでしょう。
天皇陛下が言おうが、総理大臣が言おうが仏道に照らして「ならんことはならん」のが坊主の使命だとすれば、だけど「ならんことはならん」はずが、世のため人のためとの風潮に流されて大真面目に善かれと思ってやること、そのツケはじぶんにかえってきます。逆に誰かのためにやっていると思っていたことが全部じぶんのためだった、自己を明らかにするためであった、と。仏さまに手を合わせるのは、それを一人ひとりが確かめるということなんじゃないかと思い至ります。
親子でも師弟でも人間の言葉では伝えきれないこと、伝わらないことがあります。真の道理を知らせるのは、常に如来と一対一だからです。人間どうしては伝えきることができない事柄を、ともに仏前に座り親子で確かめていきたいということさえも、もはや親としての願いという名の煩悩です。
「ならんこと」も条件や都合次第でやってしまうのが「私」です。
ややこしくなってきましたが、ただ、今回の取材をとおして、メディアが今のこの社会に求められている役割と果たしている効果、また寺や坊主が今のこの社会に求められている役割と果たしている効果を思う時、どこかやっぱり世のため人のためでなくてはならないような暗黙の「大前提」を感じるのです。
仏教の目的は成仏にあります。仏に成るものとして自己を見出す、私を明らかにする。一人ひとりがそのままの境遇の中で「生まれた意義」と「生きる喜びを」見出すことです。「世のため人のため」はすでに成仏された仏さまのお仕事ですし、結果のことでしょう。
端から人のためにやるんじゃない、じぶんのために何でもやっているんです。にもかかわらずです。自らの往生極楽の道を聞きひらくという歩みが、どこまでの他者とともに助かっていくかどうかが、世のため・人のために通じていくのであって、それを身近な他者や地域社会から問われてくるのだと思います。
戦争は駄目だといいながら、それに反する流れが止まらないのはなぜなのか、と。
「もう若くないもん」が「今どきの若いもん」に、これだけは伝えておかなければならないことは何か。それは若いもんも若くないもんも同時に尊いことなはずです。「今どきの若いもん」に「もう若くないもん」が教えられるのかもしれません。

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道理

2015年06月11日 | ブログ

常照寺の永代経法要で、先月21日に真宗大谷派(東本願寺)宗務総長名で出されたいわゆる「安全保障関連法案」に対する『日本国憲法の立憲の精神を遵守する政府を願う「正義と悪の対立を超えて」』と題した声明をご門徒の皆さんにお配りしました。

http://www.higashihonganji.or.jp/news/important-info/11435/

その翌々日には宗派の最高議決機関である宗議会、またその翌日には同じく参議会において「非戦決議2015」が決議されました。
http://www.higashihonganji.or.jp/news/declaration/11475/ 

この「非戦決議」は、1995年に宗派が決議した「不戦決議」を踏まえたもので、個人的には「不戦」が「非戦」に改められたことの意味を深く受けとめています。

「非戦」の「非」には、『道理に合わないこと』とありますが、もっとも私たちが真の道理とするところからみて今の情勢はまさに「非」です。

数日前にある研修で寄せていただいた松阪の本願寺派のお寺の山門には「天の邪鬼(あまのじゃく)」が装飾されていました。説明によると「天の邪鬼」は「わざと人間の言動に逆らうひねくれもの」だといいます。

どうも昨今、「お国」の言動に対してわざわざ歯向かうような宗派の声明が多いような気がします。ただ、それは何でもかんでも国家に反対するというのではなく、あくまでも道理に対してどうかという問題が増してきているからでしょう。

永代経法要でも申し上げたのですが、私たち一人ひとりが所属する寺や宗派が「不戦」「非戦」というからそれに従わなくてはならないというものではありません。

先の声明では、「私は、いま、あらためてすべての方々に問いたい」とあります。

この「私」という一人称が大切なのでしょう。

何を問うか。「私たちはこの事態を黙視してよいのでしょうか」と。

ここでは「私たち」です。大多数の国民がこの事態を黙視しているのではないかという問いかけです。

その大多数の一人として「私はどうなのか」。「私はこう考えますが、あなたはどうですか」という問いかけです。

そういった意味で、宗派や寺がどうこういうからそれに従わなければならないのではなく、あなたはどうなんですかという問いかけに、一人ひとり私はどうなのかを確かめていかなくてはならない時がきています。

賛否はあっていいのです。何を道理とするのか。それが問われます。

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探しもの

2015年06月01日 | ブログ


うーん。思い出せない。

お寺の掲示板の言葉を何と書こうかと思いをめぐらし、スマホのメモを探っていたところ

人間が仏を証明するのではない 仏が人間を証明するのです
曽我量深

というメモのところで手が止まりました。
ただ、このことばをどこで目にしたのか、何かの書物で見たのか、誰かに聞いたのか・・・。それが思い出せない。
その出典を確かめようと思っても、このメモをどこで記したのか覚えがないのですから調べようもないまま掲示板に記しました。

探しものは探している時には見つからないものですが・・・。

ふとした時の記憶を辿って本堂に並べられている『曽我量深選集』の第6巻「歎異抄聴記」第26講を開くことができました。

そこには

仏教学真宗学は人間が仏を証明する学ではなく、人間が仏に証明される学である。

教行信証の証とは我々人間が仏に証明されることである。

掲示板に記したメモはこの記憶でした。

「浄土真宗」は、私たちが仏さまを証明するのではなく、仏さまが証明してくださっている私に出遇うという仏教だということです。
仏さまやそのはたらきを自分なりに説明しようとする私そのものが、一所懸命に仏さまを証明しようと躍起になっているのではないだろうかと問われます。
それを説明し、証明しようとするのは、もしかすると仏さまやそのはたらきを疑っていることに他ならないのではないかと考えさせられました。

ところで、探しものをしながらこんな「詩」を思い出しました。

ものを取りに部屋に入って 何を取りにきたかを忘れて 戻ることがある
戻る途中で ハタと思い出すことがあるが その時はすばらしい
身体が先に この世へ出てきてしまったのである
その用事は何であったのか
いつの日か思い当たるときのある人は 幸福である
思い出せぬまま僕はすごすごあの世へ戻る

杉山平一

「生」というタイトルのこの詩は、2009年の常照寺の春の彼岸会で名古屋市の恵林寺住職である荒山信先生が紹介してくださった詩です。
http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/6767d4e7eeacf23d54e285eb62bb15ba

信先生のご子息である荒山優さんが常照寺の永代経にお話しに来て下さいます。
「いつまでもお浄土のみ教えをお伝えするために」と諸仏に願われてつとまる法要です。
それはこの自分がいったい誰なのか、この世に何をしにきたのかを確かめさせていただく機会です。
仏さまが証明して下さる「私」とはいったいどんな「私」であるのか、ともにたずねたいと思います。

ご参詣をお待ちしております。

http://jyosyoji.info

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