遊煩悩林

住職のつぶやき

盂蘭盆に学ぶ3

2007年08月22日 | ブログ

仏とは?

私たちがお盆をお迎えする時の態度はどうでしょうか。
亡き人やご先祖さまが満足して下さいますようにといって何かをしてあげるという姿は、亡き人を救おうとしている立場に他なりません。追善供養して喜んでもらおうとしている自分は一体何なのか、そのことを問い尋ねる機縁が「お盆」なのです。
経は亡き人や先祖に対して説かれるのではありません。亡き人を縁にして私自身が聞く教えです。教えによって私の姿に目覚めさせるはたらき、その亡き人のはたらきを仏といただいていくのです。

冥福

今日、お盆は日本固有の祖霊信仰(先祖崇拝)と深く結びつき、魂祭とか精霊会ともよばれ、一般的には冥土から祖先の霊が帰ってくると受けとめられています。
またその霊を追善供養し冥福を祈るためにお盆をつとめると考えられているようです。盆棚や精霊棚とよぶ祭壇をもうけたり、迎え火や送り火を焚くなど、様々な行事が行われます。その多くの行事が浄土真宗の教えにそぐわないものばかりですが、迷いながらも世俗の習俗に流されがちであります。

迷信

祖先を大事にすることは人間として当然のことだと誰もが思うのですが、祖先を敬うことの見返りとして除災招福をのぞむのであれば、それは自分の欲望を満足させるための功利性以外の何ものでもありません。
つまり私たちがおつとめするお盆を祖先崇拝にとどめてしまえば、それは「迷信」となってしまうのです。

報恩

「亡き人はお浄土に往生された仏である」と受けとめていくのが浄土真宗の教えです。「真宗」ということばには、さかさまごとに生きている自分自身が、真実を宗とする生き方を、どこまでも問い尋ね、学ばせていただくということがあらわされています。
私たちがお迎えするお盆のこころとは、目連尊者の故事を縁として、亡き父母や祖先への孝養のおもいを仏法の報恩にまで深め、いよいよ信心あつく本願念仏の生活を喜び感謝することにあるのです。「本願を信じ念仏申さば仏となる」のが浄土真宗です。真宗門徒はお盆に限らず阿弥陀如来の慈悲を仰いで、念仏を喜ぶ人となるところに教えの意義があり、そのことひとつがひいては祖先をはじめあらゆる諸仏のご恩に報いるということになるのです。

真宗の生活

親鸞聖人は「正信偈」の中で「大悲無倦常照我」(如来の大慈悲は倦きことなく、常に我を照らしたまう)と教えてくださいます。仏さまはいつも私の心を照らし出して、私の姿を教えて下さっているということです。私に先立って浄土に往生された方々は、お盆の3日間だけこの世に還ってこられるのではなく、いつでも私に目を覚まして下さいと、願いをかけてくださっているのです。その願いこそが仏であり、亡き人のお姿と受けとるのです。
亡き人に導かれてお寺やお内仏、またお墓にお参りするなかで「おかげさまで何よりも大切なことを教えていただきました」と、お念仏申していく生活。そこに、亡き人と別れてはじめて出遇える世界が開かれてくるのでしょう。
真宗の生活とは、亡き人をご縁として仏さまの願いを尋ね、深く自分の生きざま、生き方を見つめていく日々の生活です。お盆はその大切なご縁のひとつです。

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盂蘭盆に学ぶ2

2007年08月21日 | ブログ

救済

お釈迦さまご在世の当時、出家した修行僧は生きるために最低限のものしか持たず、住居を構えず、屋外に野宿をしていましたが、雨期の期間だけは僧院に定住し修行に励んでいたといいます。
雨期が明ける7月15日は夏安居という100日の修行を終えて修行僧が伝道に出る日であったそうです。目連尊者の尋ねに対してお釈迦さまは、目連の悩みは、目連だけの問題ではなく万人共通の問題でもあるから、すべての修行僧によびかけて、ともに考えましょうといわれ、3日間にわたって話し合われたといいます。

ウッランバーナ

お釈迦さまは目連尊者に対して「亡き母を餓鬼として救おうとしている自分自身は果たして何者なのか」と問います。
そして「自分自身の餓鬼性に気づかずに、母を救うことなどできぬ」と。
そしてこの3日間の話し合いをお釈迦さまは「ウッランバーナ(さかさま)」と言い結ばれたといいます。
救われなければなないのは、母親でなく目連尊者自身であったのです。

布施の行

目連尊者は、母親を救わんがために母親の墓前にばかり供物を供えていたのでしょう。その目連尊者の姿こそ、母と同じ餓鬼の姿であったのです。
しかし、3日間の話し合いの中、多くの修行僧は托鉢に出られないかわりに目連尊者の飲食の布施を受けました。釈尊の導きによって多くの修行僧に布施を行うことで、必然的に目連尊者自身が餓鬼道から救われたのです。
そして餓鬼としての母の姿は、自らの餓鬼性に気づかせしむる慈愛であったと受けとめたとき、母が餓鬼ではなかったことに気づかれたのでしょう。
それは同時に母が救われたということです。つまり、母を供養しようとした目連尊者自身が、実は母から供養されていたのです。

つづく

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盂蘭盆に学ぶ1

2007年08月20日 | ブログ

お盆とは?

お盆は「盂蘭盆」といって、「仏説盂蘭盆経」という経典の中に説かれる目連尊者というお釈迦さまのお弟子の物語に由来する行事です。
盂蘭盆とはもともと梵語の「ウッランバーナ」を中国語に音訳したもので、「さかさま」という意味です。人間の認識や判断がさかさまで、そのために苦しみや悩みを感じる、つまり、真実に背いて、さかさまごとをやりながら生きている人間の生きざまを盂蘭盆ということばで表しているわけです。
目連尊者が、餓鬼道におちて苦しむ亡き母を、お釈迦さまの教えによって百味の飲食を修行僧に施し、その功徳によって救ったという経説にもとづく仏事がお盆です。

十法界

人間のあり方を仏教では、十種類にわけて輪廻していると説きます。
その地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界・声聞・縁覚・菩薩・仏の十種類のあり方を十法界といいます。
その中でも地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界を六道といいます。餓鬼道は「満足を知らないさま」です。
もっともっとと、すでに与えられているものに満足せず求め続けるさまです。

餓鬼道

目連尊者の母親が餓鬼道におちたのは、我が子の可愛さのあまり、他に施しをすることなく、人のものを奪ってでも我が子に与えたからでした。
目連尊者は母亡き後、母の愛情を一杯に育ったことを顧みたときに、生前の母の行いは餓鬼そのものであったことに気づくのです。

供養

目連尊者はそのことを悲しんで、なんとか餓鬼の母を救ってあげようと、生前の好物などのご馳走を墓前に供えたのでしょう。
しかしいくらお供えしても母親のところには届くことはありません。目連尊者はいろいろ試みますが母を餓鬼道から救うことはできず、万策尽き果ててお釈迦さまのところに母親を救う術を尋ねるのです。

つづく

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夏休みの宿題?

2007年08月18日 | ブログ

◇ 次の問いに、下記の選択肢からふさわしいものを選んで下さい。

問1. 「おぼん」のことを正式に何といいますか?

A.魂祭 B.精霊会 C.盂蘭盆会

問2.    おぼんは、お釈迦さまの教えが説かれた経典にもとづく行事ですが、その経典は何という経典ですか?

A.正信偈 B.盂蘭盆経 C.観無量寿経

問3.    [問2]の経典にはお釈迦さまのお弟子の物語が説かれていますが、そのお弟子とは誰ですか?

A.阿難尊者 B.目蓮尊者 C.阿闍世太子

問4. [問3]の母親が堕ちたとされる世界を何といいますか?  

A.地獄道 B.餓鬼道 C.畜生道

問5. [問3]のどんな行によって親子は救われましたか?

A.布施 B.供物 C.読経

問6.    「お盆」の語源である梵語にはどんな意味がありますか?  

A.感謝 B.供養 C.さかさま

盂蘭盆会では、こんな問いを設けて皆で「お盆」について学びました。
解答は以下のとおりですが、解答を知ることだけがすべてではありません。
それぞれの問いについて「どうして?」と疑念を抱いてネット上を訪ね歩くと学びが広がる、ということもあるかもしれません。逆に「迷い」が深まるということもあるかもしれません。
ですが、「迷い」が深まるというのは、その事柄をどのように受け止めたらいいのかが解らないということでもありましょう。「私はこのように受け止めています」と言い切っていけるようになることが「迷わない」生き方だと思います。
そして毎年巡ってくる大切な行事を縁として問いを深めていくことが、たんに「夏休みの宿題」だけにとどまらず「人生の課題」となっていくのではないでしょうか。


【答】
問1.C(真宗では「歓喜会」ともいいます)
問2.B(浄土真宗が依る教典は「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の浄土三部経)
問3.B(Aは主に無量寿経に、Cは主に観無量寿経に説かれます)
問4.B(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天上界の六道のうち、特に地獄・餓鬼・畜生を三悪道といいます)
問5.A(「布施」には、財物を施す「財施」、教えを説く「法施」、不安を取り除く「無畏施」があります)
問6.C(梵語は古代インドで用いられた言葉で、「お盆」の語源は「ウッランバーナ」)

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盂蘭盆会 表白

2007年08月17日 | ブログ

つらつらおもんみるに 
釈迦如来 ご在世のむかし
尊者 目健連、通力をもって 
亡き母の姿を見及ぶに
生前の吝嗇の報いによって 餓鬼道に苦しむ
よって尊者 これを見過ごすに忍びず
その救済の手立てをば尋ね奉うるに
釈迦如来 答え給わく
罪はすべからく布施の行によって償うべしと
即ち 陰暦七月十五日を期して四方の僧伽に供養し
もって 亡き母の安楽を願いたり と
まことに 我ら五濁末代の衆生
得ることのみを急ぎて 与える喜びを知らず
心は暗く 貧欲の淵に沈みて 
智恵の光に遇うこと難し
ねがわくは 今日ここに集える人々
この盂蘭盆会にあたり
亡き人を偲びつつ 相携えて阿弥陀如来の御前に詣で
静かにみ法に耳を傾けて 遠く古の因縁を顧み
謹んでみ教えを仰いで 
はるかに我が身の行く末を思い
人の世の苦しみの根源と 真実の幸福の道に目覚めて
念仏相続 うるわしく
もって 生命尽きるまで 正しく生きぬかんことを
伏して請う 
三宝 深く大悲を垂れて 哀愍 摂護したまえ

敬って白す

8月15日、残暑とはいえ猛烈な暑さの中ご参詣いただいたたくさんのご門徒とともに、常照寺の盂蘭盆会をお勤めしました。
上記は、この盂蘭盆会の表白(【ひょう-びゃく】法会や修法を行う時、その趣旨を本尊および大衆に告白すること-広辞苑-)です。
お昼の法座は「親鸞は父母の孝養のためとて一遍にても念仏申したることいまだそうらはず」との歎異抄のことばをテーマに「お盆って何だろう」ということをご門徒とともに考えました。
「盂蘭盆会」を「施餓鬼会」というところもありますが、真宗の教えをいただく者にとっては、亡き人を「餓鬼」にせず「極楽浄土に往生された」事実を確認し、その教えを聞かせていただく法座であります。
夜の法座では「仏説阿弥陀経に観る極楽浄土」と題した本願寺派の教化ビデオを観て、お浄土の世界について学びました。

法要の写真を一部ではありますが常照寺のホームページに披露していますのでご覧下さい。
http://homepage.mac.com/jyosyoji/
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