遊煩悩林

住職のつぶやき

そこに反省はあるんか

2019年09月12日 | ブログ

毎年お彼岸の法要後に常照寺では門徒総会を開催しています。

前年度の事業報告と決算、新年度の事業計画と予算が主な内容。

予算といっても、宗派からお寺に「ご依頼」された事柄(金額)をご門徒に「ご依頼」(お願い)させていただく大事な場でございます。

その総会に向けた資料を予め確認すべく、過日、役員会を開催。

お寺といってもシステム上は法人業務ですから、代表役員(住職)・責任役員・総代・会計・監事(監査役)といった肩書の取締役のような方々との重要会議。

で、です。

新年度の事業計画の説明に至って、不備が続々と。

「この資料つくったん誰や!」という話。一般企業であれば責任問題なのかもしれません。

2020は「うるう年」なので、春のお彼岸のお中日は例年と1日「ズレ」が生じるのですが、変更されておらず。などなど。

「誰がつくったんや」と自問自答しながら、緊張感を欠いていると反省をしておるところでございます。

 

さて、お気づきの方もおいでになるかと存じますが、先にご案内を申しております今月の彼岸会のお知らせにつきまして。

9月23日(祝)とすべきところが9月23日(日)の記載になっておりました。

「深くお詫びして訂正をさせていただきます」

9月23日は月曜日でございまして、日曜日ではございません。

お彼岸のお中日でございまして、秋分の日の祝日でございます。

 

「深くお詫びして訂正をさせていただきます」

とはよく聞くフレーズですが、そこに「反省はあるんか」と内なる声が聞こえてきます。

「人世に自己を学び問う」ことをテーマとした秋のお彼岸。

こんなミスをいくら繰り返しても懲りない自己のあり用を問い返したいと思います。

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然り乍ら

2019年09月01日 | ブログ

D'ailleurs,c'est toujours les autres qui meurent.

Marcel Duchamp 1887-1968

デュシャンの墓碑銘にはこう刻まれているという。

さりながら、死ぬのはいつも他人ばかり

"d'ailleurs "は、翻訳サイトによれば「さらに」「しかも」「とにかく」「どうせ」「なにしろ」「ところで」「いずれにしても」「かつ」「また」「その上」「ちなみに」などと訳される。

それを、碑銘の語が「さりながら」「されど」と訳されているところにひっかかった。

デュシャンの、この「さりながら」の前にはどんな言葉が想定されているのだろう。

「私もいつか死んでいかなければならないのだろうか」・・・さりながら、なのか。

それとも、この世を憂いて「私はもう死んでしまいたい」・・・さりながらなのか。

そんなことを思いつつ、常照寺の前住職が亡くなる直前に掲示板に掲げた蜀山人の

今までは他人のことかと思うたに 俺が死ぬとはこいつぁたまらん

蜀山人(大田南畝)1749-1823

という辞世の句を思い出した。

蜀山人は、今までは他人事だった・・・さりながら、俺のことだったと。

 

さて常照寺の彼岸会に法話をいただく荒山淳さんが、名古屋の東別院の機関紙「センタージャーナル」の106号(2018.9.25発行)巻頭言に、小林一茶の句を紹介されていた。

露の世は 露の世ながら さりながら

一茶

この句との出遇いのエピソードの中で、自己の学びの姿勢を自省を込めて展開されている。

http://www.ohigashi.net/app/webroot/files/detail/files/センタージャーナル%20No.106%28圧縮版%29.pdf


「さりながら」をキーワードに、自己を学ぶ彼岸を迎えようと今月の掲示板に掲げた。

そもそも学ぶということは 人世に自己を学び問うことである

そして新学期を迎え、学ぶことの意味を見失っている子どもたちへ。 

 

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