遊煩悩林

住職のつぶやき

お布施

2015年04月26日 | ブログ

ゴールデンウィーク。

あるご門徒宅でのご法事で、過分のお布施をいただきました。

「過分」というのは金額の多少ということではなく、「種類」というか「質」といった方がいいのかもしれません。

ご法事を終えて帰り際、玄関まで見送ってくれたご門徒のお孫さんが、トントンと。ひと言も発さず肩を叩いて絵を差し出してくれました。

私を描いてくれたのだそうです。

恥ずかしそうに手渡してくれたその姿に過分なる「布施」を感じたのでした。

そもそも「布施」には、「財施」「法施」「無畏施」の三種類あるといわれます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BD

文字どおり金銭に象徴される財施。仏の法をお伝えする法施。そして相手の畏心を和らげる無畏施。

彼女の絵はまさにその無畏の布施といっていいのでしょう。

いつも汗を拭きながらおつとめをし、たどたどしくおはなしをし、そそくさと引きあげていくお坊さん。そんな予定に追われる私の緊張を解いてくれたお布施でした。

いつも後ろを向いてお経を読んでいますが、後ろ向きの絵ではなくて、正面から描いてくれたことが励みにもなります。

思いがけない贈り物に私もリアクションを間違えてしまいました。

ちょっと恥ずかしげな彼女に対して、「上手に描いてくれてありがとう」というべきところを、「今度はメガネも描いてね・・・」。

こんなお坊さんですが、また来年3回忌もよろしくお願いします。

それも1周忌を迎えた彼女のおばあちゃんが取り持ってくださるご縁です。

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輪廻

2015年04月03日 | ブログ

9歳の親鸞は

明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

と詠んだ。

一茶は

死に支度 したかしたかと 桜かな

またある人は

散る桜 残る桜も 散る桜

いずれもいのちの無常観が込められています。

樹を生かす 大地と知ってか 花つもる

と、4月の掲示板に詠んでみました。

花びらは散っていきますが、それで終わりではない。ただ散っていくのではない。降り積もって大地となって、樹木を生かす。
そんなことを知ってか知らずか、またひとつ、またひとつ大地に降り注いでいく。
それが自然の道理だとすれば、人間として生まれた私も仏地という大地をいただいている。にもかかわらず、その大地を確かめることもなく、疑っている。
私もまた光の大地に摂取され、何かを生かすはたらきとなる。散って終わるのではなく、いったい何を生かすはたらきとなるというのか。
本願という大地を確かめ、疑いをはらしつつ往生、生まれて往かなくてはなりません。

当初は五七調で

樹は生きる 花は散っても 樹を生かす 大地と知って いさぎよく

と書きましたが、どうも「いさぎよく」がしっくり来ず、また短歌調ではなく俳句的な方が掲示スペース的にベストかと思い、トイレにこもってひねりました。
解説はヤボかもしれませんが要は、花や葉は散るけれども、それを大地が受けとめて樹木が枯れないように生かし続けるということから、人は死に面してそこに最も重要で大きな意味を見出すことができるということを言いたいわけです。
さらに、花や葉は「僧伽」、大地を「本願」「南無阿弥陀仏」、樹木を・・・(ここが難しいところですが)釈迦といいますか、釈迦の教えというか、それに連なる仏教の歴史、いや無始以来の法蔵菩薩の精神を宿してきた人類の歴史というか・・・つまりは仏の大木の法脈の中に、咲いては散っていく諸行無常のいのちの真理と南無阿弥陀仏の自然の道理を無理矢理込めてみたかったわけです。
ただやはり宗教的感情・感覚を言葉に表現するというのは改めて難儀なことだと感じました。
それだけに、お釈迦さまがお覚りになられた「法」「道理」を人間の言葉にされたことのご苦労と尊さ、さらにそれを時と場所を超えて伝えられてきたことの重さを感じます。
問われるのは、すでに伝えられてあるはずの私の宗教観です。信仰心、信心といってもいいのでしょう。
限りのある生命であるにもかかわらず、その限りを超えて永久に受けとめ続ける本願の大地を教えられながらも、「いさぎよく」散っていく気には到底なれない自分を思う時に、自然の道理にどこまでも反している自分を発見させられます。
間もなくお釈迦さまの「花まつり」。「釈」の名のりをいただく者としてその宗教的感覚が問われます。

ところで、ネット上に「ダライ・ラマ『輪廻転生』の廃止も」というニュースがありました。
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/world/mainichi-20150401k0000e030195000c.html
「輪廻観」も様々ですが、宗教的なそれがたとえば政治的に縛られたり、差別されたり、排除されたり、脅されたり、また強制されたりするものではならないと、つくづく思います。それは今や他国だけの問題ではありません。

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