遊煩悩林

住職のつぶやき

「壊れる」か「死ぬ」か

2007年05月29日 | ブログ

今年度2回目の推進員研修が開かれました。
人間を「生死的存在」という視点で問題提起をいただきました。
人間は「生まれて、生きて、死ぬからこそ人間」というのであって、死ななければそれは「人間ではない」。そうだとすれば一体「死ぬ」とはどういうことなのか。
たとえば、動いていた心臓が「止まった」というだけで「死んだ」といえるだろうか。動いていたものが止まるだけであれば、それは「壊れる」ということに過ぎないのではないかというのです。昨今の「死」をとりまく状況を見ていると、人の命終が「死んだ」というより「壊れたモノ」として扱われてきているのではないかといわれます。「人が死んだ」といえるのはどういうことなのでしょうか。
日本において「人の死」が法的に認められるのは、医師が時計を見て「残念ですが・・・」という瞬間ですが、その後24 時間は火葬できないことになっています。その意味では人は「死亡」が確認されてから24時間経ってようやく「死んだ」ともいえます。従来の葬儀では、これを受けて訃報を出し、夜を通して遺体を見守りつつ(通夜)、葬儀をつとめて荼毘(火葬)に付してきた。通夜・葬儀を とおして縁のあった者が亡き人が「死んだ」事実を受け入れてきたのです。
最近、都市部だけのことではなくなってきた「直葬(じきそう)」というスタイルは、病院なり葬儀社の冷凍庫に遺体を預け、通夜もせず、葬儀もせず24時間以上経てば霊柩車が迎えに来て、火葬場に直行するのです。これまで葬儀をつとめる中で身近な人が「死んだ」という事実を受けとめてきたことが、いま、壊れたものをゴミに出すかのような感覚になってきているのではないだろうか、それは亡き人を「仏さま」と見出すのか、お荷物的な「ゴミ」として扱うか、そのまま問われているのです。
また、東京では人が死んでも火葬場の予約を取るのに10日もかかることがあるそうです。さらに遺体安置所としての葬儀社の冷凍庫は1日3万円の使用料がかかるともいいます。あるご住職が東京に出て行かれたご門徒の葬儀をつとめたとき、訃報を聞いてから2週間後に通夜と葬儀をつとめたことがあるといいます。伊勢の火葬場は元日以外休みはありませんが、名古屋・東京では「友引」の日は火葬場が休みになるそうです。そのことが日の吉凶を占う迷信を助長しています。人口が多い都市はもちろん死亡者数も多いのですが、友引明けは火葬待ちの遺体で火葬炉が満杯ですから、どんどん先延ばしになっていく状況があるのです。であれば、時間をかけて「人の死」を見つめることもできます。遺体が「壊れたモノ」ではなく「死んだ人間」であることを確認し直すことができるはずです。しかし「死」が問えない。「葬儀」ではなく、「偲ぶ会」だったり「お別れ会」にしかならないのが都市なのかもしれません。
「千の風になって」に見られる「死んでなんかいません」という言葉に何か「癒し」を感じるというのも「死」が明らかになっていない証ではないでしょうか。「死んだ」のに「死んでなんかいません」という矛盾。「人の死」は避けられないことです。曖昧にしていては「死んで」往くこともできません。生きてもいないし、死んでもいないならばそれは一体何なのか。
人間は「壊れてはいけない」、「死ななければならない」といわれます。もちろん「壊したり」「壊されたり」してははいけません。遺体が「やれやれ」といって処分されるのではなく「死んだ」のだと受け入れてもらえなくては、人は「死ねない」のです。人間は死後必然的にユートピアとしての極楽に行くわけではありません。極楽に往生されたといわれる生き方をしているか、ということがそこから問われてきます。亡き人を人間のはからいを超えた「仏」として見出せないならば、それはそのまま私自身が「壊れたゴミ」のごとく扱われるしかなくなっていくのではないでしょうか。
インドやネパールでは「鳥葬」が行われているところがあります。「火葬」するのでも「土葬」するのでもありません。遺体を野外に放置して野生の鳥に啄ませるのです。やがて遺体が腐り、風化して骨だけになったところでようやく、親類や縁者がその人が「死んだ」ということを受け入れるというのです。亡き人と向き合ったときにその事実を受けとめるには、近しい人であればあるほど時間がかかるのです。「ご臨終です」だけでは済まないものがあるはずです。それが「はいそうですか」ではなく、命に代えて大切なことに気づかせてもらっていく、そのことを生きている間に明らかにしておく必要があるのではないでしょうか。それが生きることであり「死んでいける」ことなのだと思います。

コメント

神仏を利用するこころ

2007年05月26日 | ブログ

玄関に飾られる注連飾りには木札が懸けられています。
木札に記されている文字は地方によってさまざまですが、伊勢では正面に「蘇民将来子孫家門」その横に「七福即生」「七難即滅」と記されたものが多いそうです。「笑門」と書かれたものは「蘇民将来子孫家門」を略して「将門」、これが平将門に通じるのを嫌って「笑う門には福来る」という語呂合わせから「笑門」となったともいわれています。
「蘇民将来子孫家門」の云われは諸説ありますが、牛頭天王ともスサノオノミコトとも、またはその化身などといわれるものによって蘇民将来という人物に与えられた家門で、その言い伝えから蘇民将来の子孫の家であることを示すことで禍がもたらされないという意味が込められています。
『七難即滅、七福即生』という言葉は仏法の経典である「仁王経」に説かれているといわれます。世の中の七つの大難、太陽の異変、星の異変、風害、水害、火災、旱害、盗難、これがたちどころに消滅し、七つの福が生まれるという呪文として日本では用いられたと考えらています。この七つの福こそが「大黒天」「恵比寿」「弁財天」「布袋尊」「福禄寿」「寿老人」「毘沙門天」というおなじみの七福神の信仰へとつながっているそうです。七福神はインドヒンドゥー教、中国の仏教・道教と日本の土着習俗の神仏で構成されています。
さて、この木札の裏には何が書かれているか。これも地方によってさまざまですが伊勢地方の門符の裏には「急々如律令」の文字と「セーマン」といわれる星印(晴明桔梗印)、「ドーマン」といわれる網目状の模様が描かれているものがあるようです。 Seemandouman_1
セーマン・ドーマンは伊勢地方の海女が磯着や手ぬぐいにぬいつける魔よけで、セーマンは平安朝の陰陽師、安部清明、ドーマンはそのライバルの蘆屋道満からとったものといわれているそうです。日本の軍隊の階級章に使われている星印も「晴明桔梗印」 であり、「この印を付けているとなぜか敵の弾がそれるから」という理由で採用されたのだそうです。
「急々如律令」は、中国・漢代の公文書の文言で、本文の後に付ける「この主旨を心得てすみやかに行う ように」という決まり文句で、のちに「早く願いがかなうように」、さらに「鬼神よ、すみやかに去れ」という呪いとしてつかわれるようになったといいます。
そもそも「蘇民将来」の物語は地方によって諸説あり、仏教とともに伝来された牛頭天王の物語と、日本におけるスサノオの物語が混ざって伝えられたという見方が強いようです。また、牛頭天王は釈尊の聖地のひとつである祇園精舎の守り神ともいわれているそうですが、しかしこれを日本の神々と結びつけて、仏典のことばを土地の習俗に無理矢理あてはめて用いられたところに混乱の一因があります。
もともと仏教は生老病死の「苦」からの解放を説きます。生老病死の事実を受け入れ、その「苦」から解放されるのが仏教です。ですから現実的事実を排除し逃れようとする魔除けとは同居できるはずがありません。そう考えると日本人の魔除け思想は、あらゆる神や仏をも利用してきたことがわかってきます。注連飾りの木札にそれが象徴されているといえましょう。そこには私の「福は内、鬼は外」という「自分さえよければいい」的な「こころの闇」が集約されているようにも思います。

コメント (2)

本尊を奪う

2007年05月25日 | ブログ

ある女性(*)からお電話をいただきました。 *(2101さん)
2101「お東さん(*)のお寺さんですか」    *(真宗大谷派のこと)
お寺「そうです」
2101「お東さんの檀家さんは、玄関の注連飾りをしてはならないのでしょうか」
お寺「もともと注連飾りをする作法がないのですから、『してはならない』ということはいえません」
2101「では、飾っておいていいのですね」
お寺「『いい』とか『悪い』とかの問題ではなくて、お念仏をいただかれたならば必要がなくなるのではないでしょうか」
そんなやりとりの中で、
2101「それは将来的に、注連飾りをなくしていきたいということですね」
と尋ねられたので、少しニュアンスが微妙だったのですが、
お寺「そのくらいお念仏の教えが行き届けばいいですね」といったような会話がありました。

数日後、再びこの女性からお電話がありました。
住職が留守であることを坊守が告げると「ではお言付けください」ということで、
2101「私たち土着の者にとっては、先日の住職のことばはたいへん冷たく感じました。あなたたちは他所から来たからそんなことが言えるのです。そのことをお伝えください」ということでした。
先日のやりとりを一部始終聞いていた坊守はショックを受けて「どちらさまですか」とお尋ねしたのですが、名のってはくれなかったそうです。私が帰ってくるなりそれを伝えてくれました。

先日の応対で何か誤解があったのかもしれないと2人で首をひねりながら、それでも誤解があれば解かなくてはならないという思いと同時に、「余所者」扱いされたことに遺憾の念を抱いたこともあって、着信履歴に記憶された番号にかけることにしました。
「お電話を頂戴した常照寺ですが・・・」と名のると、「充電がないから」といって電話が切れました。固定電話でしたので再びかけなおすと今度は留守電になってしまい、やはり迷惑だったかなと思っていたところ、2~3時間後に再び女性からかけてきてくれました。
2101「あなたは玄関の注連飾りの札に何が書かれているのかをご存知なのですか」
というお尋ねだったので、「『蘇民将来子孫家門』と書かれたお札がこの地方には多いそうですね」と申し上げると、
2101「その裏です!」と。
お寺「裏は見たことがないので知りません」というと
2101「布教をされるのであれば、その辺をよく勉強してください」ということでした。

伊勢には一年中玄関に注連飾りを飾る風習があります。ご門徒の家庭においても半数以上のご家庭に飾ってあるのではないでしょうか。近年、ご門徒の中には、仏壇と同居していた神棚を撤去し注連飾りを飾らない家庭も出てきました。彼女からすれば、地元に密着した習俗が遠くから伝来してきた宗教に侵されるような危機感を感じたのかもしれません。
宗門は北方の民族から宗教を奪ってきた歴史と反省があります。もし私の活動がこの土地において大切にされてきた事柄を奪って、自分の「本尊」を押し付けているのであれば、真摯な反省が必要なのでしょう。私にはその自覚はありませんが、そのように受けとられる危険性を自覚して、気をつけなくてはならないことを教えられました。
ただ、電話の最後に再度お名前をお尋ねしたのですが、名のりもせず「私はあなたをよく存じておりますので、またいつかどちらかでお目にかかりましょう」と言われた彼女の一方的な態度に後味の悪さが残りました。

コメント

冤罪事件

2007年05月24日 | ブログ

お寺のPCに不定期に送られて来る「ふらっとプレス」というメールマガジンがあります。これはインターネットを利用して様々な人権問題の解決を目指すニューメディア人権機構による人権情報ネットワーク「ふらっと」(http://www.jinken.ne.jp)が発信するメールマガジンです。サイトにメルマガ登録すれば、この「ふらっとプレス」が届きます。
今朝メールに号外が届いていました。内容は「狭山新100万人署名-オンライン署名の呼びかけ-」というものでした。
「狭山事件」の公正な裁判・事実調べを求める「狭山新100万人署名」が目標達成まであと1299筆(5月22日現)となっていることから、「狭山事件の再審を求める市民の会」がオンライン署名を呼びかけているというものでした。
狭山事件は1963年に発生した事件です。事件すら知らない世代が増えてくる中で、まず事件とその背景を知ることが重要です。事件を知っている方、また事件を知り、疑問を抱かれた方はご署名下さい。

狭山事件リンク http://www.sayama-case.com/link.html

オンライン署名 http://www.sayama-case.com/online/online.html

 


 

コメント

受信装置としての私

2007年05月23日 | ブログ

桑名別院にて「桑名別院の歴史」について公開講座が開催されました。昨年、三重教学研究室(教研)が富山県の城端別院にて行った外地研修で「善徳寺と本統寺」というテーマで講義された太田浩史氏が講師でした。外地研修で城端別院善徳寺と桑名別院本統寺が歴史的に非常に関係が深いという指摘を受け、その歴史を三重教区の私たちが知ることで、桑名別院の歴史的な意義を学ぶことが今回の講座の目的です。
桑名別院の歴史は1500年代に伊勢・尾張・美濃の三国の宗徒によって設立された「今寺」という総会所にさかのぼります。尾張・三河から京都・大阪を結ぶ交通の要所であった桑名は、浄土真宗の信仰の篤い土地でもあり、教団においてもその要となる重要な土地でした。立地条件だけでなく、当時の伊勢長島願証寺に真宗の根本聖典である教行信証が伝授されていたことが、この地方の圧倒的大多数を占める浄土真宗の門徒にとって心的な支えでした。
のちに大坂城が築城される石山の本願寺を中心とした教団はこのころ一大勢力でありました。そのためにその勢力を本山ごと攻め滅ぼそうとする織田信長は交通の要所である桑名を手に入れるべく伊勢長島を三度に渡って攻撃し、子どもや女性までも2万人を根絶やしに殺戮します。「根切り」という歴史的な大量殺人です。「根切り」は復讐を抱かせないためと解釈されますが、本当の動機は、門徒衆が命を懸けて大切にしている教行信証の伝承者である願証寺顕忍という一人の人物を見つけ出して殺すためだったのです。宗徒の精神的支柱を奪うためです。殺された願証寺顕忍はまだ14歳の子どもでありました。
大きな犠牲を払った本願寺は最終的に信長と和睦し、本願寺第11代顕如、第12代となる教如は石山を離れます。その後、教如は京都に移された本願寺の住持になりますが豊臣秀吉によって引退させられ、弟の准如が住持を引き継ぎます。秀吉の死後、徳川家康はかつて三河の真宗門徒との争いの教訓から、教如に京都の寺地を寄進し東本願寺が独立します。ここに本願寺の東西分派が起こるわけです。
本願寺の東西分派後、教如の東本願寺につくか、准如の西につくかという選択を迫られた教団でしたが、本統寺は真っ先に教如につき、伊勢・尾張・美濃地方の東本願寺の教線拡大を果たします。のちに尾張には名古屋別院(東別院)、美濃には大垣別院が設立されますが、それまでの中心道場となったのが桑名の御坊でした。桑名御坊が重要な拠点であることは、その開基が教如の息女であることからも明らかです。重要なのは、御坊が単なる血筋とか血統による権威ではなく、教育機関として機能してきたことです。宗門の住職たちを指導していくリーダーシップを発揮する立場に、正しく教えを口伝した子どもが配置されたわけです。その後、本統寺には宗門の儀式・教学の重要人物が輪番に置かれ、本統寺を支える地元の住職らと門徒らの「お講」組織による合議によって教化が行われるまでになったところに、今日の宗門における歴史的意義が見出されます。
「お講」は男女や老若、身分を問わずに組織され、真宗の儀式と教学を一体として学んでいく場であります。「お講」組織の現代的意味を講師の太田さんは、森達也という番組プロデューサーとの対談の中で「発信」と「受信」が正しく通じ合った組織であることを主張されたそうです。それは森氏いわく「メディア」とは「メディア・リテラシー」であり、その「メディア」は「発信」、「リテラシー」は「受信」であって、3人称で発信された事柄が、1人称として受信されてこそメディアが成立するのだが、発信装置が機能していても、未だかつてそれを「私は」というかたちで第一人称にまで深められたことがないのが、日本だと指摘されたそうです。それに対して真宗の教団がカタチづくってきた「お講」組織は、3人称で発せられた教えのことば(ご消息)を寄合い談合を重ねる中で1人称、つまり「信心」の領域にまで深めて「了解」してきた組織であることを指摘したのです。
確かに現在の日本のメディアは、それが正しく受信されているかどうかということを土返しに情報を垂れ流しています。社会はメディアの情報のみに振り回され、そこには「私は」どう考えるのかという「主体」が欠落しています。さまざまなカタチで発信されている事柄をただ受けとるだけでなく、「私が」どう受けとめるのかという「受信装置としての個」が確立されていくところに、桑名別院本統寺が果たしてきた役割と歴史的な意義が見出されてくるのです。同時に桑名別院を支える構成要素のひとつとして、私も常照寺もメディアによる社会的発信を「私」を明らかにする課題として受信していく機能を育んでいかねばならないことを感じます。受信装置の感度と分析力を育むことこそ「寺」の機能なのだと感じます。

コメント