御朱印お願いします
月におひとり、おふたり・・・
お寺にお訪ねになられる方がおいでになります。
お近くの方ですか?ご遠方から?とかお声をかけながら、最終的に
ウチではやってないんです、と。
坊守も、せっかくお寺を訪問された方を追い払うみたいで気が咎めていたようで。
「御朱印をしない理由」とか書かれた冊子などをお渡ししてみたり。
内容は概ね「真宗は御利益信仰でないから」というもの。
どのような理由で御朱印を求めてこられたかも知らずに御利益信仰と決めつけて冊子をお渡しするのも気が引ける、と。
それを聞いていた中学生の娘が、御朱印をネットで検索しながら。
映える御朱印だの。
残念な御朱印だの。
こんなん言われたらイヤやな、と。
だからといって、なかったからよかったとかいう問題でもなく。
なんかスタンプ作るか、とか。
思案中。
ということで、いまのところ御朱印のご対応はできていないという話。
この春、東本願寺の慶讃法要にはじめて団体参拝に参加されたご門徒の若いご婦人も、ご朱印帳を持参されておられた。
本山にて、どこでお願いすればいいですか、と。
いやいやいやいや・・・
やってないけど、どこかに記念スタンプがあるよ、と。
帰りしな、あったあったと。
このご婦人はスタンプでよろこんでくださり、真宗では御朱印やらないんですね、と。
どこか勿体ない感を漂わせながら。
「御朱印」きっかけで、行ったこともない寺に足を運び、教えの言葉をひとついただくとすれば。
そこから何かはじまっていくなら。
何かいい方法はないかと。
ご朱印帳の白紙を埋めたいという欲求のお手伝いはとにかく。
収穫なく手ぶらで帰っていくこともひとつ、ではあるか。
ただそこに「なぜ」という意味を求ることがあれば。
「ある」ということが前提で訪ねてこられた方に、「ない」ことの理由をいくら説明しても、という空気間。
そもそもどうしてそれが「ある」のか。
それを求める心が誰にでもあるのだろう。
お参りのしるし。
しるしは、「印」なのか「証」なのか「記」なのか。
お念仏をいただいたしるしは、御朱印満願の掛軸でも額でもない。
本願成就。
お札、お守り、朱印、バチ、祟り、占い、呪い、祈祷、祓い、禊、除霊・・・求めて止まない強迫観念からの解放。
まずはそうとも知らずそこにどっぷり浸かっている私を知ることから。
かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす
愚禿悲歎述懐和讃
800年も前から私の体質についてご診断をいただいていた。
イメージ図(坊守作)