遊煩悩林

住職のつぶやき

しるし

2023年06月06日 | ブログ

御朱印お願いします

月におひとり、おふたり・・・

お寺にお訪ねになられる方がおいでになります。

お近くの方ですか?ご遠方から?とかお声をかけながら、最終的に

ウチではやってないんです、と。

坊守も、せっかくお寺を訪問された方を追い払うみたいで気が咎めていたようで。

「御朱印をしない理由」とか書かれた冊子などをお渡ししてみたり。

内容は概ね「真宗は御利益信仰でないから」というもの。

どのような理由で御朱印を求めてこられたかも知らずに御利益信仰と決めつけて冊子をお渡しするのも気が引ける、と。

それを聞いていた中学生の娘が、御朱印をネットで検索しながら。

映える御朱印だの。

残念な御朱印だの。

こんなん言われたらイヤやな、と。

だからといって、なかったからよかったとかいう問題でもなく。

なんかスタンプ作るか、とか。

思案中。

ということで、いまのところ御朱印のご対応はできていないという話。

 

この春、東本願寺の慶讃法要にはじめて団体参拝に参加されたご門徒の若いご婦人も、ご朱印帳を持参されておられた。

本山にて、どこでお願いすればいいですか、と。

いやいやいやいや・・・

やってないけど、どこかに記念スタンプがあるよ、と。

帰りしな、あったあったと。

このご婦人はスタンプでよろこんでくださり、真宗では御朱印やらないんですね、と。

どこか勿体ない感を漂わせながら。

「御朱印」きっかけで、行ったこともない寺に足を運び、教えの言葉をひとついただくとすれば。

そこから何かはじまっていくなら。

何かいい方法はないかと。

ご朱印帳の白紙を埋めたいという欲求のお手伝いはとにかく。

収穫なく手ぶらで帰っていくこともひとつ、ではあるか。

ただそこに「なぜ」という意味を求ることがあれば。

「ある」ということが前提で訪ねてこられた方に、「ない」ことの理由をいくら説明しても、という空気間。

そもそもどうしてそれが「ある」のか。

それを求める心が誰にでもあるのだろう。

お参りのしるし。

しるしは、「印」なのか「証」なのか「記」なのか。

お念仏をいただいたしるしは、御朱印満願の掛軸でも額でもない。

本願成就。

お札、お守り、朱印、バチ、祟り、占い、呪い、祈祷、祓い、禊、除霊・・・求めて止まない強迫観念からの解放。

まずはそうとも知らずそこにどっぷり浸かっている私を知ることから。

かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ

天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす

愚禿悲歎述懐和讃

800年も前から私の体質についてご診断をいただいていた。

イメージ図(坊守作)

コメント

おねんぶつの風

2023年06月01日 | ブログ

なかなか頭が下がらんもんで

頭が上がらんようになりました

どこで見たのか、聞いたのか。

スマホのメモに残したこの言葉を今月の掲示板に貼り出しました。

メモには池田勇諦先生とあったので、最初はことばのあとに先生の名を記しました。

が。

調べてみたところ、このことばはどうやら林暁宇さんの『北の大地に念仏の華ひらく』に所収されているそうなので、林さんの名に改め。

が。

探ってみたところ、どうやら林さんは前田政直さんから学んだ教えを自著に記しておられるというところに辿りつきました。

ということで、

なかなか頭が下がらんもんで

頭が上がらんようになりました

前田政直

と。

前田さんのことばを林さんが聞いて書きのこし、それを池田先生が仰っておられた、という話を聞いた私のスマホのメモに収まっていた。

池田先生は、2016年の東本願寺阿弥陀堂還座式の記念法話でこのことばを紹介されておられたそうです。

典拠を刻むことの大切さを思いました。

「アンタそれ誰に聞いたん?」ってことです。

私は誰からそれを聞いたのか。その人とその言葉の背景にあること。

「お経」でいう「如是我聞」、『正信偈』でいう親鸞聖人の七高僧の伝承を想います。

ことばが所収されている林さんの著書は『北の大地に---』とあるとおり、北海道において前田さんから聞き取ったことば。昭和のはじめ頃のようです。

ときを選ばず、ところを定めずお念仏の風に吹かれて届いてきた言の葉っぱ。

なかなか頭が下がらない私のところへ漂ってきたということか。

さて、何を聞いたか。

頭は「下げる」のか、頭が「下がるのか」。

頭を「上げる」のか、「上がる」のか。

いずれも意識、意図することと、無意識さのコントラストを感じます。

人の日常の何気ないところに表れ出てくるのかと。

バレてるやん。

渡る世間においては、イヤでも頭を下げなければならん時があるのだろうが。

頭が下がるのは「出世間」の姿にあるように思う。

対人関係というより、対仏関係においての態度であり、姿勢ではないか。

仏を通してようやく対人関係、人間同士において頭が下がるということが起こってくる。

あなたも阿弥陀さんをご本尊とされているのですねという尊敬。

あなたも親鸞さまのお念仏を大事にされておられるのですねという友情。

相手が何を大事にして生きておられるのか。

それを尊重することにおいて、自分もまた自己を尊敬することができるのではないか、と。

つまりは私自身の「いのち」に頭が下がるようなものを、私はまだまだいただいておらぬということだ。

ぜんぜんその気もないのに、もうこれ以上、上がらんところまで頭が上がっとるのか。

 

コメント