遊煩悩林

住職のつぶやき

こころ涼しく

2006年07月27日 | ブログ

大暑を過ぎ、暦の上では暑中。中元のお返しに早々と暑中のお見舞いを出した。「中元」は半年生存の無事を祝い盂蘭盆をつとめる仏事である。昨今では宗教色は完全なほどに排除された観がある。Img_3636_1
梅雨が明けたか否かは知らないが暑い一日であった。テレビなどで不快指数なるものが報道されていると、その数字よりも「不快指数」なる表現を耳にするだけで不快感があおられる。「不快指数」それは人を不快にする根源的な表現なような気がする。逆に「夏は暑いもんだ」といういさぎのいいことばの爽やかさに「こころの涼」を感じる。
子どもの1歳の誕生日にビニール製の家庭用プールをもらった。朝から坊守が水を溜めている姿を見ながらお参りに出かけた。昼のひととき、ご近所の仲良しくんと息子と水遊び。なるほど水道水を入れたてでは冷たすぎる。朝から水を張ってくれたおかげでちょうどいい水加減である。さすが母親だな、なんて思いながらプールで昼寝させてもらった。お盆を控えてお寺は忙しない時期である。

お盆の準備はもとより、真宗大谷派は7月から新年度を迎えて各会、各組織の総会や会合がもたれ、事業の反省や計画、それに伴う予決算などの審議が行われる時期でもある。
先般、京都では大谷派の最高議決機関である宗議会・ならびに参議会にて新年度の予算が可決され、新年度の教化施策などが決定された。緊縮予算といいながらも、85億円もの予算が成立し、本山やそれぞれの教区や組(そ)での取り組みがはかられる。
決して安くはないこの予算によって、日本全国津々浦々の真宗寺院の組織において、さまざまなかたちで仏の教えを開く事業が行われるわけだが、寺に縁のあるものがこれに参加しないと意味がない。85億円もの予算はほとんど全国のご門徒の懇志によるものである。参加して何かを得ないと、出しっぱなしという状態になる。もったいない。
常照寺の所属する三重教区において、教区の議決機関である「教区会」、またその前日には南勢一組という組の今年度の教化事業を企画・立案する「教化委員会」にそれぞれ出席した。
本山や教区の事業、組の事業、そしてそれぞれの末寺の事業となると、それぞれこなしていくことで精一杯といった観もある。運営する側はそうだとしても、参加する側はそこで人と出遇い、教えに出遇うかけがえのない場となる。そもそも事業をこなすことを前提とした時点でそれは消化事業化してしまう。こなすのではなく、運営する側がやはり人に出遇い、教えに出遇っていく姿勢でありたい。私自身も時には主催する側、時には参加する側である。どちらの立場であろうが、私本人こそがまず教えを聞かねばならない。
暑い夏、涼の求め方はいろいろあるが、こころ涼しく盂蘭盆を迎え、仏の教えに耳を傾けたいものである。

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お盆参りのご案内

2006年07月20日 | ブログ

常照寺では毎年、お盆のお参りに各ご門徒宅のお内仏をお参りさせていただいている。聞くところでは、20年くらい前は、たとえば「8月13日に参らせていただく」とお知らせすればそれでよかったという。「よかった」というのは、日にちだけはっきりしておれば、座布団の用意やお内仏のお華やお布施の準備など、お坊さんがお参りしてくれる心構えができれば、それでよかったのである。それが、私が住職になった頃は「何日の何時頃」のいわば時間指定をするのが慣例になっていた。たとえば「13日の午前9時ごろにお参りさせていただく」と。家族が別々に住居を構えていると、その時間に合わせて皆が仏壇の前に集まる、その目安となる時間が必要になってきたのである。さて、今日どんなカタチに変化したか?「分指定」でのご案内である。「8月13日午前9時20分ごろお参りさせていただきます」てな具合に。どうしてこうなったか?例えば日にちしかご通知させていただいていないと、「午前中やろか?午後やろか?」と尋ねられる。そこで午前・午後の指定をする。今度はそれが「午前中の何時やろか?」と、こうなってきた。では「9時頃」とご案内すれば「9時何分?」となるのである。ちなみに私が担当している地区では、ご門徒宅が近くに密集している地区では10分刻み、比較的広域に点在している地区でも15分刻みで回るように予定をする。しかしこれが思うようにはいかない。段取りからすれば、仏前で読経をしてすぐ失礼してこればいいのだが、中には一年に一回しかお会いしない方もある。ご家庭の様子は、玄関からお邪魔して、仏間に通される廊下や、仏間、お内仏を見ればその生活環境を見てとることができるが、それはこちらの都合。ご門徒にはここぞとばかりに「お尋ね」を溜め込んで下さっている方もある。「お内仏のお飾りの仕方」から「孫の厄年の相談」、「お墓のこと」など。こちらとしても読経だけで「はいさいなら」というより、出来得る限り応答したいのでどうしても時間どおりにはいかなくなる。それが予測できればそれに越したことはないが、家庭の事情はそれぞれである。それでも理解のあるご門徒は、辛抱して待っていて下さる。「どこで捕まった?」なんて労って下さる方もあれば、たとえ5分でも遅れようものなら「遅い」といわれる方もある。家庭の事情も様々なら、またそこに住む人もそれぞれである。しかし、本山のいつぞやのスローガンで「バラバラでいっしょ(ちがいをみとめる世界の発見)」というのがあったが、まさにそのとおりで、ご門徒の顔を見て回らせてもらえるのは有り難いことである。
さて、そんなわけで今年もお盆のお参りのご案内を各ご家庭に出させていただいたところ、さっそくご都合の連絡を多数いただいた。例えば朝7時から夜の8時まで15分間隔で回ると48件が限度になる。8月の10日前後はぎっちり予定を詰めてあるので、変更の方は8月初旬か15日以降にお願いするのだが、こうおっしゃられる方があった。「8日にお参りさせていただく」と申し上げると、「まだ来とらん」と。では15日ではどうかとお尋ねしたところ「もうおらん」と。ウーン誰のことか?と思ったら、他でもないご先祖さまのことである。「ご先祖さま」は何なのか?「お精霊さん」なのか「霊魂」なのか、それとも「ほとけさま」といただくのか?「ほとけさまであれば、そんな時間的な制約にはとらわれないはずである。亡き人をほとけさまといただいていく大切さを説いて回りたいと思う。

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中元

2006年07月16日 | ブログ

正月15日が「上元」、10月15日が「下元」。そして7月15日が「中元」。広辞苑によると「半年生存の無事を祝い、盂蘭盆の行事をし、亡霊に供養する」とある。真宗では亡霊に供養することはないが、本山では7月15日が盂蘭盆会とされる。
たまたま所属する協議会の総会が13日に行われ京都へ出かけた。13日が総会、翌14日は朝から常任専門委員会があったので、京都に宿泊。14日午後は、三重教区の議会を控えてその議案を参事会という組織で確認するために桑名別院内の三重教務所へ移動・・・と、炎天下の中走り回った。
炎天下ながら京都は賑わいを見せる。ちょうど祇園祭の只中であった。17日の山鉾巡行にむけて町が盛り上がる。京の町衆はこの日のために1年かけて準備をするともいう。「ハレの舞台」という言葉があるが、この「ハレ」とは祇園祭のことだとも聞く。京舞の家元によるとこのハレの日は浴衣も仕立ておろしのものを着て、祇園の舞妓は「ハレ」の日用の「勝山」という髪型があるのだという。
祇園祭といえば歴史絵巻としての山鉾が有名であるが、町衆の人間模様を聞くのも良い。
京の夏は暑い。それは昔も変わらないだろう。しかし夕暮れから山鉾の前後に吊るされた駒形の無数の提灯の火が灯り、祇園囃子という「コンチキチン」という音色がいたるところから聞こえてくると、何とも涼しげな気分になる。
聞けば有線放送で「祇園囃子」チャンネルもあるらしく、居酒屋、喫茶店、コンビニでも「コンチキチン」が流れていた。

牛頭天王という神の祟りによって疫病が流行したとして、その疫神の祟りを祈祷によって祓わんとした千年以上も前の祇園御霊会が祇園祭の起源という。京の町は古くから疫病や大火に悩まされた。宗教学者の山折哲雄氏は「京都の祭りには、火の神への祈りが底に流れていて、もう一方に悪霊払いの祇園祭の系統がある」という。そして「8月の五山の霊送りも一種の火祭りです。火を出さないようにと、火の用心の心構えが徹底しているのが京都」ともいう。
現在修復が進む真宗本廟(東本願寺)の御影堂もかつて蛤御門の変などの大火で、江戸時代だけでも4度の焼失を経験した。
そんな歴史を踏まえて、神道的な要素と仏教的な要素を含めて人間の集団的儀礼として伝えられてきたのが祇園祭なのだろう。京は職人の町ともいわれるが、職人としての町衆の信仰心や思いによって、洗練された美術品が生み出され、祇園祭を豪華絢爛のハレの祭りに仕上げているのだ。
さて伊勢では、15日の夜、神宮に花火が奉納された。
その地に住む自分たちの手でつくりあげている祇園祭にみる京気質とは対照的に、神宮に奉納されるあらゆる恩恵を受けとるカタチで形成されてきた伊勢の気質のコントラストを感じる中元であった。

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無宗教なんてあり得ない?

2006年07月12日 | ブログ

「カルト集団がいわゆる無宗教者に近づきつつある」と、先日(7月10日)書いたところ、いろいろな反響をいただいた。ここで表現した無宗教者とは、「我が家は浄土真宗の檀家だが、私は特定の宗教を信仰しているわけではありません」といった認識の方々を「無宗教者」と表現をしたつもりである。説明不足で語弊が生じたかもしれない。こう表現しておいて何なのだが、私個人の考え方としては、「無宗教」なんてことはあり得ないと思っている。あえていえば宗教に対して「無自覚」「無関心」の人が「私は無宗教です」と名のる層ではないか、と。もっといえば「生きる・死ぬ」といういのちの問題に対する不感症の自覚が「無宗教」という言葉で表されているのではないかと考えている。
宗教はそもそも「自分はどこからやってきて、どこに行ってしまうのか?」という身の事実、そして「どうして自分が生きているのか?」という存在の意味、その人のアイデンティティに関わるものである。それによって「私は私」といえるのである。「私は某の誰それです」というのとは若干意味が違う。私たちは生まれた時から名前を与えられる。自分で名付けることはできないから他によって与えられる。名は本来その人のいのちの名であるが、それを「某の誰それ」だけで片付けると、それはただの数字や暗号と変わりがない。「その某の誰それとは、何なのか?」ということによって「私は私」となるのだろう。
誰しもある程度の時を生きてくると「生まれていること」に気づき「死ぬ」ことを知る。そこで何の疑問も感じない人は、本当に「無宗教」である。しかしそこでどんな些細な疑問、たとえば「死んでいくのにどうして生きているのだろうか?」とか「どうして生まれてきたんだろう?」とか「なぜ死んでいくのだろうか?」「死んだらどうなる?」といった疑問を持ったとすれば、それは宗教に触れる問題を自分の中から発したということである。その疑問に対して、たとえば科学的な手法によって導き出される推論、たとえば「死んだら無になる」とかいう推測を持ったのならばそれは宗教である。「無」になるから「無宗教」なのではなく、科学的な論理を信仰して、それを受け入れるのであればそれはいわば「科学教」の信者といえるだろう。何も特定の宗教法人に所属するだけが信仰ではないのである。
社会には宗教法人格であっても、一般企業と変わらない利益優先の偽宗教もある。逆に、宗教法人でなくても宗教活動を行う団体は少なくない。
昨今、一般的に熱狂的で宗教的な団体をカルトとよばれることが多いが、カルトはその宗教的な気配を消して近づいてくるケースが多いという。商業カルトという言葉もあるが、たとえば催眠商法的なもので、まるでその商品を買わずにはおれない衝動をおこさせたり、損得感情を麻痺させて何百万もするものを買わされて得した気分にさせるような商法がある。いずれも購買意欲と損得感情を揺らめく現代人が驚くほどにだまされるという。「カルト集団が無宗教者に近づきつつある」というのは、無宗教を名のり、自我と経済観念を中心に生きていると何が本当に必要なもので、何が必要でないのかということがはっきりしない。いらないものでも必要にかられて買ってしまうということがあるということがいいたいのである。宗教を信仰するということは「損か得か」、「善いか悪いか」を判断することではない。「嘘か真か」「本物か偽物か」を見極めるこころのものさしを持つということである。

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僧侶の本業

2006年07月10日 | ブログ

三重教区の教化委員会総会が開催された。7月1日からスタートした2006年度の教区の教化事業計画について協議された。三重教区の教化委員会は「教化推進総務会」「特伝推進本部」「寺族・門徒研修小委員会」「坊守会」「社会教化小委員会」という各部門、また「青少幼年教化小委員会」という部門は「児童教化連盟」「仏教青年会」や「保育協会」「合唱団」「野球部」などの各委員会に別れ、それぞれによって構成される。これら多岐にわたる委員会において独自に教化事業が計画され実行されていくことになる。
よく、「お坊さんはお葬式がない時は何をしているの?」なんてことを聞かれることがあるが、僧侶にとってご門徒の葬儀はもちろん大切な儀式で、仏法を聞く重要な勤めである。しかし、本業?は真宗大谷派という組織としての事業運営ということがある。仏法とのご縁が葬式や法事に限られがちな昨今にあって、日ごろの仏法聴聞の場を開いていくことが私たち僧侶の役割である。
お寺は一ヶ寺、一ヶ寺が独立した法人格を持っていて、独立した運営が行われている。同時にその一ヶ寺、一ヶ寺は「真宗大谷派」という宗教法人の包括法人というかたちで、二重の法人格を持っているわけだ。双方の責務を果たしながら、やはり共通しているのは、どこまでも社会に仏法の場を開いていくということである。
ところで、こんなご意見をいただくこともある。「もっと信者を獲得しなければならない」「勧誘に力を入れなければいけない」といったご意見である。数の論理からいえばごもっともなご意見である。寺の数や信者の人数によってその教団の大きさが測られることはそのとおりであろう。社会と関わる上で大教団であるほど社会的な影響力も大きくなるといえる。先のご意見はそんなことも踏まえた上でのご意見であろう。真宗の教団はすでにして日本の宗教界では大教団のひとつといえる。そこに安穏して信者の勧誘・獲得の意欲に欠ける、という叱咤でもある。しかし、真宗の教団は何のために存立をしているか。教団の存在の意味を考えたときに数や大きさだけでは測れないものがある。宗門運営という観点からすればもちろん数や大きさは大切な問題である。しかし信仰とはそういうものではない。一人ひとりが仏法に出遇い、それを依りどころにして生きる生活こそが願われるべきなのだろう。他宗教や他の団体のように熱心な勧誘を繰り広げる前に、まず自分自身が正しい教えに触れていくことが必要なのだろう。宗教をなのり一部の人間の欲望を満たす偽の宗教やカルト集団が、さりげなく「無宗教」者に近づきつつある時代でもある。

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