遊煩悩林

住職のつぶやき

無念

2008年01月29日 | ブログ

おかげさまで常照寺の今年の報恩講を無事に終えることができました。とはいっても、真宗門徒の生活は報恩講にはじまり報恩講にくれる「報恩」の実践ですから「やれやれ」とはいってられません。また来年の報恩講に向けて聞法の生活のスタートです。
しかし、年明けからドタバタと準備をしてきましたからようやくお正月が訪れたような感覚は否めません。
さて、常照寺は月に2度、ご命日の集いがあります。13日は前住職の命日の集い、28日は親鸞聖人のご命日の集いです。考えてみれば今月6日の日曜日は新年の集い、13日の日曜日はご命日の集い、20日は報恩講に向けた仏具のおみがき、26-27の土日は報恩講、そして28日の集い・・・。そのすべてに足をお運びいただいた方は、今月の日曜日をすべてお寺に尽くされたことになります。お寺に居住する私でさえ、法務で寺にいない日もあったことを思いますと、ご門徒のご苦労にあらためて頭が下がる思いです。まさに「恩」です。「恩」に「報いる」とは、まずそのご苦労に気づかされるところからしかはじまりません。
報恩講は親鸞聖人の報恩講ですから、親鸞聖人のご苦労をまず「知る」ことからはじめなくてはならないわけです。
私たちはよく亡き人のことを「還浄」「お浄土に還られた」と表現します。親鸞聖人のご苦労なかりせば、私たちは冥土をさまよい、また残された者もその冥福を祈るしかないような乏しい精神生活を送るしかなかったかもしれません。
まず「恩」を知る。そしてそこからはじまる「報恩」。親鸞聖人の「恩」に報いる生き方とはどんな生き方なのか。言葉でいってしまえば「浄土に還る者となる」のが、親鸞聖人の恩に報いる生き方なのでしょう。ただ、その実践となると現実的生活上どうやって果たしていくのか?そして、その願いに照らされたときに「私」の本当の姿が明らかになってきます。
報恩講の両日中、いなべ市の相願寺住職の片山寛隆先生にご法話をいただきました。
「私の姿」について、先生は「包装紙を巻いた私」とおっしゃっておられました。昨年の数々の偽装事件に関連して、私そのものが偽装の包装紙を巻いておるのだ、と。
また、真宗門徒の生き方とは、煩悩を燃やし尽くす生き方だとも教えられました。燃えかすが残らない生き方。死後までも「私」の思いどおりにしていこうとする「遺言書」を例に、そんなものが要らない、燃えかすが残らない、後悔のない、残念でなく「無念」な生き方。死に方。
包装紙を剥がした私をそのままに生ききることができない私と、それをさせようとしない社会。「燃えかす」を残さずには死んでいけない社会に、スピリチュアルカウンセラーの脅しに踊らされていくしかないような私たちの構造があります。日々の精神生活をいかに健全に保つのか。燃えかすを残さない、一日一日を完全燃焼する生き方は、仏前で手を合わせ念仏をつぶやいてみることからしかはじまらないのでしょう。
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報恩講中、本堂にかけられた四幅の掛軸(御絵伝)には親鸞聖人のご苦労が描かれています。

常照寺のホームページに報恩講の写真を掲載していますのでご覧下さい。
http://web.mac.com/jyosyoji

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常照寺 報恩講

2008年01月15日 | ブログ

御逮夜(おたいや)1月26日(土)

御満座(ごまんざ)1月27日(日)

Img_0436 今から746年前、私たちの宗祖親鸞聖人は90年の生涯を終えられました。そのご生涯は、人間の知恵を超えたはたらきである如来の智慧をご恩徳としていただき、それを証明されたご一生でした。
その御示寂から746年が経過した今、かつての人々が困窮された衣食住をはじめとする生活が快適になったにもかかわらず、人は悩み苦しみ、生まれたことに喜びを見いだすことができない、どこか生きにくい時代にいるとはいえないでしょうか。
今よりもはるかに短い寿命を、着るものも食べるものも住むところもままならない日常の中で、お念仏をよりどころに、生まれた意義を見いだし、生きること を喜び、たくましく生きられた人々のご苦労に思いを馳せたとき、私たちがおろそかにし、見失ったものが自ずと明らかになってきます。
報恩講は、幾多のご恩をいただきながら、忙しい日常の中でそれを感じることなく生活を送る私たちが、ご恩に気づかされ、知ることから、それを報いていく 生活を歩む真宗門徒として最も大切な仏事であります。そして如来のはたらきに出遇い、生まれたことを喜び、意義のある生活を歩む上で最も基本となる法要で す。
お誘い合わせのうえ、是非お参りください。

<御逮夜>
1月26日(土)14:00 御逮夜法要
       15:00 法話 
       18:00 御伝鈔拝読
       19:00 ビデオで観る「親鸞聖人の御生涯」
<御満座>
1月27日(日)14:00 御満座法要
       15:00 法話

法話(両日中)いなべ市 相願寺住職 片 山 寛 隆 先生

常照寺のホームページ(jyosyoji.web)にもご案内しています。

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おみがき

2008年01月12日 | ブログ

Img_3138_51月26-27日の報恩講を前にして、常照寺本堂のお内陣を荘厳している仏具のおみがきをします。

ご門徒の皆様のご協力をお願いします。

ところで、「おみがき」ってご存知ですか?

葬式や法事のみが「仏事」ではなく、「おみがき」は真宗の伝統のひとつで、真鍮製の花瓶や燭台、仏器などの仏具をお磨きして輝かせる「仏事」です。

お寺やお内仏(お仏壇)のお飾りは、私たちのこころを映す鏡ともいわれます。煤だらけの仏具はそのまま濁った心のあらわれといえます。お線香やろうそくの煤のお磨きは、私たちが気がつかない心の垢に気がつかされるお仕事です。

おみがきはお寺の仏具に限ったことではありません。皆さんのお内仏の仏具をこの機会にチェックしてみてはいかがでしょうか。

お寺の花瓶や仏器もすべてご門徒のご寄進による宝物です。

先代から受け継いだ大切な仏具を輝かせて、報恩講をお飾りいただくことは、先代のご恩に報いていく大切な勤めです。

是非おみがきにご参加ください。

 

おみがき

と き 1月20日(日)10:00~正午まで

ところ 常照寺 本堂

 

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怠慢

2008年01月06日 | ブログ

Img_4892 2007年の大晦日から2008年の元日にかけての「除夜の鐘」、そのあと引き続いて新年の法要「修正会」をお勤めしました。(写真をホームページにアップしていますのでご覧下さい。URL http://web.mac.com/jyosyoji/
常照寺の鐘楼門が平成9年に仮落慶してから今回で11回目になります。除夜の鐘といえば108回というのが通常ですが、常照寺は例年ご参詣の方についてくれる人がいる限り、108という数にこだわらずについてもらっています。ですから150回の年もあれば、130回の年もあります。有り難いことに?108回を下回ったことはこれまでありません。しかしこの数年130人前後で推移していた参詣者が減少傾向にあります。そして5、6年前に比べるとはるかに若年化してきたような気がします。
そんな中、今回の除夜の鐘はちょうど108人の方についてもらいました。毎年酔っぱらいの私が数えていたのですが、今年は坊守の妹の彼氏に任せました。数とり器を手にした彼も私が最後の鐘をついて鐘楼門から降りてくるとびっくりしていました。
108は煩悩の数といわれます。念珠の玉も基本は108です。
真宗では「不断煩悩得涅槃」と教えられます。煩悩を断ぜずして涅槃を得るのです。煩悩を断つのではなくて煩悩のまま救われるのが真宗の教えです。先日なくなられた永平寺の貫主が「煩悩を制するのが禅の教え」といわれていたことを記憶しているのですが、煩悩のままに救われるのと、煩悩を制するのとでは大きな隔たりが仏教にもあります。共通していることは煩悩を自覚することでしょう。去年も今年も煩悩いっぱいに生きていることの自覚がなければ煩悩を抱えて救われることも、それを制することもできません。
念珠の玉が煩悩をあらわしているとすれば、それを束ねている紐、煩悩のひとつひとつに貫かれている糸は何を意味しているでしょうか?いくつもの煩悩を抱えながら生きている私のそれを束ねて生かしてくれているはたらきを思います。であれば、仏前で合掌する時は念珠をかけますが、それは煩悩を深く自覚せよ、そしてそのまま煩悩を握りしめたまま救われよとの呼びかけであると感じられてきます。

ところで、年が明けて1週間も過ぎようとしている今日になってはじめて、昨年やり残した重大なことを思い出しました。本堂内陣のお鏡餅をお飾りするのを忘れていたのです。ただ忘れていたのでなく、ようやく今になって思い出したところに罪の深さを感じます。
煩悩のまま救われるといいますが、その救い主である如来の荘厳を忘れていては救われようがありません。まことに住職の怠慢であります。お恥ずかしい限りです。
気づかれた方も当然あるでしょう。もし「何かの意味があってお飾りしていないのだろう」と思われた方があれば、これからはどんどん指摘してください。ご門徒の皆様のお寺です。

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謹賀新年

2008年01月01日 | ブログ

明けましておめでとうございます。

昨年暮れに賀詞欠礼のご挨拶をいただきました皆さまにおかれましても、ともに新年の慈光に遇えましたことをお慶び申し上げます。
さて、何かと忙しなく過ぎ去った師走が明けました。しばらくのんびりしたいという気持ちはあっても、今月末の常照寺報恩講の支度を思うと、のんびりしていても落ち着かないものがあります。
新年に際して仏前に向かい、新年を迎える支度と準備に追われた日々を顧みたとき、毎度のことながらいつも「準備」ばかりしている自分に気がつかされます。
さて、常照寺のホームページをリニューアル(http://web.mac.com/jyosyoji)しました。「変なところが几帳面」とは昔からいわれておりますが、新年に刷新したいという強い意思のもと、寝る間を惜しんで準備してきました。内容は基本的に変わりませんが、自作の趣味の領域にしては上出来だと慰めています。是非、一度といわず何度でも訪れてみてください。
さて、そうやって目標や目的を立てて準備し慰めている毎日ですが、それがかなった時の一時的な達成感はたかが知れています。しかしプチ達成感は麻薬のように脳にはたらき、さらにそれを求めてきます。一時の快楽的達成感を求めてちっぽけな目標をたててしまう連鎖です。プチ目標にはプチ達成感です。そこには「今日一日を精一杯に生きた!」という実感よりも、明日や来月、来年もまた同じように未来の支度をするために生きているといった無常感が感じられてきます。もっともっとスケールの大きな理想を描き、大きな目標を立て、その小さな積み重ねとしての日々でありたいものです。
日々の生活は、「やらなければならない事」「やりたい事」「しなくてもいい事」「してしまう事」などなど、いろんな事柄と思いのはざまで過ごしています。なかには当然「やらなくてもいいのに・・・」ということも出てきます。パソコンに向かってばかりつぶやかずに、どうどうと面と向かってつぶやいて?みたらいいではないかとか、そんな事してる暇があれば子どもともっと遊んでやったらいいではないかとか。
ですが、やはり基本は「やりたいこと」を中心にまわっています。「やりたいこと」はどんなに忙しくても暇をつくってやっているわけです。「やらなければならないと思っていること」はもちろんやらなくてはいけないのですから、そこの兼ね合いが面白いところなのでしょう。
面白くないのは「やりたくないこと」「しなくてもいいこと」ばかりせねばならないことでしょう。逆に「してはいけないこと」をやることによろこびを見出してしまうこともありましょう。
いずれにしても人間には限度があります。しかもそのことが本当に「やるべきこと」なのか「しなくてもいいことなのか」といった判断は人それぞれ勝手なものです。「せんならん」という脅迫観念だけでやっていることもあります。
「やっていいことと、悪いことがわからんのか!」と昔よく怒られました。同じことをやって、怒る大人とそうでない大人がいることなども不思議でした。やってはいけないことがわかっているなずなのに社会に犯罪が絶えないことも不思議でした。そうやって育ってきて、一体「何がいいことで何が悪いことなのか」わかったかというと何もわかってないのが現実です。
ですが、どこまでも人間を基準にすると善悪は自分勝手で曖昧なままになってしまいます。人間を超えた智慧を基準としたならば、おのずから善悪を超えて「やらなければいけないこと」や「してはいけないこと」がはっきりしてくるのではないでしょうか。ただ、そのことがはっきりしてきたとしても、やるべきことだけをやって、してはならないことをしないような私でないことだけは確かでしょう。
「他にやるべきことがあるのではないか」という声がいつもどこからか聞こえてきますが、つぶやきたいのです。今年も「住職のつぶやき」をよろしくお願いします。

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