遊煩悩林

住職のつぶやき

御荘厳

2007年01月30日 | ブログ

Img_4220真宗門徒にとって報恩講は、真宗の生活を歩む上での、大切な節目であります。
信心の生活の総決算でもあり、また信心の生活の新たな始まりでもあります。
しかしながら、一大イベントであるがゆえに、報恩講が終わると「やれやれ」という気持ちがまず湧いてきてしまいます。
Img_0593_1「やれやれ」無事にお勤めできたことに心をなで下ろしながら、本堂のお荘厳のお飾りを平常のお飾りに戻しました。
本堂は平常のお荘厳に比較して、報恩講のときは特別なお飾りをお荘厳します。
お寺の本堂だけでなく、ご門徒宅のお内仏(お仏壇)も、報恩講のお荘厳は特別なお飾りをします。
上の写真は報恩講のお内陣のお荘厳です。
そして下が平常のお荘厳の写真。
一目瞭然というか、百聞は一見にしかずというか・・・。
ご門徒の皆さんにおかれては、何がどう違うのか見比べて、各ご家庭での報恩講のお飾りの参考にしていただきたいと思います。

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それと、平常は本堂に向かって左の余間には「聖徳太子」と「七高僧」のお軸がかけられているのですが、報恩講のときはこの余間に親鸞聖人の「御絵伝」を四幅おかけします。
写真左が「御絵伝」。右が聖徳太子と七高僧のお軸。

常照寺報恩講の写真をホームページに更新していますので、ご覧ください。
http://www17.ocn.ne.jp/~jyosyoji/

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報恩講 厳修

2007年01月29日 | ブログ

「少欲知足」ということばがあります。
ない物事を欲するのではなく、いま与えられている、恵まれていることを知る、ということだと理解しています。モノに限らず、私のいのち、生まれてきたという事実、存在するそのことを喜べという励ましにも了解できます。なかなか「足ることを知らない」現実の私自身の姿を教えられることばであります。

1月27・28日の両日、常照寺の報恩講をお勤めいたしました。
お蔭さまでたくさんのご法中(ご住職方)と、大勢のご参詣の中、賑やかにお勤めをさせていただくことができました。
さて、何が「足るを知らない」のかというと、2日間の報恩講に遇って「もう少し常照寺の本堂が広ければ・・・」などと思う私自身がいたからです。
本堂は、ご本尊などがお荘厳されている「内陣」と、ご参詣の方々がご聴聞される「外陣」とに大きく分れています。真宗の寺院は、お一人でも多くの人にお念仏の教えに触れていただけるように外陣が広くとられているという特徴があります。
常照寺の外陣には48枚の畳が敷かれています。
平常は充分な広さを感じているのですが、有り難き多くのご参詣をいただくと少し手狭に感じたりもします。
報恩講は主に「お勤め」と「ご法話」で構成されますが、窮屈さのためにお勤めだけでお帰りになられる方もおられるのではないかと心配してしまうのです。もちろんお帰りになる方はそれぞれの事情もあるかとは思いますが、知らない者どうしが集う場において、個人のスペースがある程度保たれていないと3時間近くその場にとどまるということに抵抗を感じる方もいらっしゃるのではないかと、余計な心配かもしれませんが、そんなことを思ったのであります。
そんなことから、「もう少し広ければ」なんて思いが頭をよぎったのですが、逆にこの広さゆえの恩恵もあるのでしょう。いま、ここに与えられたものの有り難さに気付かず、その時の都合でコロコロと要求が変わる、そんな私であります。
考えてみれば、かつて本堂が火事で焼失してしばらくの間、本堂がなかった常照寺です。十数年後に、ご門徒の懇念によってみごとに再建されたのが今の本堂です。にもかかわらず、当時のご苦労も知らず、再建に懸けられたご恩を忘れて「手狭」などと思うている私だからこそ、毎年「恩に報いていく勤め」として報恩講に遇わさせていただくのでありましょう。「恩に報いる」とは、まず「恩を知ることだ」と教えられます。「恩」を忘れて生きている私に、数えきれないほどのご恩に思いを馳せていくご縁をいただいているのです。
たくさんのご参詣とご懇志、ありがとうございました。
また、両日ご遠方からご法話にお越しいただいた川瀬智先生には、心に響くお話をいただきました。心より御礼申し上げます。

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真宗入門講座参加者各位

2007年01月24日 | ブログ

真宗入門連続講座

受講者の皆さまへお知らせ

過日、2月18日からスタートする真宗入門連続講座の事前打合せ会が開かれました。
会場が下記のとおり一部変更になりましたのでお知らせします。
参加者の皆さんには改めてお知らせしますが、予めご了解くださいますようお願いします。

第2回目 3月25日(日)

[松阪 無碍光寺]が[伊勢 常照寺]に変更

第4回目 5月13日(日)

[伊勢 常照寺]が[松阪 無碍光寺]に変更

以上

第2回目と第4回目の会場が入れ替わりました。
5月13日は当初、常照寺を会場に行われる予定だったのですが、神宮のお木曵行事が常照寺の門前を賑やかに通り過ぎていくことから変更になりました。
神宮の行事を目の当たりにしながら、仏法を学び、「仏事と神事」について問い返す機縁とすれば・・・という声もあったのですが、交通規制も日中行われていることから変更することとなりました。
参加者の皆さまにはご不便をおかけしますが、ご理解くださいますようお願いいたします。

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心を写す

2007年01月23日 | ブログ

一昨日は本堂の仏具の「おみがき」をしました。
来週の報恩講に向けて心を磨かんとばかりに10数名の方々の手を借りて、真鍮の仏具をピカピカにしていただき、本堂お内陣にお飾させていただきました。
ご参加いただいた皆さん本当にご苦労さまでした。

おみがきは真宗の伝統的仏事でありますが、お寺の仏具は大きいので結構な重労働です。数も多いのでとても一人では「やろう」という気にもならないのが本音です。ですが、こうしてご門徒の手によって仏具が磨かれ、お飾りされている。その心さえも透き通らんばかりに磨かれた仏具に花を立て、香を焚き、蝋燭を灯してお勤めに遇う。教えに出遇うことを喜びとしておってくださるご門徒の心が、仏前のお飾りの光艶から伝わってきます。

ところでおみがきは、「ピカール」とか「テガール」と名づけられた真鍮磨き剤を使用するのですが、これらのおみがき用品が揃っているうちに、せっかくなので我が家のお内仏の仏具を降ろして、ついでにおみがきしました。本堂のおみがきのついでにお内仏のおみがきをしたのです。ついででしかおみがきできないこの横着な根性がそこに露見しているわけです。

果たして、このついでがなければどうなのか、どんどんお内仏のお飾りはくすんでいくだけです。つまり不信心な心の濁りが増していくのです。

本堂の仏具がピカピカに保たれているところには、ご門徒の心が表現されています。それに対して、我が家のお内仏の仏具のくすみはそのお給仕役である私の心の濁りが表現されているのでしょう。どこまでも、このついでがなければ何もしない、坊守がみがいてくれたお内仏の仏具に、私のそんな心模様が写し出されているようです。

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僧伽の関係

2007年01月22日 | ブログ

今日22日と明日23日は、1泊2日で京都での会議に出席の予定でした。
今朝、出かける準備をしていたところ、ご門徒さまから「おばあちゃんが亡くなった」という知らせを受け、朝から枕勤めにお参りさせていただきました。
伺えば昨晩、息を引取られたということでした。
少し前までは昼間であろうが夜中であろうが否応なしに還浄の知らせ(訃報)をいただくのが当たり前だった気がするのですが、ここ数年、真夜中の知らせが減ったような気がします。
この現象は、葬儀屋さんの仲介によるものではないかと私は勝手に睨んでいます。

私の立場からすれば、葬儀屋さんへ連絡されるよりも先に、お知らせいただくのが当然と思っておりますが、病院で亡くなられた方をご自宅や式場にお連れするために、まず葬儀屋さんの手を借りるのが先になってきた、ということがあるのかもしれません。以前は、身内で遺体を連れて帰ってきたことが多かったのではないかと思います。さらに以前は自宅で最後を迎えることが多かったわけです。
で、まず葬儀屋さんの手を借りる。そうすると葬儀屋さんは気を利かせて?「お寺の連絡は早朝に」とでも言って下さっておられるのではないかと思ったりしています。確かに、こちらも酔っ払って眠りふけっておることもしばしばではあります。

今日は京都に出発してしまう前にご連絡をいただいたのですが、もし出発してしまっていたとしても途中下車したり、Uターンしてくるだけです。
住職という勤めは予定が立っているようで立っていない、約束があるようでない、そんな微妙な勤めということがあります。ですから、会議や研修会、ゴルフコンペなんかもドタキャンせざるを得ない場合が出てきます。そういう因果な勤めが、寺に住するということの具体的な姿としてあります。
それは人間の生き死には決められんということの表れです。そう考えれば本来、明日生きているかわからんのに明日の予定を立てるのが滑稽なのかもしれません。それでも、多分明日は生きているだろうということで予定を立てているのです。ですが、ともすると未来の予定を立てることが、「今」を生きていることの内実になってしまっては一生予定を立てて過ごすだけです。
予定が必ずしも決定するとは限りません。「今」決定できるのは「いつか死ぬ」ということと、それがいつかわからんからこそ「今」、信心を決定させることだけです。であれば、信心は「いつか」というわけにはいかないはずです。

さて、以前は、ご家庭で身内が亡くなれば「とにかくお寺に行ってどうしたらいいのか聞いてこよう」という方も少なくはなかったのですが、最近は「どうしたらいいの?」は葬儀屋さんにお尋ねになることの方が多いのではないでしょうか。あげくには「お寺さんとはどのように接したらいいの?」なんてHow toまで、尋ねられることもあるといいます。ご遠慮もあるのでしょうし、失礼のないようにという気持ちは有り難いのですが、僧侶もご門徒も同じ「僧伽(サンガ)」、つまり仏法を依りどころにする仲間であると仏教では教えられます。気軽の何でもご相談いただけるような人間関係、僧伽の関係をお互いに築いていきたいと思います。

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