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遊煩悩林

住職のつぶやき

穢土に生きる

2008年12月17日 | ブログ

真宗大谷派関係寺院協議会(以下「同関協」)が、宗派と協力して行った差別問題に関する実態調査。その後の継続調査として、同関協は毎年、全国の寺院に出向いて聞き取り調査を継続しています。
昨夕、同関協の役職者と解放運動推進本部の方が聞き取り調査におみえになられました。
お話するなかで、考させられることがいくつかありました。
そのひとつは「伊勢」というところに真宗の寺院があることの意味、です。
伊勢という土地は古くから「清め」を必要とし、またそれを全国に発進する役割を果たしたことは史実が物語るとおりですが、この「清め」によって生み出された「穢れ」を「浄化」させる機能が強く求められてきたところであるともいえます。
とはいっても「穢」がもともとそこにあって「清」が必要になったのではないでしょう。「清める」ために「穢れた」事柄がつくりあげられてきたわけです。
仏教はこの「穢れ」を「浄化」するのではありません。「穢れ」を生み出してきた「清め」のこころ、「清めなくてはいけない」的な発想を浄化させてくれるものだと思います。
極端な言い方をすれば、「清め」の愚行は如来の智慧によって「浄め」られるのだと思うのです。

「ない」ことの意味。
おかしな表現ですが、「ない」という事柄が持つ大切な意味を考えさせられます。
その代表が「清めの塩」でありましょう。
清める必要のない世界を「浄土」「浄らかな世界」というのであれば、「清め」を必要としないところに「浄らかさ」があるわけです。
「清めの塩」が「穢れ」をつくっているわけです。
ですから「浄土」を表現しようとしたときに「清めの塩」は「ない」というところに意味があるのです。
だけども「清め」が「ある」ときの場合と「ない」ときの場合を想定しなければ、「ない」ことの意味が成り立ってこないのです。
清めれば清めるほど「穢れ」を濃くしているわけですが、そのことに気がつかずに懸命に清めようとするところに、「浄土」のはたらきが見出され、そのはたらきによって気がつかされるのです。
人間がその営みの中で生み出した「清め」の発想は、人間の知恵を超えた如来の智慧によって「浄め」られるのです。
すなわち私たちの生きている社会はそのまま「清め」が生み出される「穢土」であるということです。
決して「清らかな人」と「穢れた人」がいるのではありません。「穢土」に染まっている私だからこそ「浄土」が求められてくるのです。
「穢土」では古来から「清め」の人と「穢れ」の人をつくってきてしまいました。その愚かさは浄土のはたらきによって浄められるのです。
そのことを思えば、やはり「塩」に象徴されるような「清めの行為」が「あった」ことによって、浄土が知らされてきたということもできましょう。
もともと「ない」ものには意味もないのです。そこに「あった」ものが「ない」というところに大きな意味があり、それを「なくす」という行為にこそ、浄土を求める生き方が見出されるわけです。
「穢土」に住まうことの自覚は如来の光によってもたらされます。如来の智慧の光です。「教え」に遇うということです。「真実の教え」がなければ真実に気づくことはできないのですから。それによって「清め」が強く求められてきた習俗にあって、それが「穢土」をカタチづくり、カタチづくられたその「穢土」によって、そこに今自分が住していることが知らされてくるのです。ただ、「清めと穢れ」を超えた世界が見出されなければ「穢土」が「穢土」であることに気づくことはできません。それが「浄土」の世界です。
そう考えてみると、伊勢に限ったことでなく「穢土」に「浄土」の教えが求められてくるのは必然です。日本の思想の中に、釈迦そして親鸞の教えが量らずとも求められ、「穢土」に住まうことに気づかれた人が、その教えを伝える道場を「寺」というかたちで私たちに残していってくれているのでしょう。
それと同時に、「穢土」に気がつくことができないところでは、ますます「清め」が盛んになってきます。「真宗の寺院」がここにある意味は必然なわけです。「浄土」が実現されたところには「寺」は要らないといってもいいのでしょう。

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