遊煩悩林

住職のつぶやき

直葬

2006年03月27日 | ブログ

「人間が人間である」といえる所以は、人間が形成する文化すべてにいえることであるが、「葬儀を営む」ということもそのひとつである。葬儀の文化を持つことが人間が人間である所以である。いわば、人間が人間といえるのは葬儀を勤めるか否かによるのだ。人間以外でも「弔い」の習慣をもつ動物もなくはないだろうが、人のように他の死をつうじて己の死を自覚することができるのは人間だけである。とすれば、他の「死」を悼み、悲しむことができるのは、人間が人間たる所以である。

先日の彼岸会で荒山先生が、首都圏で増えつつある「直葬」という葬儀のスタイルについて触れられた。私なんかは初耳であったので「へえー」と、聞かせていただいたのだが、日曜の中日新聞に大きくとり上げられていた。
「直葬」は、遺体を火葬するだけで、通夜・告別式などを行わない葬儀のこと。だから、病院で人がなくなるとそこから火葬場に直行し、火葬場から墓に直行する。いかにも都会的な発想だと感じるのは、経済的で合理的な感覚が優先されているところである。
通夜・告別式が排除される原因のひとつは寺院側にも責任がある。かつて葬式仏教といわれ形式的な儀式のみを温存してきたことは、寺院側だけの責任とまではいえないがその一端は否定できない。
正確にいえば、寺が儀式のみを温存してきたわけではなく、寺と檀家の接点が葬式・法事に限定されてきたといった方がいいのかもしれない。
実際、寺では寺でさまざまな事業が取り組まれているのではあるが、それは一部の熱心な信教者に限られてしまっている現状ということもあろう。

直葬が増えてきた理由は、経済的で合理的な側面だけではない。
「自分らしい葬儀をしたい」「宗教色をなくしたい」という背景もあるという。どちらとも生前に特定の宗教に触れる機会がなかったことが想像できる。

東京という街では特定の信仰を持つことが困難なのかもしれない。もっといえば都市生活において宗教というものが排除される傾向にあるのかもしれない。
東京の親鸞仏教センターにかつて出向されていた宗門関係者にこんな話を聞いたことがある。東京に行ってアパートを探したところ、職業を問われ「真宗大谷派の職員」というと、宗教関係者ということで2.3件の業者に入居を断られた、という。
「宗教」というものを遠ざけることが体質化していることを裏付ける話だ。かといって、無病息災や商売繁盛をうたう寺社などには参詣が絶えないし、最近では、ペットの通夜や告別式が勤められることが増えているともいう。

人間が非人間化してきているといわれる昨今である。
直葬が、良いとか悪いとかいうつもりはない。しかし、これまでなぜ通夜や告別式の儀式が営まれ続けてきたのかというところに思いを馳せる必要を感じる。
儀式が勤められてきたのは、通夜や告別式の中で「死」という現実を見つめ、人間の知恵を超えた智慧に出会ってきた歴史である。
今、私たちは自分が生きている時代のことだけを考えすぎてはいないか。
過去からの連続の中で手渡された現在はまた、未来へと手渡さねばならないのである。

自分の葬儀は死んでから考えてもしようがない、残されたものが死んだものにとって相応しい葬送の方法を選ぶしかないのだ。であれば、生前中の行いが重要である。信仰篤いものには信仰に応じた葬送が行われる。

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人生を荘厳する

2006年03月25日 | ブログ

 

 

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仲間の寺院の結婚式にお参りさせていただいた。
真っ青な晴天のもと、同じ南勢一組に属するお寺の本堂で若い二人の仏前結婚式が執り行われた。

司婚者から新郎新婦に対してこんな言葉があった。
「お念仏によって人生を荘厳していく」
荘厳とは、「おかざり」だと受けとらせていただいた。
いかに自分の人生を輝いたものにしようかと、一生懸命に光り輝くものを身につけて輝かせようとばかりしている私。それはつまり外側を取り繕うことしか考えていない姿だといえる。
しかし、人生を真に輝かせるものはお念仏なんだ、という確信を司婚者は語られたように思う。
そのお念仏さえも、知的欲求を満たすための道具にしてしまってはいないか、同時に問われたことである。

新郎新婦は京都で宗門関係の職に就いている。しばらくは京都での生活になるという。だけど私個人としては、彼らには早く伊勢に帰ってきて欲しい。

とにかくおめでとう。

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能動的学習

2006年03月24日 | ブログ

昨晩、松阪の無碍光寺にて特別伝道スタッフ学習会が開催された。
南勢一組にて来年度開催される特別伝道(特伝)のスタッフの学習会である。
スタッフは主に住職などの寺族のほか、各寺院からの熱心な門徒によって構成されている。
今回のテーマは「座談会の心得」。
特伝の本講座では毎回「座談会」の時間が持たれている。座談会は話し合いの場である。
以前のお寺の布教のスタイルはお説教が中心であった。そこは話を聞く場である。しかし、ただ話を聞くだけであると、同じ話を聞いていても個人の主観がそこに加わり、それぞれでバラバラな解釈がなされてしまう。極端ないい方をすれば、聞く側の都合によって話がねじ曲げられるということもある。
そこで、大谷派の掲げる真宗同朋会運動ではその教化事業のいたるところに、この座談会と称する話し合いの場が持たれることになった。講義と座談がワンセットになったのだ。この場が持たれることによって、講義や説教の理解をより深めることができると同時に、聞くだけでなく「私はこう聞きました」と発言することによって、自分の考えを整理することにもなる。
従来のお説教を聞くだけの学習は受動的学習であるのに対し、聞いた話をそれぞれが「このように聞きました」と話し合う場を持つことで能動的な学習になる。
確かにお寺に限らず、どんな講演やスピーチでも聞きっぱなしだと深まりがない。中には、ある印象に残った言葉をその人の内面で深く追求していくことはあるかもしれない。しかしその追求がどこかで発表されることによって他者に対して、その人の考えというものがはじめて伝わるのだろう。
であれば、聞いた話を「良かった」「悪かった」「感動した」「面白かった」とかだけで済まさず、どこがどう良くて、悪くて、なぜ感動して、なぜ面白かったのかを話すということは、その人の人となりを話すということでもある。それだけに話をすることは難しいともいえる。
だから、特伝において私たちスタッフの仕事は参加者に講義を受けさせることではなく、いかに個々人が自分の考えを明らかにしていくかということをお手伝いすることにある。お手伝いとは、具体的には参加者らが向き合えるテーマを提供することであったり、なるべくお話がしやすい環境を作ることである。そこで、できるだけ多くの参加者が話し合いに参加して、思ったことを話していただけるか、ということにばかりとらわれがちになることには注意を受けた。「黙っていても参加である」と。
よく一般的に、「発言しなければ存在しないのも同じである」的なことがいわれることがある。私はこの言葉を否定しているのだが、何かもやもやして否定しきれないものを持っていたが、昨晩の学習会で少し吹っ切れたような気がする。
「黙っていても参加である」。昨今の社会情勢を観ていると何かとすぐにコメントが求められ過ぎるように感じるが、偽のコメントではそれこそ存在しないのも同じであろう。真の言葉が出てくるのをじっと待ち続けることも必要である。
そんな姿勢を学ばせていただいた。ただ、じっと待つということもまた難しいことである。

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常照寺彼岸会

2006年03月23日 | ブログ

彼岸のお中日、ワールドベースボールクラシック(WBC)の決勝戦に日本代表が出るとあって、もしかすると彼岸会の参詣も少なくなってしまうのではないかと、そんな心配をするほどWBCは盛り上がった。関東ではテレビの最高視聴率が50%を超えたともいうから、2人に1人は野球を観ていたということになる。
しかし、心配をよそに多くの参詣をいただいて常照寺の彼岸会をお勤めさせていただいた。確かに参詣の皆も野球の結果が気になっておられたことは間違いないだろうが・・・。当の住職が一番気にしていたのかもしれない。
さて、春のお彼岸は名古屋から荒山信先生に毎年、ご足労をいただいてご法話を頂戴している。先生は名古屋のど真ん中のお寺の住職というお立場に加え、本山の教導職や名古屋拘置所の教誨師など超多忙なお方である。そんな先生もおそらく野球の結果は気になっておられたのではないかと、失礼ながら勝手に推測をしている。
そんなことを踏まえてかどうかは分からないが、先生がお話の中でこんなことをおっしゃられた。
「何を大切にして生きているかが問われているのです」
極端ないい方をすれば、とある彼岸のお中日にお寺の彼岸会にお参りしてお説教を聞くことを大切にしている生き方と、野球観戦を何より大切にする生き方ではどう違うのか。私の中ではそんなことを問わせて下さるお言葉として聞かせていただいた。

さて毎年、先生が法話後に控室でおっしゃられることがある。
「いろいろな話をし過ぎてしまって、お話があっちこっちしてすみません」と。そして「ただ、どんな話でもいいので、聞かれた方がひとつでも心に何かが引っかかってくれれば幸いです」と。
確かに先生は、いろんな引き出しからいろんなお話を聞かせてくれる。私なんかはメモを取る癖がついていないので全部を覚えていられない。しかし「何か引っかかってくれれば」とおっしゃる言葉を胸に、今年はお話を聞かせていただいた。
いくつかのお話の中で4つの引っかかりが残った。忘れないうちにここに記しておくことにして、それぞれについては改めて問う時間を作りたいと思う。
ひとつ目の引っかかりは、「お念仏は親鸞さまからのお手紙」ということ。
「ナムアミダブツ」と私が申させていただくのは、親鸞さまから頂戴したお手紙を、私が口に出して読ませていただいているのだ、と。
二つめは、正信偈のおことばから7人の高僧を紹介され、その最後のことば「唯可信斯高僧説」(ただこの高僧の説を信ずべし)を引用されたところでおっしゃられた「信は身デ受ク」ということば。「信心」とは「心」であるが、それはこの「身」で受けるものだと聞かせていただいた。
三つめは、北陸に生きられた念仏者である高橋よしさんの短歌。「この世にて 嬉しきことは しばらくも おのがこころの 素直なるとき」
お念仏に照らされて一瞬でも素直な心になれたときに、生きる喜びが感じられる、ということを感動をもって詠われた歌である。果たして私は今生きている中で本当に素直になれる瞬間を持っておるだろうかということを考えさせられた。
そしてもうひとつ、それは先生が東京に定期的に講演に行かれる中で触れられた、首都の葬式事情である。
今、東京では死人を出された家庭の40%が「直葬(じきそう)」といわれるスタイルで葬儀を営んでいるのだという。「直葬」は通夜や葬儀を行わず、病院から火葬場に直接運んでお骨にし、火葬場から直接お墓にいくという合理的?な葬式なのだという。

この4つのお話がこのお彼岸にいただいた「引っかかり」である。時間を見つけてこれらの問題に向き合いたいと思う。

彼岸会の写真は常照寺のホームページからご覧いただけます。
http://www17.ocn.ne.jp/~jyosyoji/events/

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誕生会(たんじょうえ)

2006年03月22日 | ブログ

彼岸のお中日、例年の如く春のお彼岸の法要を多くの参詣の中お勤めさせていただきました。
彼岸会に先立って、誕生児の初参式にあたる誕生会(たんじょうえ)をお勤めしました。誕生会は毎年この時期に行っている、お子さまたちの初参りであります。
この時期に行うのは、4月1日は親鸞聖人の、4月8日はお釈迦さまの生誕の日とされていることから、毎年春のこの時期に子どもたちのお参りを呼びかけさせていただいております。
呼びかけに応じて問い合わせなどを毎年何件かいただき、当日お待ち申しているのですが、なかなか両親や祖父母が揃う都合がつかず、ご参詣が少ないのが現実。
新生児に限定してしまうと余計に参詣が見込めないので、0歳から5歳頃まで、と幅を持たせてお呼びかけをさせていただいています。しかしながら現実は、毎年のこの時期のタイミングを逃し小学校入学、卒業、中学入学、卒業・・・と、お寺への初参りはいつになるやら・・・。
結局、お寺にお参りすることもないまま成人し、おじいちゃんやおばあちゃんの葬式でようやく仏さまという存在と向き合う、そんなご門徒も少なくないと思います。
そのような環境に育った世代が今度は親になってくると、さらにもってお寺に参詣することが難しくなってきます。
もっとお寺というところを身近に親しんでいただきたいと願うばかりであります。

お寺にご縁のあるおじいちゃんやおばあちゃんからこんなことをよく聞かせてもらいます。そのおじいちゃんやおばあちゃんがまだ幼かった頃、彼岸やお盆になるとやはりそれぞれのおじいさん、おばあさんに手を引かれて意味も分からないままお寺によくお参りした、と。

今回、誕生会にお参りしてくれたお子さまも、やはりおじいちゃんとおばあちゃんが連れてきて下さいました。本当にようこそお参りくださいました。

誕生児の記念の念珠にメッセージが添えられています。

どうか新たないのちの出発を迎えたお子さんの誕生を大切に受けとめて、本当におめでとうと言える親になっていただきたいと思うことです。
いのちの根源を親鸞聖人は「ナムアミダブツ」とお念仏することだと教えて下さいました。これは自分中心のわがままな思いに立とうとする立場を捨てて、真理に頷く人間になろうという呼びかけです。
お子さんとともに、人生に与えられている深い意味を尋ねて歩みはじめていただきたいと存じます。

誕生した子どもをご縁にして、その親とならしめられたものに対してのメッセージです。子どもが手を合わすことのできる人間になるためには、まず親である私が心から手を合わせられる人間になることが願われているといえましょう。

常照寺の誕生会にありながら私もまた、ひとりの親として教えられたことでした。

誕生会の写真は常照寺のホームページからご覧いただけます。
http://www17.ocn.ne.jp/~jyosyoji/events/

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