遊煩悩林

住職のつぶやき

何それ?

2018年01月31日 | ブログ

おかげさまで常照寺の報恩講が勤まりました。

寒い中のご参詣ありがとうございました。

またお手伝いいただいた皆さまにお礼申し上げます。

翌朝、お浚いのお参りをして後片づけをしつつ、やれやれ感と同時に来年の報恩講までどないして過ごすのか、いやいや来年の報恩講に遇う保証はどこにもないなどと、例年のごとく明け暮れています。

さりとて、来年の報恩講に向けて365日のカウントダウンははじまっているわけです。

1年間、来年の報恩講に向けて何をするのか。

毎日が報恩の日々であればよいのですが・・・。

 

真宗教団連合のホームページにこんな調査結果がアップされています。

「浄土真宗に関する実態把握調査」

http://www.shin.gr.jp/activity/event/800/pdf/report2018.pdf

 

いろいろありますが、こと「報恩講」に関していえば、真宗門徒といえども「何それ?」という数字が上回ると。

果たして「報恩講」を知らずに真宗門徒といえるのか、という疑問と同時に私自身「お伝え」の至らなさを思います。

門徒を門徒でなくさせているのは誰なのか。

その正体が暴かれたような結果といってもいいのでしょう。

来年、再来年、5年後、10年後・・・100年後の報恩講に向けて坊主が汗をかかなくてはなりません。

真宗寺院と真宗門徒の果たすべき勤めは「先祖供養」なのか「報恩講」なのか。

先祖供養を否定するつもりは毛頭ありません。知らぬ間に身に染み込む先祖供養の感覚の機が、いかに一人ひとりの上に「報恩」に展開されていくのか。

自身、一人の門徒として実践する日々の積み重ねでございます。

とは言いつつ、できるだけ汗をかきたくない本性が来年、再来年、5年後・・・に、結果として現れてきます。

寺がやる。住職がやる。坊主がやる。ではアテにならないのでしょう。ご門徒として、ご門徒とともに。

また来年の報恩講まで、どうかよろしくお願い申し上げます。

 

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何を買うのか

2018年01月21日 | ブログ

昨夕の夕刊。

辺野古 反対さえしなければ交付金

という見出しの記事に目が止まりました。

28日に告示される沖縄の名護市長選挙において、当選者が普天間基地の辺野古への移設に反対を示さなければ(米軍再編)交付金を辺野古のある名護市に支給する方針を政府は固めたという。

沖縄の人々の何を買おうとしているのかという疑問と同時に、誤解を恐れずに言えば、それでもまだ沖縄の人々に何を売れというのか。

 

さて、常照寺の報恩講のお知らせです。

報恩講は宗祖のご命日を偲ぶ最も大切な法要です。

宗祖である親鸞聖人の90年のご生涯は苦難に満ちたものでした。

当時の体制権力によって流罪に遭われてなお屈することなく、今日に伝えられた精神はいかなるものだったのでしょうか。

私たちがほんとうに大切にしなければならないものは何なのか。

親鸞聖人の生き方を学ぶことを通してともに確かめたいと思います。

 

沖縄の問題。

それは売る側の問題ではありません。買う側の問題です。

それは、侵略する側を末端で支えていることを自覚できない私の問題です。

 

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じぶん宛ての賀状

2018年01月06日 | ブログ

大晦日と元日に相次いでご門徒の訃報。

無常の嵐は 時をえらばず 処をさだめず

と、毎時ご葬儀執行の現場で表白しているにも関わらず、それをしみじみ実感するのでもなく、いかに口先だけの事柄にしてしまっているのかと教えられます。

人の生き死にさえも自分の都合に合わせてしまいたがるような根性を否応なく知らされます。

年始の予定をやりくりしながら、誰か代わってくれるものはおらぬものかとさえ思ってしまう。

ちょうど、年末に投函した年賀状が一通、転居先不明で返ってきました。

自分で出した年賀状ですが、そこに

身自当之 無有代者

仏説無量寿経

「身 みずから これをうけ かわるものあることなし」と。

あぁこの経説は誰のためにあったのか。どこまでも自分の都合でしか生きられない自分のためだったと。

教えをいただきもせず、他人に宛てて発信している自分を指摘されたような気がします。

生まれけり

死ぬるまで

生くるなり

武者小路実篤

1月の掲示板に書しました。

だれにも代わることのできないこの生を、娑婆の縁が尽きるまで生ききっていく覚悟が問われた年初です。

 

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無有代者

2018年01月01日 | ブログ

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