遊煩悩林

住職のつぶやき

遊びきった!

2013年08月28日 | ブログ

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おかげさまで「福島のこどもたちを三重へプロジェクト2013」が終了しました。
8月16日から24日まで9日間の日程中、常照寺でも18日から20日までの2泊3日を福島の親子37名と過ごす時間を持つことができました。
18日の夕食前、この日の昼間、伊賀の忍者体験でずぶ濡れになった服をお洗濯タイム。個別に洗濯ネットに入った洗濯物の乾かぬこと。回せど回せど乾かない。
ボランティアさんがランドリーで汗を流してくださっている間、境内では昨年に引き続き特設屋台村で夕食タイム。昨年より長く、そして進化した流しそうめん。松阪牛の串焼。からあげ。たこやき。名物てこね寿司。徳島鳴門から届いたカツオのタタキ。そしていちばん人気の?かき氷・・・。
夕食後は昨年に引き続きRyu-01のライブ。Ryuちゃんずいぶんこどもたちに絡まれてましたねー。お風呂は近所のときわ湯さん、いせ湯さんへ。風呂から帰って、本堂でワンピース上映会。
そして乾かぬ洗濯物は、ランドリーでの乾燥機をあきらめ、屋台村のテント下に干されたのでした。
みんな寝不足気味でしたが翌朝、常照寺前には朝5時ごろから伊勢神宮の遷宮行事である「お白石持ち」の参加者らが続々集合。マイクパフォーマンスのリハーサルなどですっかり目が覚めてしまいました。
調声人の小坊主にハプニングがありましたが、みんなそろって朝のおつとめ。
各所から差し入れいただいたフルーツたっぷりの朝食後、7班体制で神宮まで散策。猛暑のなか汗だくになってみんな帰ってきました。
お昼は、伊勢「川十」さんのうなぎ弁当をほおばってスタミナ回復!今年もご招待をいただいた鳥羽水族館へ。
目玉のセイウチショーでもまさかのハプニング勃発も爆笑のこどもたち。
そしてこの日は、こどもたちは二見の民宿「潮風」に宿泊、保護者は常照寺泊と、親子別々の日程でした。
こどもたちはおかし撒きで盛り上がり、お母さん方は一杯やって盛り上がりました。
さてさて翌20日は、日程中もっともハードなスケジュール。
午前中は御座白浜での海水浴。午後は志摩スペイン村。
こどもたちからは、どっちも時間が足りない!という声。
来年もまた遊びにきてね。
クタクタになるまで遊んだその日は、志摩の源慶寺さんで宿泊。境内に登場したバス屋台のラーメン屋さんにびっくり・・・。この日も宴は続いたのでした。

当初16日の夕方、伊賀に到着する予定のこどもたちを乗せたバスは、交通事情で夜11時の到着。今年のプロジェクトもそんなハプニングからスタートしました。
常照寺~源慶寺の伊勢志摩3泊の日程後、こどもたちは志摩ともやま公園でのキャンプ。9日間のハードスケジュールにハプニング続出でしたが、何とか無事に乗り切れたのは、参加いただいた親子の皆さんの理解、ボランティアスタッフとご支援いただいた皆さんのおかげさまです。
参加者・スタッフ合わせて100名もの布団や荷物の運搬・洗濯など、裏方でも多くの方にかかわっていただきました。
常照寺でも60枚もの布団を、寺の向かいのヒラマツさんにお世話になりました。

24日、桑名別院から福島へ向かうバスに便乗して福島までこどもたちについて行ってしまいました。福島の夏休みはその翌日まで。
現地では、こどもたちの通学路を線量計で計って危険な場所を特定したり・・・と。
今なお震災が継続中であることを認識させられました。

プロジェクトは、震災の年に生まれたこどもがハタチになるまで!が目標です。
これまでにいただいたあたたかいご支援にお礼を申し上げ、今後ともご理解と息の長いご支援をお願い申し上げます。
かかわってくださった皆さま本当にありがとうございました。

日程中の写真をプロジェクトのホームページにボチボチアップしますので、またチェックしてみてください。

? http://booses.net

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ちゃんと遊ぶ

2013年08月17日 | ブログ

福島のこどもたちを三重へプロジェクト
いよいよです。
昨晩、無事に三重の地に到着。
伊勢志摩は18日から。
遊び方を忘れたつまらない大人の自覚とともに、ちゃんと遊べるかどうか不安もありますが、いっぱい遊ぼう!

http://booses.net/

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悪の本体

2013年08月06日 | ブログ

だますものと
だまされるものとが
そろわなければ
戦争は起らない

8月のお寺の掲示板に記しました。
お盆を迎える。そして終戦の日を迎える。そして福島のこどもたちを迎えることを意識して。
この言葉は、2月の遊煩悩林http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/d/20130218でもご紹介したとおり、映画監督である伊丹十三の父である伊丹万作が終戦の翌年、自らの晩年に遺した言葉です。

だますものとだまされるもの。いまその加被を問うならば、だますものが加害者でだまされたものが被害者ということは疑いようがありません。
しかし、だました方に与したいのでもなく、だまされる方が悪いということが言いたいのではありませんし、被害者個人の「落ち度」を責めたいのでもありません。

だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

という万作の指摘する「悪の本体」を知らされたいのです。
常に「被害者ヅラ」をし、加害者を捜したがる自分の性質を深く自覚させられます。
被害者の面をかぶって、加害者の側に立っている「私」。
だまされたような顔をして、人をたぶらかしている「私」。
そんな自分の姿は他人から指摘される事柄ではないでしょう。
ホトケさまの前では偽ることのできない姿です。

偽らざる姿を確かめに・・・
盂蘭盆会のご案内です。
是非お参りください。

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昨年に引き続き、Ryu-01くんのライブ「Life is beautiful 2013 in Jyosyoji」があります。お楽しみに。

Ryu-01ブログ http://ameblo.jp/chang-ryu/

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無自覚の自覚

2013年08月04日 | ブログ

8月!お盆です。
世間にはいろいろな「お盆」がありますが、無意識的にその人の「宗教心」が表れ出るのがお盆だなーとも感じます。
「宗教」というと怪しい感じがする人もいるかもしれませんが、それを「宗教」と自覚することはなくても、自ずとそれが行動に出るものです。
逆にいえば「行動」が、自らの「宗教心」を自覚させてくるのかもしれません。

たとえば、家に提灯を吊る・・・何となく気に入った提灯を見つけたからお盆らしく吊ってみた。またはかわいい提灯をもらったから吊ってみたということもあるでしょう、お墓に出向いて火を焚いて提灯をぶら下げて帰ってくるということまではやらなくても、お盆に提灯を灯して吊り下げるということは、いわゆる「お精霊さん」をお迎えしている「図」といえましょう。もしかすると、それを吊ることで死んだ彼氏と一緒に居る気分に浸るということがあるのかもしれません。
それを意識しようがしまいが、お精霊さんをお迎えしているカタチをとっているのですから、提灯を吊るという行為が無意識的宗教心が表出しているわけです。

また、スーパーに並んでいるパック詰めの「盆野菜」につい手が出てしまう。それが必要なものかどうかもわからないけど飛ぶように売れているから、買わないと気が引けるということもあるかもしれません。
だけども、たとえばそれが「お精霊さん」をお迎えしておもてなしをしたり、「餓鬼」に施す「お膳」の材料だとすれば、それは無自覚であっても必然的にご先祖や亡き人を「お精霊さん」や「餓鬼」にするカタチをとっていることになるわけです。

8月15日の「終戦記念日」。なぜ「記念日」かという問いに対して、「戦争を終結させた天皇陛下の大英断を讃える」という言い方もありますが、さておきまして全国各地で「慰霊祭」が営まれます。天皇陛下が臨席する政府主催の「全国戦没者追悼式」も「慰霊祭」とは言いませんが、厚生労働省のホームページには「慰霊事業」と位置づけられているとおり、追悼式の中心には「全国戦没者の霊」という標柱が立てられています。
戦死した家族を、その遺族一人ひとりがどう受け止めているかということは抜きにして、「霊」を「慰める」という形態をとっているわけです。

盆提灯や精霊棚にしても、施餓鬼や捨ててしまうだけの盆野菜、そして慰霊にしても、何もそれを否定するのではありません。ただ、いずれも無自覚に過ごしてしまうとどうなのか。
いずれも遺された側がなくなっていかれた方に対する宗教的態度を示すものですが、そこには亡き人の「声」とか「願い」があるのかどうか。亡き方々からの呼び声に応える宗教的態度なのかどうか。つまり、亡き人の為と称する自己満足か、遺された側からの一方的な態度にはなっていないかということが問われてきます。
「慰霊」や「供養」は、亡き人の願いに基づくものであって、それがこちらの除災招福の手段となっているなら考え直さなくてはならないことを思うのです。

「霊」を「慰める」立場を超えて、「餓鬼」に「施す」立場を超えて、「お精霊さん」を「供養する」立場を超えて、それを転換していくところに仏教の智慧があるのではないでしょうか。
遺された者の都合で「霊」にしたり、「お精霊さん」にしたり、「餓鬼」にしたりせず、またこちらの都合だけで「仏」というのではなく、亡き人に「してあげる」側から「願われている」側としての立場を自覚していきたいと思うのです。

自力で何かしてあげたいという私ですが、私の力で浄土往生を遂げていくのではないでしょう。誰かの都合で「霊」にされたり、「精霊」にされたり、「餓鬼」にされたり浄土に往生した「仏」というのでなく、私の往く先として亡き人の居場所を確かめたいと思います。
亡き人の行方は、私にはわかりません。ただし見定めることはできましょう。
どこに見定めるかによって、何をすべきかが明らかになってきます。
お盆であれば、どのような態度で過ごすことが求められるのかがはっきりしてくる。ひいては、この世に生まれて何を為すべきかが見えてくる。自ずと何のためにこの世に生まれてきたのか、人生の目的がはっきりしてくる。
つぶやくばかりで迷いっぱなしの私ですが。
ただ、「人」の「為」と書いて「偽」とするならば、誰かの為の「供養」ということはありません。誰かの為のご供養というカタチをとりつつ、私自身が「生まれてきたことの意義」を果たしていく行為です。
自らの宗教心を自覚するということは難しい。ただ無自覚なところに出てきている選択や決断、行動において、それが表れ出てくる。
「合理性」や「経済性」、「損得勘定」といった選択・行動基準が支配する中で、この無自覚的な宗教心がその人の「人間らしさ」を形づくっているように思います。

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