遊煩悩林

住職のつぶやき

イチドウガッショウ!

2010年06月17日 | ブログ

京都、丹波から地元のご住職らとご門徒らが、組の研修旅行でバス2台で常照寺にご参拝くださいました。
前日に鳥羽に宿泊されたご一行が、「おあさじ(朝の勤行)を勤めたい」というご依頼を半年も前にいただいていたのでした。
さすがに80名の方々がお座りいただくと、普段はあまり感じないことですが常照寺の本堂も手狭に感じます。
さて、勤行前の張りつめた緊張を破ったのは我が家の長男でした。
「イチドウガッショウ!」
の一声にご参詣の皆さまも大爆笑。和やかな「おあさじ」でありました。

勤行後「何かお話を」ということでしたので、「お伊勢さんと真宗」についてほんの一言、問題提起をさせていただきました。
不十分でしたので、丹波の皆さんには補足の意も込めて記しておきたいと思います。
伊勢は明治初頭の廃仏毀釈がもっとも盛んであった土地のひとつで、数百の寺院が廃寺になっています。
常照寺はその廃仏運動が鎮まった明治10年の創設ですから、直接的な被害を被ったというわけではありませんが、「真宗」という教えが違和感なくダイレクトに伝わる土壌ではないと思います。伊勢に限ったことではないと思いますが・・・。
伊勢のお寺の特色として「鐘楼がない」ということがありました。今でこそ大晦日の鐘つきがありますが、廃仏毀釈の難を逃れた当時の伊勢のお寺には「梵鐘」がなかったのです。戦争で供出して以降だという人もいらっしゃいますが、いずれにしても・・・です。
お伊勢さんに「祇園精舎の鐘の声」「諸行無常の響き」は控えておいた方がいいだろうというところの判断がなされたわけです。
また、常照寺から南側に100mほど行くとそこは神宮の森です。その近所の方からは、こんなことを聞いたことがあります。
「むかしはここらで穢れは出せんだのよ」。
つまり、柵を越えれば神宮さんという立地に居住されておられたその方は、家族に不幸があっても自宅で葬儀を営むことが憚られたというのです。
それも「葬式を出してはいけない」のではなく、控えておこうという判断でしょう。
伊勢では一年中、注連飾りが玄関に飾られています。蘇民の子孫として無病息災が約束される?注連飾りの効果を否定するようなことでは申し訳ないという判断も加わってか、旧伊勢市内では自宅での葬式ではなく寺を利用するケースが多くありました。今はそれが葬儀会館に移行しています。
ちなみに、35年前に常照寺の本堂建設にかかわってくれた大工さんによると、伊勢のお寺は本堂の屋根の高さも控えめに建てられているともいいます。
江戸時代は寺壇制度ですから、誰もが必ずどこかの寺の檀家であったのですが、明治以降、それまでの仏壇や位牌を燃やして神道への信仰が強制?もしくは積極的に改宗していったわけです。(神道にも伊勢神道、国家神道さまざまですが・・・)
「家は代々神道」という方もありますが、江戸時代まで本家筋の墓をたどればそこには戒名や法名が刻まれているわけです。墓も作り替えてしまった家も少なからずありますが・・・。
神道を「家の宗教」としながらも、ご先祖は仏教徒であったことを知っていて常照寺の勉強会にたびたび足を運んで下さったご近所の方が数ヶ月前に亡くなりました。その方がこう表現されていたことが忘れられません。
「穢れにはしてほしくない」と。
それは個の自発的要求として「私は死んで穢れになりたくない」つまり「穢れになるために生きているような人生はいやだ」ということでした。
心筋梗塞による急逝でそのことを子どもに伝えることができず、ご先祖が仏教徒であったことも知らないであろう子どもたちは当然ながら神道式で告別式を営みました。弔問に訪ねた通夜の席で、生前にお父さんは「穢れにはならない」と言っていたことを伝えると、「どういう意味かわからない」とおっしゃいました。
それもそうかもしれません。ただ、その親父さんは自分の死を、子どもや孫たちに穢れとして扱わせることをいちばん危惧されておられたのだと思います。それは、親の死を塩で清めていく行為が、自分の人生を穢していくことに他ならないことを自覚されてのことです。
聞くところによると、仏教ではもちろんですが、神道にも「お葬式の清め塩」という作法はないそうです。
では会葬者に配られるアレはいったいなぜか?
それは伊勢のお寺の屋根が低かったり、鐘楼がなかったり、神宮に隣接する地域での葬儀を控えたりしたことと同じ発想、「根っこ」は同じということです。つまり、私たちは無自覚に穢れの思想を生み出し、それを恐れているに過ぎないということです。
ともあれ、そんな土壌にあって旧伊勢市内には皆無であった真宗の寺院が創設されたわけです。
そこにはどんな願いがあったのかということから、皆さまのお寺にも、その根底に流れ続けている願いがあるということをお伝えしたかったのですが、どうもご参詣の皆さんに伝わったのは、そのような土壌で頑張っていますというアピールだけになってしまったのではないかと・・・。
言いたかったのは、私たちの教団は50年前に「家の宗教から個の自覚の宗教へ」をスローガンに同朋会運動が展開されていますが、この地ではまだまだ「個」の自覚的な信仰という感覚は薄く、せまい世間のなかでの民俗信仰的な感覚が強いということです。「個人の信仰」が確立される土壌を「社会」というならば、伊勢の共同体はまだ「社会」ではなく「世間」であり、そこには「個」が育ちにくいということをニュアンスとしては表現したかったわけです。
何も地元を否定しているのでも、批判したいのでもありません。
おそらく丹波でも、氏神さんと寺が同じ共同体の人々によって護持されていると思います。
いくら真宗仏教の歴史の深い土壌でも、当然穢れを恐れる、つまり穢れを祓うというところの世間的共同体の思想はあるのでしょうから、問題はそこに向き合う「個」の確立ということです。
今回お参りされた80名もの皆さんが、一様に正信偈を唱和するお姿は、たとえそれが無意識であったとしても「個の自覚」を表されているお姿だと感じたわけです。
日常の生活の場ではなかなか意識されてこない「根っこ」の部分が「旅」することによって意識され、自覚されるということが醍醐味ではないかと思いますし、それがとくに民族宗教の聖地に旅することによって「日本人」であることの誇りを自覚するのか、それとも逆に民族を超えた人間としての尊厳を自覚し、その信仰を確かめることになるのか。
パワースポットたる宣伝文句による商業的観光では自覚することのできない「根っこ」を確かめることが、かつて伊勢を旅する魅力だったのだと思います。
今回、丹波の皆さまにおかれてはせっかく伊勢にまで足を運ばれたにもかかわらず、神宮でなく、まず小さな寺を訪ねていただいたことに謝意を表します。皆さまのご訪問により、真宗仏教は世間的共同体維持に根ざした信仰ではなく、確立した個の集団としての「社会」形成を目指す信仰であるということを確かめさせられました。

夜、無事にお帰りなったとのご報告とお礼のご連絡をいただきました。
やはり土産話は住職のおしゃべりではなく、長男の「イチドウガッショウ!」だったようです。
「伝わる」とはそういうものだと思います。

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坊主の本音 門徒の本音

2010年06月15日 | ブログ

201006 東本願寺(真宗大谷派)が毎月発行する「真宗」という機関誌があります。
主に、教団の動きや報告・案内・募集といった内容ですが、「読み物」として読む内容の企画も盛り込まれています。
そのひとつに「今月のお寺」というページがあります。
約9000ヶ寺といわれる大谷派の全国のお寺を一ヶ寺、一ヶ寺紹介していく企画です。
お寺の数が変らなければ全ヶ寺紹介し尽くすまでに750年かかります。宗祖の1500回御遠忌を控える頃になるでしょうか。
さて、その6月号のこのページを担当し、志摩市の源慶寺さんを取材させていただいてきました。
ちなみに源慶寺さんが69ヶ寺目でした。
「真宗」誌は、お寺に数冊置いてありますので、ご門徒の皆さんはお参りの際にお手にとってみてください。
もし、お手元に置きたいと思われる方があるならば、定期購読も可能です。

真宗大谷派Tomo-net http://www.tomo-net.or.jp/book/teiki/sinsyu/

「取材」という質の仕事の難しさが身にしみました。
取材対象のお寺がどんなお寺なのかを忠実に記事にしたいと思うのですが、どうも「私」というフィルターを通すとそれがボヤけてしまいます。実際に住職さんが抱えておられる苦悩や課題は計り知れず、そのなかで様々な活動がされているのですが、取材する側の視線が一方的ですから、どうしても表面的なところしか記事にできません。
ご住職からは、地域性や仏事の習慣に関わる具体的な課題なども聞かせていただきましたが、それが記事にできず、どうも書き手が体裁を取り繕ろってしまっています。
住職の切実な悩みが記事にできれば、少なからず共感を抱く住職もあるでしょう。またそこから、いくつかの寺が直面する課題が見出されるとするならば、それを乗り越えていこうとする動きにも繋がってくるのではないかと思ったりはしますが、いざとなると。
寺とひとくちにいっても千差万別ですし、個々の寺が抱える課題も様々です。
寺の住職が抱える悩みを正直にもっと聞いてみたいとは思います。また、ご門徒からも寺の自慢話ではなく、「実は・・・」といった愚痴も聞いてみたい。そんな企画があってもいいなと思いました。
「真宗」誌のこの紙面をわざわざそんな企画にする必要はありませんから、自分でやったらいいのですが、どうやったら寺の抱える課題、住職が抱える悩み、ご門徒の寺に対する愚痴が出し合えるか・・・匿名的でないと無理かもしれませんね。
さしあたり、本堂に「ご意見箱」でも設置・・・するような勇気もありません。
そういえば、ご門徒にこういう方がおられました。
「住職!こないだ本山行って言うてきたからな!『親戚一同が都合つけて参っとるのに、お盆のお参りが3分で終わる!』どういう教育をしとるんや!」と。
なんで直接言ってくれんの・・・?
ん?言ってくれてるのか・・・?

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悪臭 鈍感 無神経

2010年06月08日 | ブログ

常照寺の永代経。
日中の法座では、今年も名古屋から荒山修先生にお越しいただいてご法話をいただきました。
夜はご参詣の皆さまと映画を見ました。

ご参詣の誰よりも先に常照寺に到着された荒山先生には、お詫びしなければならないことがありました。
昨年お越しいただいたときに「お元気そうで!」とお声をかけたことへのお詫びです。
名古屋に出かけたときにご長男さまから「実はあの(昨年の常照寺永代経)翌日、入院して手術をしたんですよ」と聞かせていただいたのでした。
しかも「常照寺さまのとのお約束がある」ということで、入院も手術日もずらして下さっていたとのこと。
そうとも知らず「お元気そうですね」なんていう無神経を詫びたのでした。
「(病気だと)当の本人がわからなかったことです」とおっしゃってくださいました。
教誨師のおつとめも1回お休みをされただけだそうです。
さて、ご法話ではその入院中に出遇われたことばについてのエピソードがありました。
手術の翌日から「歩いて下さい」と医師に言われ、八事の日赤の院内を痛みをこらえて歩いていたときに目についた3文字の「書」でした。
そこには、こう記されていたといいます。

恭則壽

それは一度目に就いたら離れないような迫力のある書であったと。
この書は、某アパレルメーカーの会長職にある方が、半身の麻痺を患い、利腕でない左手で揮毫したものだそうです。
そしてそれはまぎれもなく仏教の、そしてお念仏のおこころを表されたことばでした。
「恭」すなわち「壽」である、と。
「恭」は「敬う」「尊重する」という意です。解字すると「共」+「心」。ともに尊敬し合うこころ。
「壽」はまさに「無量壽」の「壽」、「壽命」の「いのち」です。「生命」のいのちではない。
「恭なればすなわちいのちはかりなし」ということです。
先生の言葉を借りれば、「人を尊重することによって壽命が豊かになる」ということです。
縁あって出遇った人、その一人一人を尊ぶこと・・・という文字が「恭」です。
もっといえば「恭」がないと「壽」は貧しくなるとも表現されました。
それは決して理屈ではなく、「あなたのいちばん身近にいらっしゃる方と、お互いを尊重し合って、敬い合っておられますか」との先生からの問いかけでありました。

さて、「恭則壽」の出典について正信偈を開かれました。

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼

(親鸞聖人がその名の一字をとられた師である)中国の曇鸞大師は、中国の「梁」の天子(武帝)から「鸞菩薩」と敬われ、曇鸞大師のおられた方向に向かって礼拝された。
その「梁」の武帝が、尊敬する曇鸞大師の教えを書き留めておられた。そのことばがこの3文字であった、と。
数週間の入院は、このことばに出会うためのようなものだったとおっしゃっておられました。

荒山先生にはそのほか、熱く二時間以上お話いただきました。
もうひとつ印象に残っているのは、「お焼香」について。
自分ではなかなか気がつかない「己の悪臭」に気づかせるのであるとおっしゃられていました。
清浄なる香によって、私の不浄なる心の悪臭が匂ってくるのです。

夜の法座では、ジャン・ユンカーマン監督の映画「日本国憲法 http://www.cine.co.jp/kenpo/」を鑑賞しました。
この作品は主に海外の「知の巨人」と呼ばれる学者らが日本の憲法について語ったインタビュー集です。上映後に、こんな感想がありました。
日本が、海外からこのような目を向けられていることを知らなかった、と。
外国から日本がどのように見られているのかということに私たちは鈍感であるということです。まさに「己の悪臭」に鈍感な私たちでありますし、ますます鈍感にさせようとする「匂い」が蔓延していることを考えさせられました。

時あたかも今日、「世界平和度指数」が発表され、日本は順位を上げたといいます。この「平和」は日米同盟や米軍の基地によるものなのか、それとも・・・です。映画にはこんなメッセージが寄せられていました。

あなたにはこの宝物がみえますか

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お経の値段

2010年06月01日 | ブログ

大手スーパーのイオンが「お坊さん紹介サービス」をはじめたという。
葬儀に関する独自の基準を作成して、それに賛同した約400の葬儀社と契約を締結、全国8宗派、600ヶ寺の僧侶と連携しているそうです。
葬儀の際の御布施の金額を明瞭にし、需要に応じて僧侶を紹介するといいます。
企業のコンプライアンス(法令遵守)が問われる時代ですが、寺のそれはどうなのかと考えさせられました。
寺の場合、企業が「遵守」する「法」とは質が違います。
「仏法」、つまり仏の名のもとにそのことがどうなのか。
葬儀の直葬化が指摘される社会に、どのようなカタチであれ「法座」が開かれるとすればいいじゃないかという意見もあるかもしれません。
ですが、やはり問われるのは、布施は代金なのかということ、そしてお経は商品なのか、それを読む人は何なのか・・・。
仏教の名のもとにそれを「利用」して生きている自分自身を反省すると同時に、正しい法を伝えていかなくてはならないことを思います。
誰の基準で「正しい」とするのかということを学ばなくてはなりません。

Photo

ともに学ばせていただきたく、ご参詣をお待ちしております。
Jyosyoji Homepage http://www17.ocn.ne.jp/~jyosyoji/events.html

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