遊煩悩林

住職のつぶやき

自然と不自然

2009年06月27日 | ブログ

「友引」の昨日、お昼前から一件のご門徒の葬儀を執行しました。
通夜の晩「『お念仏申しあげるのにこの日はよくてこの日はよくない』なんて制約はありません。私たちの生きている社会はどうして『友引は葬儀をしない』なんて、そんな常識を設け、また守ってきたのでしょうか」と問題提起させてもらいました。
式場は専用のホールでしたが、ふたつある会場の今晩から明日の予定はいっぱいだそうです。
多くの場合、つきつめていけば会葬者は浄土真宗の門徒ばかりでない、様々な信仰の方がいらっしゃるのだから「避けた方が無難」というのが私たちが生きている「世間」でないかと思います。私にしてもゴルフの予定を入れるのならば友引の方がキャンセルする可能性が低いと考えたりもします。
伊勢の火葬場は元日以外は休みがありませんから、友引でも葬儀ができるわけですが、今日は「炉」のメンテナンスで半日火葬ができなかったそうです。
憶測に過ぎませんが、高い確率で友引の日にメンテナンスを充てたと考えて不思議はありません。

ところで故人はひと月以上も前に意識不明に陥り、意識を回復することなくこの世を去りました。ご家族にとっては深い悲しみの中とはいえ、何時にも代え難い大切なひと月であったのではないかと思います。
詳しい病状まではお聞きしませんでしたが、「延命治療」という言葉をご家族から耳にして数日前の「臓器移植法」の問題が頭を過りました。

ちょうど昨日の中日新聞夕刊に「宗教なき時代を生きるために」の著者である森岡正博大阪府立大学教授の「臓器移植法改正 再考せよ」との提言を目にしました。
「再考」の理由として、「本人の意思表示があるときにかぎり、脳死移植を行うべきだ」という回答が53.5%をしめた2004年の内閣府発表の世論調査の回答から、国民の過半数は「本人の意思」原則に賛同しているという点を指摘。「本人の意思表示」がなくても脳死判定と移植ができるという通称「A案」は、国民の支持を否定するものだというのです。
そして特に「こどもの脳死」について、臓器が摘出されなかったなら、そのままの状態で何年間も成長する可能性のある子を「死体」と断定して、温かい血がめぐる体にメスを入れて臓器を取り出し、その子を冷たい遺体に変えてもよいとする法案であると「A案」について表現しています。
「移植を受けなければ延命できないとされる子どもの生命はもちろんこのうえなく尊いが、だからといって、長期脳死の可能性をはらんだ脳死の子どもを『死体』と断ずることもまた慎まねばならない」として、たとえば「6歳未満の」長期脳死になる可能性のある子どもの移植を禁止する条項を盛り込むべきだとの案を示しています。
私たちの視点は、私や家族が移植を受けなければ死ぬという立場と自分や家族が脳死判定されて臓器を提供する立場、つまるところは臓器を提供する側と移植を受ける側、助けてやるか助けられるかのどちらに立つかのところでしかこの問題が問えません。それでは立場によってコロコロと答えが変わるより仕方がなく、結論がでることはありません。
ましてや先の指摘にあるとおり、同じ温かい血の流れる人間であっても「長期脳死」の人間よりも、臓器移植を待つ脳死でない人間の方が価値があるかのような選別がそこにはあるわけです。より生産的な生命の方が重いというような発想でしょう。誤解を恐れずにいえば、それはいくらか「役に立つ」方の生命を優先するという社会の表れなのでしょう。
この問題を我が身に問うとき、やはり私の宗教が明らかにならなければ何も見えてこないと思います。煩悩のまま悩んでいても、シチュエーションによって答えが変わるのですからどこまでも決着はつきません。究極は、貰えるものは貰いたいが、くれてやるものはないというのが「私」です。だとすれば、決して変わることのない真実のところから答えをいただくしかありません。人間の知恵を超えた智慧を本尊として見出し、その真実を受け入れていく視点が欲しいのです。
生は偶然、死は必然といいますが、何が自然で何が不自然なのか。
「臓器移植法」も「友引の葬儀」も・・・です。

私たちは「人の死」をどこで受けとめるのか。まず確認しておかなくてはならないことは、今私たちの生きている社会は医師が「ご臨終です」と宣告した時点が法的な「人の死」だということです。ドラマなんかで死体らしき姿を発見して「キャー死んでる!」はウソなわけです。医師が宣告していなければ。だけど、現在でさえ法的に死んだとされる人でも頭髪やひげが伸びるわけです。心停止は人の死かどうか、まずそこから考え直すことも必要でしょう。心臓が停止するということは、血液を送り出す大切な臓器がポンプとしての作用を果たさなくなったということです。血液が全身の細胞に循環しなくなるといずれ、近いうちにそれぞれの細胞がはたらかなくなる。はたらきを止めた細胞はやがて腐っていく・・・。いってみれば現在でさえも「見切り発車」ともいえるわけです。心停止したら必ずこうなっていく、という。「見切り」はさらにすすんで、脳が死んだら、やがて必ず心停止に陥る。そうなれば全身が腐りはじめる。ならば、利用できるものは利用できなくなると「もったいない」から、どうせ死ぬのであれば臓器を利用しよう。それが私たちの欲だということです。
やがて死ぬのは、みな平等です。「臓器移植を受ければ死なないのか」というのが、渡航して移植を待った、もしくは移植を断念せざるを得なかった方々のメッセージではないのでしょうか。私たちはこのメッセージにも耳を傾けなくてはなりません。

一時前に「生前葬」というのが流行りました。どうせ死ぬのであれば生きてるうちにやろうというのです。
オギャーと生まれた子の親がどうせこの子も死ぬのだから私たちが生きている間にこのこの子の生前葬も済ませておこうか、誰もそんなことはしないでしょう。
肉体が完全に朽ち果てることではじめて、「死」と受けとめ葬儀を営むという思想が現代の人類にあるということを聞いたことがあります。それは「生」の尊厳をカタチ尽きるまで保とうということなのでしょう。
逆に、亡き人の尊厳をせめて守るために腐り果てる前に葬儀を営むというやり方も生まれたのかもしれません。
亡き人の尊厳はどこで守られるのか。この子の一生は短いものでしたが臓器提供をして「立派に」生きましたと称賛の対象とするのか、この子の臓器はまだまだどこかで人の体を借りて生き続けています、といって「死」を紛らわすのか。
亡き人を仏(諸仏)と申し上げるには、それなりの意味があるわけです。亡き人と真向かいになり、死を受けとめる。自然のはたらきに逆らうことなく、ごまかすことなく「死」を受けとめる。人の「生」が輝くのは人の「死」に出遇うからです。それが受けとめられなければ「生」が、生きているものの「生」が輝いてこないのです。亡き人は、自ら智慧の光に照らされて輝き、また遺された者の「生」を輝かそうとはたらいてくれているのです。それが諸仏の「仕事」でしょう。遺された者が亡き人の尊厳を保つということは、生きているものが自然の輝きをわざわざ不自然なるものによって濁すことなく、亡き人によって自然の法(道理)に遇い、それに照らされて輝く生を営むことではないでしょうか。

ひと月の昏睡状態は、遺族にとって大切な人の死を受けとめていく大切な時間であったと思うのです。逆に言えば、なくてはならない時間であったといってもいいでしょう。それが、ひと月前のそのときに、「この時点であれば、この臓器がつかえます」ということになれば、やはりその人とかけがえのない縁をいただいた近親者にとって文字どおりかけがえのない時間を奪うことになるのではないかと、今の私には思えました。

「友を引く」のは、あの世に引っ張ってくのではなく、真実を真実として、自然を自然のままに引き受けられない私を、覚りの世界、自然の道理に導いてくれていると受けとめていきたいところです。

ちなみに「友引」は、じゃんけんでいうところの「あいこ」のことです。

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めでたきことであるために

2009年06月16日 | ブログ

一昨日、妻の妹の結婚式に出席しました。
結婚が決まった頃から、総合結婚式場でやるかホテルでやるか相談を受けました。私たち夫婦の出した結論は後者。自分たちもホテルを利用して披露宴+2次会とやってみてそれなりに手作り感が出てよかったなと自己満足しているからです。どちらも一長一短なのでしょうが、個人的には総合式場の流れるようなスタイルがどうも葬儀会館のベルトコンベヤー式のそれとダブってしまうということが最大の要因です。祭壇が高砂に代わり、親族のネクタイが黒から白に変わるだけのイメージしか湧いてこない。確かに招待客側からすれば3時間ならその時間内にぴったりすべてのすべてのスケジュールが盛り込まれ、楽だし、飽きさせられない・・・ということもあるのかもしれません。20090614_114523
彼女らが出した結論は

PRIME RISORT 賢島

http://www.primeresort.jp

というリゾートホテルでした。(後から知ったのですが新郎側の招待客には総合式場のスタッフをしている友人がいたそうな・・・)事実、今回は屋外のチャペルでの挙式、披露宴後半はプールサイドでデザートビュッフェという段取りでしたが、プールサイドに移動した頃から雨がパラパラ・・・。総合式場ならそんな心配はないわけです。そのかわりにそういった演出やもてなしの想定もできないわけです。

それともうひとついえば、式場のあの空間は不思議な箱で、いろんな魅力が詰まっているといえますが、どうしてもそれが閉ざされてしまっているような気がするのです。どことなくひっそり感があり、極端にいえば隠されているような感覚すら抱いてしまいます。
幸い田舎とはいえ、有数のリゾートを抱えるところに彼女は嫁ぐのですから、やはり少々のアクシデントは覚悟の上で広々と解放された場所で、招待客だけでない第三者にも目の触れるようなカタチでやったほうが面白い。20090614_153246
海と山の景色と自然光の溢れる披露宴会場で、友人らが自作したDVDや、本人たちが感謝のメッセージを綴った映像などはプロジェクターが求める暗さに対応できるはずもなく、当日早朝に自宅の液晶テレビを持ち込み・・・てなトラブルも含めて、11時30分の挙式から夕方まで贅沢な時間でありました。
翌日は、今年2月に事故で急死した新郎の親父さんの墓参りに寄せてもらいました。めでたきことがめでたくあるのはそういう「死別」という絶対的な別れに支えられてある、二人の新しい出発を迎える感動にはそんな裏付けがあってのことだと思いました。当然その前に「出遇う」ということがあってのことです。
また、今朝から祖母が転んで腰の骨を折る重傷を・・・叔母は胸部に癌が見つかったとの知らせをそれぞれ受け取りました。「めでたき」ことの内面には、生まれ、老い、病み、死するということをすべて含んでいる、生きているというこのめでたき存在を感動をもって引き受けていくということの難しさをつくづくと感じます。
今時の披露宴ではこんなことは決して口にできないような現代人の常識というかマナーというかタブーというか・・・。常識的には相応しくないのかもしれませんが二人へのはなむけに、二人がつくりあげた式の感想とともに・・・。
「お幸せに」も兄からのおせっかいの余分な祝辞です。

それにしても「誓いますか!」「誓います!」っていうやりとりはいいですね。何を誰に誓うのかはっきりしていて。人前式というのも流行りで「そこにいる人びとに誓う」というのもありなのでしょうが、「永遠の愛」を誓うのであれば、やがて生老病死する人に誓うよりも、死ぬことのない「絶対」に誓うというのがやはり筋だな、と。やはり、愛だけではありませんが、人間を超えたはたらきに対しての誓いがあった方がいいと思います、というよりもなければなりません。日本の現状からすれば茶番に映る儀式かもしれませんが、それがないとそれこそ茶番になっちゃいます。招待客はやはりその見届け人に徹するべきだと思います。そもそも人間に対する誓いなんてどこまでも条件つきですからね。

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救われるはずのない私

2009年06月11日 | ブログ

救われるはずのない私?

親鸞聖人のお念仏は、救われるはずのないものを救う教えです。
ですが、自己を「救われるはずのないもの」として見出すことが私たちにはなかなかできません。
また「救われたい」とも「救われなくてはならない」という願いすら抱けないような闇が現代ではないでしょうか。
「救い」は亡き人でなく「私」に向けられています。
永代経は、亡き人をご縁に、救われるはずのない私を救おうとしてくださる仏に出遇っていく法要です。その教えを聞き、そして伝える・・・永代に・・・そのお役目がいま私にまわってきたのです。
その教えに遇われ、絶やすことなく伝えていってほしいとの願いから、毎年多くの永代経志納を賜っています。
おかげさまで本年も永代経をおつとめさせていただきます。
どうかご都合をつけてご参詣ください。

永代経法要

6月21日(日)

昼の法会 午後1時 読経 

荒山 修 先生の法話
名古屋教区 惠林寺 前住職 
名古屋拘置所 教誨師 
名古屋 中日文化センター 講師 

夕の法会 午後5時 勤行

ビデオプロジェクターで観るお経のはなし

法要懇志を募ります。
当日ご志納の方に「三重教区テレホン法話集『心をひらく』」を進呈します。

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遺書

2009年06月08日 | ブログ

数ヶ月前、市内の私立高校に通う男子生徒が自殺しました。
中学・高校・大学の一貫教育で有名な私立高校で起きた事件に、地元住民はもとより、マスコミもこぞって話題を取り上げました。「いじめを苦にしての自殺」の報道に、「こんな身近なところで」とか、「まさかあの学校で」とか、いろんなことばが聞かれます。遺族と学校側の対立構造も報道によって過熱しました。学校長は責任をとって辞任。遺族は提訴・・・。報道によって私たちの、本当に問わなくてはならない問題、本当に聞かなくてはならない声がどんどんすり替えられているような気がします。
自殺した少年は、遺書に何人かの名を残していました。親兄弟と仲の良い友人や後輩への感謝のことばとともに。また他にいじめられていたとされる少年に対しては「幽霊になって守ってやる」と。そして少年をいじめたとする七名の男女の名前が記されていたそうです。
さて、私たちはどこまで想像できるでしょうか。
ついつい私たちは、事件を伝える報道とともに付け加えられるアナウンサーの道徳的なひとことに慣らされていますから、いつも被害者の立場になってしまっています。
当然のことながら、被害者の感情と立場をふまえ、その痛みを共感し、少年の死を生み出した社会の一員としての自覚をともにしていかなければならないことは、いうまでもないことです。
自殺した少年と遺族への配慮はもとより、遺書に名前を記された複数の少年や少女にも同じように配慮がなされなければなりません。事件からひと月も立たないある日の報道にありました。実名を挙げられた一名は自主退学し、県外の高校に転校した、と。
何かそれが当然というような空気になっているのが怖いのです。いくら「自主的」とはいってもそれは「排除」であり、また「逃亡」です。何の問題解決にもなりません。校長の辞任も同じです。
七人の少年少女には当然、親や兄弟がいて、会社に勤めたり、お店をやっていたりするわけです。兄弟はそれぞれ学校に通い同級生もいます。またその親戚も近隣にいるわけです。
とすれば、私が住んでいる小さな町なんかは皆がつながっていきます。それらの関係がすべて彼らを排除する方向に行くのでなく、そこに留まって、そしてともに問題を深めていくことこそを大切なことであるとすれば、彼らをあたたかく見守っていける社会が必要なわけです。
地元に暮らすものにとっては、他人事ではありません。自分たちの社会に現に起こったことです。誰がいじめたということでなく、それを生み出させるような社会をカタチづくっているという責任。少年に自ら死を選ばしめさせるような環境を与えているという問題を共有し続けなくてはならないと思います。そのためには遺族も、七名の少年少女とその同級生、学校長も排除されてはなりませんし、逃亡されてもなりません。ただしそれは、いじめたものもいじめられたものもともに許されていく土壌があってのことです。

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