遊煩悩林

住職のつぶやき

お寺の引越

2009年05月28日 | ブログ

24日。私の兄が住職を勤めるお寺の引越法要が勤まりました。
正式には「寺地移転奉告法要」という名ですが、ひらたくいえば「引越」です。
引っ越す前の法要が勤まったのが、昭和30年11月5日ですから実に55年の歳月をかけて引越がされたわけです。
現代社会の宗教法人を取り巻く環境を物語るには充分な年月です。
このお寺は昭和30年にダムに沈み、門徒は離散しました。
その後、3県を渡り歩いてようやく今のところに正式移転されました。
法要には、この地でのわずかながらも大きな力となってくれたご門徒の他、寺を維持し続けた親類と別院輪番をはじめ教区の議長、組長、組内寺院の方々がお参りしてくれました。組内にあたたかく受け入れてもらえたことが何よりもうれしいことです。
今回のお引越を実現せしめてくれたのは、この半世紀、この寺の代務を努めてくれた父の友人です。「ようやく親父との約束を果たせた」と涙ながらに当時の状況を踏まえてお話し下されました。
法律的な実務では宗派の職員が、多くの時間を割いてくれました。
その皆が、20畳にも満たない本堂に一堂に会することで、止まっていた時間を取り戻してくれたような気がします。
自称、喜びを表現するのが苦手な兄の挨拶がよかった。
「この喜びをどう表現していいかわからない」。
参詣された多くの皆さまとご厚志をいただいた皆さまには行き届かぬことばかりであったかと思います。お詫び申し上げ、改めてお礼申し上げます。

そんなこんなでこの数週間、法要の準備に終われて兄の寺と自坊を行ったり来たり、睡眠不足の日々が続いて「つぶやき」もできませんでしたが、何とか無事に法要を終えたので、まだまだ残務処理は盛りだくさんですが感動を忘れずに平常を取り戻していきたいと思います。

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間人と人間

2009年05月12日 | ブログ

お寺って何をするところですかと尋ねられても一言で表現するには難しいものがあります。
専門的ニュアンスでいえば「聞法」ということになりますが、「専門的」というのは、それがただ仏法を耳で聞くことだけをいうのではないからです。生活のすべてが仏法に出遇う事柄として見出されてくる、といった感じでしょうか。
説明しようとすればするほど「?」が深まってくるような気もしますが、それなんだと思います。お寺は「!」ではなく「?」なんだと。「!」=「よし!わかったぞ!」ではなく、「?」=「ん?」「どうして?」というところだと。
もちろんお寺では、「学ぶ」「知る」ということも重要ですが、だからといってそれは知識を習得することを目的とする学習ではありません。学び、知ったところで「なるほど、よしわかった」とするのではなく、そこから「ん?」と、出発していきたいわけです。とすれば、お寺は何をするところかという問いに対する答えとしては「学び」「知る」というよりも、「考える」ということが相応しいのではないかと。
昭和後期の学校教育の過程で育ってきた私なんかからすると、やはり「知識の記憶」によって「成績」が決定するような、つまりどれだけ「覚えたか」が評価の基準となるようなところに育って、この「?」という発想に立つということは難しいような気もします。たとえば、社会の中でつくられた理想の人生像を知ることをとおして、その理想にいかに近づこうとするのか、そして少しずつそれに近づいていくことで満足したり、自分を評価したり、というのが私でありますが、それもやはり知識を身につけて満足しているような生き方に通じているのではないでしょうか。
社会の中でつくりあげられるそういう「像」は、多くの人がそれを認めているからこそ形成されているのであって、そこに違和感を感じることは難しいことだと思います。その違和感こそが「?」なわけです。社会の求める理想に従っている「じぶん」という存在の違和感。ひらたくいってしまえば、世間に合わせることのみが優れた能力であったり成長であったり大人であったり、それができないと劣っているとか幼稚であったり子どもだったり、しかしそれでは世間人になろうとしているだけで、じぶんになろうとしていないのではないか。つまり、私たちは一所懸命に学び、知りして世間のことばかり身につけてはいても、その世間を生きる一人の人間としてじぶんを問うことを苦手にしている?遠ざけている?それとも遠ざけられている、もしくは奪われているともいえましょう。
とにかく「?」がないと私たちは考えません。お寺で仏法が説かれるのは「?」を起こさせるためです。それを聞く私たちに「?」が起きなければ、「教え」の意味がないような気がします。知り、学ぶ、そこからしかはじまりませんが、それが「!」(もうわかった)となってしまえば、何もはじまってこない、じぶんを訪ねる道が開かれてこないわけです。結局は、知識や教養としてそれを身につけてアクセサリーにするような、マニュアル好きの画一的人生しか生まれない。
人生にはいろいろありますが、そのいろいろは、その人その人それぞれに違った感情が本来あるにもかかわらず、本音が出てこない、画一的な感情しか表面化されないような私たちではないでしょうか。感情さえも表に出せない。世間人となるということはそういうことでしょう。こういう時はこういう顔をするもんだという人生を過ごしていくうちに、こういう時の顔、ああいう時の顔ばっかりで、本当のじぶんの顔がなくなってしまうのです。
お寺は何をするところですか?それはじぶんの顔を確かめるところなのかもしれません。仏法はよく鏡にたとえられます。お寺は「世間」と「人間」、つまり人と人との間と、その間にいる「人」=「じぶん」を明確にしようとするところといってもいいのでしょう。
私たちは「答え」の知りたい生き物ですが、お寺にはアミダという如来が本尊となっています。アミダは無量寿とか無量光とか訳されますが、「寿=いのち」も「光=智慧」、つまり時も場所も量れ無いのです。量りたいし解りたい知りたい私たちに、量れない解らない知れないことを伝える仏さまです。その仏さまに出遇ってこそ「?」を持ち続けられる人生が開かれてくるのではないでしょうか。

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願いごとの墓場

2009年05月09日 | ブログ

さて連休が過ぎて、生活にも平静を取り戻しつつあります。連休中は、近くの伊勢神宮も例年増し10%ちかい観光客を迎えたようです。
常照寺のご門徒には毎朝、神宮を散歩される方がおられます。連休中の神宮参拝客を見ていると面白いと聞きました。
御神殿の前でひとりで5分も10分も手を合わせている人。大きな声でお願い事をする人。手洗場の水をガブガブ飲んだり、河の水や池の水、石や折れ木を採って、パワーを貰って帰る・・・のだとか。天気のいい日などは、裸同然のようなファッションで参拝する女性の姿も、とか。何十年も毎日、神宮に参る人の姿を眺めているその方からすれば、様変わりなんでしょう。
そんなことを話してくれるその方は常々「寺も神宮も何かを求めていく場所ではない」といいます。
要するに、神宮にお参りに来られたのか、観光スポットに足を運んだだけなのかはともかく、それらの姿から何か要求に過ぎるものを感じたということなのでしょう。
何かを求めて・・・という風に映ったのかもしれません。楽しみを求め、喜びを求めて生きない人はいませんが、お願い事とかパワーを貰うだとかは、与えられることのみを追求している姿なわけです。
真宗の寺はその点、拝んだからといって儲かりません。病気も治りません。受験に受かることも、と言ってしまうから嫌われる?のかもしれません。だけどそれを言い切ってやれる「教え」があるからそう言えるわけです。不幸が続くのでちょっと拝んでやってくださいとか、孫の病気を治してやりたくてといわれれば、「そうじゃないでしょう?」と大切な問題が提起されてくるわけです。
しかし、ヒトがいちいち何を思って拝んだのかを聞き出して否定してやることなどできないのですから、難しいところです。
そうこう思うと、そこは「願い事の墓場」だとも思えてきます。多くの人がここに来て「せっかくだから」と何らかのお願いをする。そんなこと叶おうが、叶うまいがです。それしか思いつかないのが「私」という者です。「願いごと」というのは、その人が何を本尊としているのかが映し出されます。その人が何を願いとして生きているのかの表れなのですから。

「母の日」という商戦がありますが、あるテレビ番組で「何を貰いたいですか」というインタビューをやっていました。あるご婦人の言葉が印象的でした。「いっしょに過ごせればそれだけでいいです」。つまりモノは何でもいいわけです。ただそれを渡しに来た顔が見られれば・・・いっしょに食事ができれば・・・お茶でも飲む時間があれば・・・ひと時でもともに時間を過ごすことができれば満足だと、つまりともに生きていることを実感するということなんでしょう。親の願いは。

遠くの子どもから何か品物が送られてくる、というケースもあるでしょう。でもやはり「わざわざすまんねぇ」と電話でもして声を聞かせるという、そういうきっかけになっているわけでしょう。逆に言えば何か「きっかけ」がないと何もできない、しないような「私」だということに気づかされるのです。「きっかけ」というと聞こえはいいですが、それは「理由」です。何か理由がないと親孝行もできないような「私」だということに気づかされるということが「親」という存在の願いではないかと思いますし、そんなことを言葉で直接伝えることはできません。「なんか理由がないと何もできないのねぇ」なんて・・・。何かを贈る者が、つまり何かをしてあげている方が、実は大切な願いをかけられていて、それを受け取るということがミソなのだと思います。
常照寺の5月の掲示板には

祈るのではなく
願うのでもない
願われていることを知る

と記されています。

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住所変更

2009年05月03日 | ブログ

常照寺のホームページの窓口となるtopページを、macの「.mac homepage」というサービスで更新してきましたが、このサービスが7月に終了するという知らせを受けました。7月以降もこれまでの「http://homepage.mac.com/jyosyoji/」アドレスは継続しますが、「.mac」サービスから「mobile me」というサービスへの移行と、mac付属のwebアプリケーション「i web」のバージョンが「i web 09」となった関係もあって「/jyosyoji/」以下のアドレスが
http://homepage.mac.com/jyosyoji/site/B256CC31-1DB2-4668-BB0B-6CFE1E238FE4.html
から
http://homepage.mac.com/jyosyoji/Site/真宗大谷派 光明山 常照寺.html
に変更になっています。
これまでのアドレスでブックマークをしていただいている方は、ページが開けなくなっている場合があります。
「http://homepage.mac.com/jyosyoji/」のアドレスはそのままですが、ブックマークし直していただく必要がありますので、ご面倒ですがよろしくお願いします。
「homepage.mac」のアドレスは今後も継続していきますが、最新の更新は
http://web.me.com/jyosyoji/で行っていきますので、できればこちらでブックマークして下さい。
すべてのアドレスを「.me」に統一すればいいのですが、常照寺発行の冊子や新聞には「.mac homepage」のアドレスが記載されていて、中には相当部数残余のある冊子もあるので、今後も継続的に配布予定があるその冊子を手に取っていただく方に、できるだけ混乱のないように「.mac」アドレスを残しておこうと思います。
ブックマークの変更は以下のページを「お気に入り」または「ブックマーク」に追加してください。

よろしくお願いします。

http://web.me.com/jyosyoji/

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