月末の報恩講に向けて仏具のおみがき。
世話人の皆さまに“骨を折って”いただきました。
報恩講のクライマックスは恩徳讃。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨をくだきても謝すべし
と。
ひょんなことから今、平野修さんの『生きるということ』を家族で輪読中なのですが。
東本願寺出版 同朋選書 https://higashihonganji-shuppan.jp
そこに、「身を粉にする」とか「骨をくだく」は人間が苦労することを表している、と。
「身を粉にする」「骨を砕く」には、「いのち懸け」のイメージがあります。
如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳に命を捧げるんだという強烈な信仰表明。
そんなふうに聞こえて、なかなかそんな信心深くはなれんな、と思ってきました。
いやいやそんな大袈裟なこといわんでも、もう少し身近に考えてみなさいよ、と。
「人間の苦労」といっても様々ですから、当然いのちを懸けてきたようなご苦労もあるわけです。
が、人が生きる上でのありとあらゆるご苦労が、“おみがき”に象徴されているのではないかと。
お寺に来てくださる世話人さんはみんな元気です。
とはいえ、いわゆる後期高齢者といわれるご老体。
本堂の重い仏具を運んでおられるのを見ると、まさに骨が砕けるのではないかと。
身を粉にして働いてきた、骨を砕いて生きてきたという苦労が皆さんにはおありになる。
平野さんは、恩徳讃の「凄さ」について、
生きるのは大変だったんだという感想ではなしに、そこに感動が語られている
と。
苦労に苦労を重ねて死んでいかなければならないという嘆きでなく。
恩に報いるとか、謝するという言葉でそこに感動が語られている、と。
「骨折り損のくたびれ儲け」で終わるのでなく、感動をいただいていく。
支度、準備から円成に至る過程がただの「面倒」に終わらない大事としての伝統。
なるほど真宗門徒の生活は、報恩講にはじまり、報恩講にくれていくのだ、と。
報恩講にくれて、報恩講にはじまっていくのかもしれない。
今年も無事に骨折などの事故なく報恩講の荘厳を整えていただきました。
物理的なお荘厳が整った。あとは住職のモチベーションか。
お荘厳について。
『生きるということ』の中で平野先生は、「功徳荘厳」という言葉を提起されています。
「功徳」は「属性」を意味する。
功徳という言葉で人間を問題にするとき、人間の持っている性質、また働きを「功徳」と。
「荘厳」はデコレーション、「飾る」という意味と同時に、「置換・位置」という意味。
荘厳は「秩序」という意味に展開される、と。
さて、週末までに読みすすめて、報恩講に挑んでまいりたいと思います。
本堂内に能登半島地震の救援金箱を設置させていただきました。
何もできないもどかしさのまま。
宗派内では600を超える寺院の被害状況が報告されてきています。
お参りの折にご協力くださいますようお願いします。