遊煩悩林

住職のつぶやき

骨を折る

2024年01月22日 | ブログ

月末の報恩講に向けて仏具のおみがき。

世話人の皆さまに“骨を折って”いただきました。

報恩講のクライマックスは恩徳讃。

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨をくだきても謝すべし

と。

ひょんなことから今、平野修さんの『生きるということ』を家族で輪読中なのですが。

東本願寺出版 同朋選書 https://higashihonganji-shuppan.jp

そこに、「身を粉にする」とか「骨をくだく」は人間が苦労することを表している、と。

「身を粉にする」「骨を砕く」には、「いのち懸け」のイメージがあります。

如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳に命を捧げるんだという強烈な信仰表明。

そんなふうに聞こえて、なかなかそんな信心深くはなれんな、と思ってきました。

いやいやそんな大袈裟なこといわんでも、もう少し身近に考えてみなさいよ、と。

「人間の苦労」といっても様々ですから、当然いのちを懸けてきたようなご苦労もあるわけです。

が、人が生きる上でのありとあらゆるご苦労が、“おみがき”に象徴されているのではないかと。

お寺に来てくださる世話人さんはみんな元気です。

とはいえ、いわゆる後期高齢者といわれるご老体。

本堂の重い仏具を運んでおられるのを見ると、まさに骨が砕けるのではないかと。

身を粉にして働いてきた、骨を砕いて生きてきたという苦労が皆さんにはおありになる。

平野さんは、恩徳讃の「凄さ」について、

生きるのは大変だったんだという感想ではなしに、そこに感動が語られている

と。

苦労に苦労を重ねて死んでいかなければならないという嘆きでなく。

恩に報いるとか、謝するという言葉でそこに感動が語られている、と。

「骨折り損のくたびれ儲け」で終わるのでなく、感動をいただいていく。

支度、準備から円成に至る過程がただの「面倒」に終わらない大事としての伝統。

なるほど真宗門徒の生活は、報恩講にはじまり、報恩講にくれていくのだ、と。

報恩講にくれて、報恩講にはじまっていくのかもしれない。

今年も無事に骨折などの事故なく報恩講の荘厳を整えていただきました。

物理的なお荘厳が整った。あとは住職のモチベーションか。

お荘厳について。

『生きるということ』の中で平野先生は、「功徳荘厳」という言葉を提起されています。

「功徳」は「属性」を意味する。

功徳という言葉で人間を問題にするとき、人間の持っている性質、また働きを「功徳」と。

「荘厳」はデコレーション、「飾る」という意味と同時に、「置換・位置」という意味。

荘厳は「秩序」という意味に展開される、と。

さて、週末までに読みすすめて、報恩講に挑んでまいりたいと思います。

http://jyosyoji.infol

本堂内に能登半島地震の救援金箱を設置させていただきました。

何もできないもどかしさのまま。

宗派内では600を超える寺院の被害状況が報告されてきています。

お参りの折にご協力くださいますようお願いします。

 

 

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ほとけさまの声

2024年01月17日 | ブログ

jyosyoji.info

昨年末にご門徒の皆さまにお送りした寺報をホームページにアップ。

http://jyosyoji.info

「宗教はヤバい?」とか。

少しでも関心を寄せていただければ、という見出し。

反響は、まだない。

なかなかまとまらない文章ですが、「ヤバい」のは念仏を忘れることだ、と。

 

さて、正月、能登に帰省中に被災された方が語ってくれました。

いつ倒壊するかわからない本堂からご本尊をなんとか運び出した。

余震の中、庫裡に仮安置するわけにもいかず。

車のトランクに避難させている、と。

ご門徒宅のお内仏(お仏壇)もしかりか。

ほとけさまに手を合わせてきた場とカタチを取り戻すには。

いや取り戻すことができるのか。

先のことを見通す余裕など今はない。

しかれども。

本尊は像だけではない。

姿・形だけでなく「なみあみだぶつ」という言葉となり、音にまでなったほとけさま。

たとえそこに形がなくとも。

「なむあみだぶつ」と現れ出てくださるご本尊。

他人事、余所事ではなく。

おねんぶつを忘れないよう声にしたいと思います。

いや私が称えるのでなく、ほとけさまが声となって出てきてくださるのだ、と。

なむあみだぶつ

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智慧の光明

2024年01月06日 | ブログ

歳末の除夜の鐘。

先の人が撞いた音が消えてから次の人は撞いてください、と。

かつてはお一人おひとりご案内をさせていただいておりましたが。

終盤の乱れ打ち。

ご近所の皆さまにはあたたかいご理解をいただいております。

お参りの皆さまにはようこそのお参りでございました。

さて、常照寺の鐘は煩悩を取り払う効果はございませんと、毎年申し上げております。

暮れに、ある先生が除夜の鐘についてSNSに「親鸞聖人は「不断煩悩得涅槃」と説いておられますが・・」とコメントされておられました。

「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という念仏の利益を鐘の音に聞かせていただく。

乱れ打ちでご利益を掻き消して、念仏の教えをちゃんと聞いていないなという私を知らしめられつつの修正会。

正月の掲示板に

智慧の光明はかりなし

讃阿弥陀仏偈和讃

愚禿親鸞作

http://wikidharma

と掲げさせていただきました。

昨年末に

人間は闇の自覚なしに、光の自覚があろうはずがない

と高光大船先生の言葉を掲げさせていただきましたが、この流れ。

人間の闇を知るはたらきが、お釈迦さまのお悟りと捉え、その内実が「真実の智恵(光)」と。

親鸞聖人は、智慧の光明は”はかりない”との仰せ。

逆に、はかりなき光明が照らし出すのは、極まりのない人間の闇の深さか。

高光先生は「加賀の三羽烏」と呼ばれた北陸の僧だと。

北陸の地には所縁の寺も多い。真宗門徒も。

元日の大地震。

倒壊した寺の映像を見ながら。

お年賀をくださったあの寺は。

あのご住職とご家族は。

ご門徒の皆さんは、と。

宗派でも、支援の呼びかけがはじまっています。

https://www.higashihonganji.or.jp/news/relief/35015750/

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ねんぶつってなんだ

2024年01月01日 | ブログ

 

 

 

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