遊煩悩林

住職のつぶやき

始末

2022年12月02日 | ブログ

師走にあって寒い。

日暮れも早い。朝はなかなか明るくならない。

日が短いのか。過ぎるのが早いのか。

気忙しい。

気忙しさは「始末」に追われる感覚か。

いよいよあれもこれも年内に始末をつけなければならんという脅迫的観念か。

翻って、とっとと始末をつけて、冬眠時間を捻出したいという身体的欲求か。

そんな師走感。

師走感は年齢とともに増していくのではないかと思った。

始末のつかないことが年々増えているということか。

始末のつかないことに、始末をつけようとしているからただ気忙しいのか。

始末をつけなくてよいこと、つけてはならぬことにばかり手をつけているのかもしれない。

結句、いつまでたってもゆっくりなどしていられないのが人という生き物かしら。

いや性分なのか。

では。

いま私は何を為すべきか。

やることがいっぱいあるから忙しいのか、為すべきことがはっきりしないから延々いそがしいのか。

何をやってきたのか。一年を振り返るにはまだ少し猶予がある。

なら、生まれてこの方何をしてきたのか。

新たな年を迎える支度とは。それは何なのか。

何かを求めるようなものがあるとすれば。

どこまでも自己的な欲求、希望や願望、期待の範疇を出ない。

しかもそれを、先々に求めるのであればいつになっても満たされることはない。

御来光といっても望みのまま。希望といっても希望のまま。

いま光に遇うことがない。希望に満たされることはない。

さて今夏、8月1日の大谷祖廟の暁天講座。

念仏するというのは

人間として生きる希望を

後にのこしていく歩みである

梶原敬一

「願心荘厳」という講題のお話しの中で、聞き取らせていただいたこの言葉を師走の掲示板に書き出した。

https://jodo-shinshu.info/2021/09/03/30055/

小児科医として子どもたちが苦しんでいるのを診るなかで。

人間として生きる希望がなくなってきていることを感じる、と。

背景に、個人的な欲望に生きることを求められて絶望しているのです、と。

誰に求められているのか。

誰でもない大人の社会。

人間として生きる希望を見出すことをしないまま大人になった集団。

自己の欲求を満たすことにおいてのみ物事の始末をつけようとしている私が構成員の一味だ。

絶望をつくりだしている。さらさらそんなつもりもないし、絶望しているとも、自分に希望がないとも思わない。

人間に生まれた意味や生きる希望。確か疑問に思ったし、今でも思っているはず。

ただその問いを放棄してんじゃないか。

問うてばかりいても食うていけないからか。問わなくても食うていけたからか。

生きる希望を見出すことができない子どもを、大人であるはずの私のそういう無自覚さ、鈍感さが増殖させているというご指摘ならば。

人間として生きる希望とは。そしてそれを後にのこしていく歩み。

やるべきは始末でなかろう。

といいつつ。

 

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群萌の拯い

2022年11月02日 | ブログ

親鸞聖人のご祥月。

いま、その生きられた時代がNHK大河ドラマで描かれている。

毎週楽しみにはしていますが、出演者が次々と惨殺されていく様子に、坊守は恐々としている。

チャンネルを変えれば、韓国のハロウィンで起きた群集死、インドの吊り橋事故の集団死。

ロシアとウクライナの戦争。そしてコロナやインフルエンザなどウイルスの脅威。

「多死社会」という言葉は、日本の社会形態を指す現代用語かもしれませんが、今も当時もずっと多死ではないか。

その死を「他死」としてしか見られない悲しさ。

ただ、他からしか生老病死を学ぶことはできない。

生死の課題は深く広いはずだが。

「生」の因縁を「親ガチャ」と、最も身近なところに求め。

「死」の因縁を「多死」と手短に表す。

どうやら麻痺をしてくる。

さて。

東本願寺の報恩講のポスターを掲示板に貼り出しました。

https://www.higashihonganji.or.jp/lp/houonkou/

ポスターの横に法語を添えて。いや、法語にポスターを添えたのか?

とにかく。

念仏者は無碍の一道なり 歎異抄

と。

「碍」

【音】ガイ・ゲ 【訓】さまた[-げる]

【意】さまたげる。じゃまをする。

ということですから、「無碍」は、妨げとなる事も、邪魔をする者もない。

歎異抄にはつづけて、

そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。

罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。

南無阿弥陀仏の世界を生きるというのは、あらゆる権威や権力も無効であり、欲に冒されたり、占いや呪いに唆されることはない。

犯した罪や悪業の報いを恐れることなく、善行を威張ることもない、人間の善悪・都合を挟むことのない生き方である。

といったニュアンスでしょうか。

報恩講。

恩に報いるとは。

権威・権力に隷従し、欲望を貪り、占術に浸り、悪の報いを恐れて善行を威張る私を知らされることから。

我がことと知れば謝するものが出てくるはずだ。

だがいつも他人事にして謝せない、何も出てこない。

多死の社会に求められる群萌の拯い。

鎌倉仏教はかくして起こったのかと。

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命題

2022年10月01日 | ブログ

「国葬儀」

葬儀式を執行する者として興味深く見させていただいた。

「見させていただいた」のであって、メディアを通じて「お参りさせていただいた」という感じは残らなかった。

富士に見立てた花壇に遺骨と遺影、勲章などが飾られ、参列者が花をたむけて辞儀。

これが宗教色をできるだけ排除したかたちか。

インドの首相をはじめ、海外の列席者の中に、手を合わせておられた方の姿が印象に残りました。

一方で、一般に向けられた献花台では多くの方が念珠を手に合掌しておられる姿があった。

献花や辞儀という礼もひとつの宗教性を孕んでいると思うが、念珠を手に合掌するというのはある一定の信仰を表明するものだ。

そこに尊厳ということがあるように思う。

儀を辞してお辞儀の礼。そこから私は何を態度として表明していくのか。

合掌。

死者を通して、遺された私が死んでいくことを学ぶ。

死人を仏と受け止めるのは、死人を冒涜しないというこだ。

死という現象に尊厳を見ていくことだ。

決して清める必要がない、鎮める必要がない、慰める必要がない。

清めなくてはならない穢れ、鎮めなければならないような魂、慰めてさしあげなければならないような霊は、死と死者の尊厳を剥ぎとっていくものだと思う。

今回の国葬儀は、その人が何をやって生きたかの紹介や検証みたいに映った。

与えられた位階や勲章は、この国で何をやることが立派とするのかを象徴しているが、果たしてそこに「いのち」の尊厳性を見ることができるか。

尊厳には平等性が担保されている。

いのちの事実。

無宗教性をどこまでも追求しようとする風潮を感じなくもない。

その中で手を合わせる事柄をいかに見出していけるか。

手を合わせるより他にない生き方しかしていない自分。

あなたは何を大事にして生きるのか。

この命題をいただくのが葬儀であろう。

そこからはじまっていく人間の生活がある。

死んだら終わりというが

遺されたものには始まりである

10月の常照寺掲示板。

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向こう岸

2022年09月17日 | ブログ

 

 

「およそなりたくないものになるという身の事実」

 

子どもたちとの会話のなかで、たまに「何になりたい?」という話題が出てくる。

いわゆる将来の夢というのか。

いや、まだはっきりしていなければ夢ではないか。

老人になるんやで。どんな老人になりたい?

病人になるんや。どんな病人やろか?

死人になるんやで。どんな死に方すんのかな・・・

家族団欒。

さて、夢も希望も今は昔の世代。

誰と何を語らうべきか。

何になりたいか。

欲を言えば「お化け」か。

できるだけ「若く」「健康」で「長生き」をしたいとすれば。

2-30歳の身体能力を保ち、病気もせずに100歳まで行こうとするならば、お化けとでも言われたい。

「およそなりたくないもの」は、「老人」「病人」「死人」だと。

身の事実を学ぶというのはなかなか。

そんな暇があれば、ジムに行ってトレーニングして、エステに行って、ドラッグストアでサプリメントを買って、と。

学んでいる暇はない。

ただ、老病死が道理である以上、どこまでそれに反していけるか。

その頑張りも大事な煩悩。

煩悩の身にこそ届いてくる世界があるという。

学びの向こう岸には、決して私の都合のいい夢や希望はなくても、願いと光が溢れているのだ。

ともに学びの場に。

 

台風の影響が気になるところですが。

どなたさまもご用心を。

彼岸に会えますことを。

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学び

2022年09月01日 | ブログ

仏さまに手を合わすという形式を何と心得るか。

おもえば心得るべきことを心得ぬまま仏さまに礼拝する作法を教わった。

子どもの頃はそれだけ。

住職となったいまもそれだけでよいのかもしれないが、そうにもいかない。

ご参拝の場で、「皆さまご本尊に向かってご合掌とお念仏をお願いします」などとアナウンスしているのだから。

説明責任を感じるところ。

アナウンスして、参詣者から、手を合わせることの意味、南無阿弥陀仏と念仏することの意味を単刀直入に問われたことは今のところありませんが。

いい加減なことを言っているなら、余計な説明はいらないとも思う。

ただ「ご一緒にお念仏申しましょう」だけで整うのだろう。

いや、それすらもいらないのかもしれない。

手を合わせる人の姿を見て同じ姿を真似て育っていく、育てられてきたと言った方がいいのかもしれません。

さて先週、少しの暇をいただいて神戸に赴きました。

街中にある西本願寺の別院にお参り。

https://hongwanji-kobe.jp

エレベーターで3階に昇り、誰もいない本堂に、いつでもお焼香できる設えがなされていた。

そこで。

何と心得て手を合わせておるのか、と問われたのである。

さて。

個人的に最近、「ご供養」という表現をあまり用いなくなった。

うまく説明ができないのだ。

まるで住職失格だろう。

「ご供養」というより「学び」ということをよく口にしている。

そういうお育てを頂戴してきたということかもしれない。

何のために手を合わせるのか。

どうしてお念仏するのか。

「ご供養のため」では、自身納得がいかない。

「学び」という表現が最もしっくりくるのだ。

仏法を学ぶとは 老病死をはじめ

およそ なりたくないものになるという身の事実を学ぶのです

荒山淳

2021秋彼岸会

昨年のお彼岸にいただいた言葉を今月の掲示板にしたためました。

問いと学びを大事にお彼岸を迎える支度をはじめます。

 

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福島プロジェクト2022 - 夏 -

2022年08月18日 | ブログ

お盆明け。

行動制限のない夏休みということで。

 

福島のこどもたちを三重へプロジェクト

http://booses.net

 

ご門徒の皆さまには、毎年あついご支援をいただきありがとうございます。

20年つづけていこうというプロジェクトの11年目。

日程中、真宗大谷派三重教区児童教化連盟が主催するキャンプに、次女が友達たちと、長男はスタッフとして、坊守は食事当番としてそれぞれが参加。

部活の長女とお通夜の住職は留守番。

 

留守番中ではありましたが。

プロジェクト参加の保護者の皆さまと、キャンプに参加できないお子さまが常照寺を覗いてくれました。

引率スタッフによると、伊勢のおかげ横丁に向かうはずが駐車場満車で止められず、ということで。

雑踏をはなれ、昼食をご一緒させていただきました。

はるばる福島からお久しぶりの面々と、はじめましての面々と。

今年は、スタッフ間で共有の写真を眺めるだけだと思ってたところ。。

わずかな時間でしたが、うれしいひととき。

てこね寿司でお腹を満たして、気を取りなおしておかげ横丁へと向かって行かれた保護者の皆さまでございました。

またゆっくりと。

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現世利益

2022年08月14日 | ブログ

前住職の25回忌。

前住職はお盆のお参りには必ずと言っていいほど現世利益和讃を依用していた。

南無阿弥陀仏をとなうれば

十方無量の諸仏は

百重千重囲繞して

よろこびまもりたまうなり

子どもの頃は、お盆はこれを読むものだと。そういうものだと思っていた。

住職として25年経つが、お盆に現世利益和讃を用いるという作法についての決まりみたいなものはどこにも見当たらない。

前住職はどうしてお盆の和讃はこれだ、としたのだろう。

これは数年来の疑問でもあったのだが。

 

南無阿弥陀仏を称えれば、数え切ることのできない仏になられた方々が皆こぞってよろこびまもってくださいます

 

勝手な解釈ですが。

亡き人を仏さまといただくことで、念仏する私がまもられているのか、と。

ふーん。まもられているのか、と。あまり実感が伴わない。

逆にいえば、亡き人を仏さま以外のものにしてしまうと、危険だといえないか。

なるほど。その方がリアリティがある。

明日の盂蘭盆会。

皆で現世利益和讃を唱和したいと思います。

 

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迷路

2022年08月01日 | ブログ

オボンはいつからいつまでか。

この時期のお寺へのお問合せあるある。

常照寺では、基本的に7月15日から8月15日のひと月をその期間と申し上げております。

お盆のお参りの日程は、お寺の一方的な都合。

「初盆」は、土日・祝日のご希望に応じて7月初旬から週末毎のお参り。

お盆の期間がやや膨張してきた感も。

お盆はその時期的なことより、「何をもってお盆とするのかが肝要です」という持論で今年も。

家族が集まったり、墓参りをしたり、お坊さんを招いたり、お寺に参ったり、火を焚いたり、提灯をぶら下げたり、花火をしたり・・・

盆踊りだったり、施餓鬼だったり、精霊流しだったり・・・

終戦記念日との絡みから戦没者の慰霊や鎮魂もということもお盆に重ね合わせることもあるかもしれません。

常照寺では盂蘭盆会のお知らせに浄土真宗のお盆のガイドライン的なものを記してはいますが、みなよかれと思って、宗教的なことから商業的なことまで「おぼん」といってやっているわけです。

何をやるのも自由なのだ。

それは亡き人が阿弥陀の極楽国土においでになるから言えること。

何をやってもいい。ただ。

せっかく極楽国土においでの仏さまを「霊」にして呼び寄せようとしたり、「餓鬼」とよんで施してやろうとか、「魂」を鎮めて差し上げようとか。

自己満足。傲慢。憍慢の悪衆生。

極楽国土においでになるから、何をやってもバチはありませんが、笑って見護ってくださっておられるか、心配してくださっておられるか、その受け止め。

一点確かめておかなければならないのは、極楽国土の仏さまのはたらきは、私たちが迷いの世界に生きているということを照らし出す、気づかせようとするはたらきだということ。

いま「宗教」ということが問われている。

いや「宗教団体」を問うて「宗教」は問うてないのか。

私は何を信じるのか。何を疑うのか。

真宗の仏教でいえば、誰から私の何を信じられていて、何を願われているか。

都合の良いことも悪いことも、幸も不幸も人生ですが、亡き人の死後の世界を持ち出して不都合や不幸の因果とする発想。

「亡き人は迷わず極楽国土におられる」というのも、その類だと受け止められれば自戒を込めなくてなりませんが。

ただし「亡き人が迷うている」と言うのは、極楽浄土の教えからすれば、道理でない。

極楽浄土の教えからすれば、それは道理に背く。

迷うているのは亡き人でなく私。

仏教において死は「苦」ですが、「不幸」ではない。

苦をいかに受け止めるか。

生老病死の道理。

生まれたものは、老いて病んで死んでいく。

諸行無常。これが道理ですが、いつまでも若く健康で長生きをしたいとすれば、それは願望ではあっても道理に背く煩悩にすぎない。

物事の道理がわからない。それが迷信と。

だけど、そんな煩悩によって自身の迷いということに気づかされ、道理を知っていくことになる。

8月の掲示板に

成らぬことを 成ると信じることを 迷信という

鉢屋賢喜代

と書いた。

迷信だからといって、何でも批判したり、排除したりすればいいというのではない。

いくら排除しようとしても、迷いの中にしか生きられない。

だからホトケさまがはたらくのだ。

わかったようなことを言っていても迷路の中。

みちのしるべを確かめてこそお盆がお盆となる。

「しるべ」を変換したら「導」と出てきた。

お盆は、亡き人の居場所を確かめることを通して、私の居場所を確かめる導き。そういう行事だと思う。

毎年の慣習は、生き遺ったものが迷わぬように、いや堂々と迷っていくために阿弥陀の浄土においでになる仏さまの設えだ。

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左右非対称

2022年07月15日 | ブログ

とある会議の日程が延びて思いがけない時間ができた。

境内の草でも抜こうかと。

どうせ汗でびちゃびちゃになるくせに、雨が降ってきそうだからやめようか、とか。

浜までは海女も蓑きる時雨かな

滝野瓢水

 

一昨日の「ご命日の集い」のお話のつづきを。

常照寺の13日のご命日は「前住職のご命日」という位置づけなので、お内仏で勤行をしている。

朝から総代、世話方、有志のご門徒方が境内、本堂、庫裡の清掃奉仕に汗を流してくださっている。

さて、その日の新聞(『中日新聞』2022.7.13朝刊)に、先の選挙にふれて「広がる極右・陰謀論」の見出し。

皆で語らいたく仏前に持参した。

お内仏の経机に「正信偈」の赤本と新聞を重ねて置いて思い出したこと。

在家仏教は、「赤本」と「新聞」のはざまに身をおく生活だと。

たずねれば、かつて安田理深先生が曽我量深師を「赤表紙と、新聞の間に生きられた人である」と評された、と。

「赤表紙」は『真宗聖典』、浄土の真実。

「新聞」は、世の出来事。娑婆の現実。

日常生活に起こってくる出来事を通してお念仏をいただいていく在家仏教徒の姿勢。

「赤本と新聞」は、「仏壇とテレビ」といってもいいか。

テレビの前に身を置く時間と、仏前に身を置く時間。

「出家」は世事を離れて行を修める。

「在家」は世事において行を修める。

度を過ぎた修行は、度を過ぎた快楽と均し、と。

釈迦のいう「中道」的な在り方に通じるか。

ある政党は、この釈迦の「中道」精神を軸に結党されたと聞く。

ご命日の感話に新聞を持ち込んだのは、前住職が若い頃に新聞社に身を置いていたことを意識しつつ。

「極右が広がる」ことでその「中道」をどこに見出すのかという発題です。

右側が極端に広がっているとすれば。

球場のライト側がどんどん膨張していった時のレフト。

もはやセンターがわからない球場で守備に付けと言われても、どこを守るのか。

かくいう中道主義の政党も、もはや右中間か。

アメリカのマイナーリーグでは、ヒットが出やすいように二塁後方を守備禁止エリアとすると。

投手にとっては鬼のルール変更だ。

常に中道をキープするというのは困難だ。

ときと都合次第でこっちに寄ったりあっちに寄ったりしながら生きている。

問われるのはそのバランス感覚。

誰がそれを問うてくださるか。それを「宗」というのかと。

赤表紙であり、仏壇の中身、本体だ。

 

余談だが、同新聞に、参院選の結果を受けた政党交付金の試算が載っていたがどうもバランスが悪い。

余談の方が関心度が高い。

 

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身の程知らず

2022年07月14日 | ブログ

「やらなくてはいけないこと」と「やりたいこと」に優先順位を奪われてテレビを見る時間が減った。

そのくらいでちょうどいいのか。

ふっと一息ついてテレビをつけると、他者の批判に明け暮れる。

警備体制の甘さが云々、多額の献金が云々・・・。

なぜ殺されたのかその真実を、と。

事実は、容疑者を誰も止めることができなかったということと、被害者を誰も守ってやれなかったということ。

「宗教」について、いま「のめりこむ」という表現が多用されていますが、宗教はのめりこむものではなく、少なからず「懺悔」「慚愧」を促すものだ。

他者の批判に明け暮れする自己批判を思った。

容疑者を「誰も」止めることができなかった、被害者を「誰も」守れなかったというときの「誰も」。

この「誰も」に果たして自分はいるのかいないのか。

警備をするのも、献金をするのも他人事か。

少なからず、私は彼を止めることはできなかったし、彼の人を守ることもできなかったというのが真実だ。

 

ようやく蝉の声が聞こえてきた昨日今日。

昨日の「ご命日の集い」の感話で、

蟪蛄春秋を識らず 伊虫あに朱陽の節を知らんや

の曇鸞大師のことばを引いた。

蝉は春も秋も識らない、今が夏ということをいかに知ることができようか。

よく「春も秋も知らないのだから夏も知らない」と。

この時期、庭の草を抜いていると蝉の幼虫が地中から這い出した穴をみつける。

いつから地中にいたのか私は知らないけど、実は蝉は知っているんじゃないかと思った。

夏だ!今だ!と。

曇鸞大師の「浄土論註」には、「蟪蛄春秋を識らず」のくだりに「知るものこれをいふのみ」と付してある。

蝉が鳴くのを夏と、人間が知っているだけだ。

知るか知らんかでいえば、蝉は「夏」を知らん。だけど身は知っていたのだ。

学ぶべきは、身の程を知るということか。

 

「第七波」といいつつ、「弔問」と「献花」が絶え間ないとテレビが言っている。

弔問にいきたい、献花したいという思いを否定したいのではありません。

ただ、国をあげて霊を鎮めようとか、真夏に墓でもないところに花を盛るような仕方については一人ひとりその表現を考えていくことはとても大切なことだと。

他者を批判する風潮に流されて自己批判を忘れる。

そもそも誰かを批判できるような私であったか。

「ご命日」の感話は、まとまらないまま終わった。

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