遊煩悩林

住職のつぶやき

三界皆苦 我当安此

2021年04月01日 | ブログ

1日は親鸞聖人の御誕生会。

「おたんじょうかい」ではなくて「ごたんじょうえ」。

この私がこの世に生まれた意味を、宗祖のご誕生の意味を会して訪ねる。

コロナ禍、東本願寺はこの春の法要を動画で配信。

http://www.higashihonganji.or.jp/houyou/

今年は、2023年の親鸞聖人御誕生850年をいかに迎えていくかと、お待ち受け大会が開かれる。

さて、4月8日はお釈迦さまの誕生を祝う「はなまつり」。

先週末、4月8日がご命日のご門徒の3回忌にお参りさせていただいた。

20歳前後のお孫さんたちに「4月8日」は何の日でしょうか?と尋ねたが返答はなかった。

お伝えが行き届いていない住職の怠慢だ。

でも、亡くなったおじいちゃんのおかげでそれをお伝えすることができた。

じいちゃんの亡くなった日は、お釈迦さまの誕生を祝う大切な日なのだ、と。

釈迦の誕生を祝う表現としての「はなまつり」。

釈迦の誕生の意を、降り注いだ甘露と埋め尽くすはなびらで讃える故事による。

有名な

天上天下唯我独尊

には続きがある。

三界皆苦 我当安此

仏の教えは「一切皆苦」。人生は苦である、と。

だけど、「我」「まさに」「ここに」「安んず」。

苦の中に安んじていく道がある、と。

 

苦というのは、私の思いどおりになれば幸せだという妄想・錯覚によるのだろう。

思いどおりになるのが幸せだとすれば、思い通りにならないところに苦が生じる。

釈迦の「安んず」は、誰かの思いを叶えて幸せにしてあげるのではなかろう。

思いどおりにならんのが常であると、その道理をいう。

思いどおりに生きることは幸せに違いない。だけどそうはいかない。

思いどおりになることが当たり前だと思ったら、この世は苦しみでしかない。

そもそも自分の思いどおりにこの世に生み出た私ではない。

思いどおりにならないところに、はたらいてくださる大事なことを確かめるのだ。

 

願わざるに草は萌え

願えども花は散る

 

4月の常照寺の掲示板。

コメント

2021年03月21日 | ブログ

彼岸会の法話で講師の荒山信さんは、

もともと地上に道はなかった

歩く人が多くなって

そこが道になった

魯迅

ということばをあげられた。

ことばを聞いて、湧いたイメージがふたつ。

釈迦の誕生を祝う4月8日の「はなまつり」。

もうひとつは、聖徳太子1400回忌。

今年は聖徳太子が亡くなって1400年になるという。

親鸞聖人は聖徳太子を「和国の教主」と讃えられ、真宗寺院には聖徳太子像が奉懸されています。

日本仏教の祖としての受け止めです。

もともとそこになかった釈迦の大道。

いま、ここに彼岸の念仏集会が催されたのも、2500年以上もの年月と数え切ることのできない程の多くの人々の歩みがあってつくられてきた道のおかげだ。

 

彼岸は此岸を照らすはたらき。

正信偈の

弥陀仏本願念仏

邪見憍慢悪衆生

彼岸界の弥陀の本願念仏は照らす側のはたらき。

照らされたのは此岸に生きる邪見で憍慢な私。

そこに「お彼岸」が成就する。

彼岸のお供えはお萩か牡丹餅かと言ってる場合ではない。

これまで多くの人々が歩んだ道に草が生え出した。

念仏の集会をコロナを言い訳に閉ざそうとする心の草。

道はすでに雑草が生い茂っているのかもしれない。

ひと声ひと声のお念仏は、後から来る人の道を道たらしめる除草作業だろうか。

いや、抜いても抜いても生えてくる草のおかげでひと声のお念仏が出てくると受け止めるべきか。

草をかき分け、道なき道を歩まれた数多のご苦労を「汝、知るべし」である。

道は「伝える」のではなくて「伝わっていくものだ」と「伝道」について教えられる。

控えの部屋で講師と雑談中にあがった話題。

「勝手に演僧会」というYoutubeのチャンネル。

https://www.youtube.com/channel/UCABynNCLMedHC-Hw__CM9aw

ご門徒の皆さまにはお馴染みの顔も。是非ご覧ください。

個人的な感想ですが、何かお寺の未来を見るような気がしました。

お寺の世界は古い古いと思って自分は若いつもりでしたが、このチャンネルの動画を見て、古いのはこのじぶんだったと。

いつまでもブログにダラダラと分かったような分かっとらんことを呟くことしかでない私に、若き伝道者は「仏法の道は閉じちゃいないよ」と励まされました。

 

東本願寺 春の法要「聖徳太子1400回御忌」もインターネットで配信されます。

http://www.higashihonganji.or.jp/houyou/

 

コメント

軌道修正

2021年03月11日 | ブログ

震災の翌年から鐘打してきた「勿忘の鐘」。

コロナのこともあって、ご門徒や地域の方々にも呼びかけをせず、先日、中学を卒業した息子と鐘をついた。

あの時5つだった子が15の歳に。

10年の歳月を想う。

復興とは、と。

それまであたりまえだった生活、もとどおりの生活を取り戻す。

10年前のあたりまえか、50年前のあたりまえか、100年前は。

自然の道理に帰っていく方向を復興というような気がした。

とすれば、少なくとも私のこの10年は道理に背いた生き方しかしてこなかったということだ。

軌道修正の彼岸を迎えたい。

コメント

あるとかないとか

2021年03月01日 | ブログ

これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と日う。

その土に仏まします。阿弥陀と号す。

いま現にましまして法を説きたまう。

- 仏説阿弥陀経 -

 

極楽浄土は西にあると。

陽の昇る方向ではない。

陽光の沈みゆく彼方である。

その彼方の岸を「彼岸」。

 

西に向かって座し、手を合わせる。

仏教徒の礼拝のスタイル。

臨終時の基本は「頭北面西右脇」。

頭を北に、顔は西に、右脇を臥せる。

 

西という方角を知るのに最適な季節は3月と9月か。

春分・秋分とも。

いずれも彼岸の中日。

私の親も祖父母もこの中日をわざわざ「おちゅうにちさま」と言っていた。

「御」をつけて、「様」をつけて。

それだけ大事な何かに触れてのことだろう。

 

西を知るのに彼岸の時期は最適だが、彼岸はただ季節を表す言葉ではない。

「彼の岸」だから、方向を表している。

いのちの帰って行く方向。

いのちの向かう方向だろう。

 

さて、ネット上のお寺の掲示板に、

浄土があるのではありません。

浄土に帰る生活があるのです。

藤元正樹

とあった。

調べると、「昭和56年2月20日第1刷発行」とあるから、今からちょうど40年前に東本願寺から発行された同朋選書『解放への祈り』のことば。

「浄土があるのではない」と。

経典には、西方十万億土の極楽浄土に阿弥陀仏が現にましまして法を説いているという。

あるとか、ないとか。

『解放への祈り』では、「浄土に帰る生活があるのです」のあと

そこに、浄土が現成するのであります。

それが御同朋の世界でありましょう。 

と続く。

あるとかないとかを信じるのではない。

生き方の問題として出現してくる御同朋の世界を浄土と。

いのちとその向かう方向が問われ、それに背を向け続けている自分の影が照らし出されてくる。

浄土に帰る生活になってないのだ。

それでも必ず浄土に迎え入れるという如来のみ光は影をつくらぬ光だった。

コメント

薄情

2021年02月26日 | ブログ

「遊煩悩林」のアイコンを飾っているキャラクター。

今年19歳になる寺♂ネコが行方不明。

ここ最近、痩せ気味で、抱くと背骨のゴツゴツが顕著に。

思えば、最近よくミャーミャーと言っていた。

病院に連れて行こうだの、歳とっただの言っておりました。

昨日、行われた門徒会研修の序盤、本堂に入りたくて「ミャー」と。

「ダメダメ」とリビングへ。

研修会後、トボトボ歩く姿は目撃されたものの、いつもは必ずいるはずの時間になっても帰ってこない。

暗中模索したが気配なく、朝から範囲を拡大して捜索したものの。

雨があたってきた。冷たい雨です。

どこかで養生してくれてるといいのですが。

心配するしかない薄情を思う。

今月1日の様子

コメント (2)

鬼がでた

2021年02月01日 | ブログ

おかげさまで2日間の報恩講をお勤めさせていただきました。

窓を開けた寒中の本堂で「承元の法難」を描いたDVDをプロジェクターで視聴。

鎌倉時代の「承元の法難」と、昭和の戦争を照らし合わせて、体制権力に従わないものを排除するような思考は、今なお私たちの姿を言い表しているのではないかという問いかけ。

承元の法難 https://ja.wikipedia.org/wiki/承元の法難

昨夜の大河ドラマ。

信長に対する本願寺の徹底抗戦。

時代は変われども、法難によって島流しにされた親鸞の魂が宿っているようにも感じます。

「承元の法難」は上皇によるものですが、石山合戦の本願寺の背後にも帝の影が見え隠れする。

本願寺も帝とは、良くも悪くも切っても切れない縁がある。

親鸞の魂というのは、決して自分を罪人にしたことの恨みではない。

罪人の扱いを受けて同じく島流しに遭った師。

念仏停止の宗教弾圧に屈せず念仏を称え、1番、2番、3番、4番と順番に殺されていった仲間。

なにより「なむあみだぶつ」を許さぬという横暴。念仏を否定することに対する魂。

体制権力に従わないものを排除するというのは、いつも為政者の統治機構の構造上の欠陥としてある。

万民平等の名号を仮に民衆から奪ったとしても、「信じるな」という号令は無意味だ。

だから、だからなのだ。だからお念仏「しか」ないのだ。お念仏は「名号」なのだ。

 

コロナ禍での報恩講。参拝者にはマスクの着用をお願いした。

マスクを着用できない人を寺は追い出すことなどできるのだろうか・・・

生老病死を名号が貫いていくのだ。念仏が病者を除することなどない。

陽性者に病者のレッテルを貼りつけ、罰則まで付加しようとする我ら。

「感染症法」の改正案に関して宗派声明が発表されていたのでお知らせまで。

http://www.higashihonganji.or.jp/news/declaration/41957/

 

さて、報恩講のお浚いをしながら、

鬼は内にいる

福はいつも外にある

と、今月の掲示板に記しました。

毎年恒例、節分、如月の私感です。

いつかは幸せになりたい、と未来の幸福を求める限り、幸せは強迫観念に過ぎない。

誰かのように幸せになりたいというのであれば、幸せは永遠に他者にしかない。

鬼が内にいるというのは、鬼嫁が家にいるのではない。

鬼のような姑がいるのでもない。

マスクをしなければお参りさせないという鬼。

従わなければ罰則を課すという鬼。

鬼に準ずる鬼。

私の中に鬼が巣食うている。

先日、朝ドラ「おちょやん」の”史上最悪の父親”を演じるトータス松本さんが、自分の演じる「テルヲ」という役について、

自分の中にテルヲ的な部分がある

と言っていたのを聞いて、ある講義録の言葉を思い出した。

私たち一人ひとりの中に天皇がいる。

赤坂真理「朝日新聞」2019.10.8

代替わりにおける万歳三唱の一体感。

だけど、天皇や皇族の方々を人間として尊敬しているのかどうか。

主権者である国民が「象徴」を問うことなく、それを天皇に押し付けて万歳万歳と唱えている。

天皇家の苦悩に与することもなく。

鬼が内にいるとはこのことでなかろうか。善鬼神・悪鬼神ともに我らだ。

「きさらぎ」を漢字に変換したら、「鬼」が出る。

如月は「建国」の月という。現天皇の誕生月でもある。

念仏停止の院宣が発せられた月。安楽、住蓮が処刑された月である。

処刑から50年後の2月9日に親鸞聖人が表された和讃をコロナ禍の報恩講で唱和しつつ、

いま、私は一体どのような国と社会を生きているのか。

どのような国を生きたいのか。

歩みがはっきりしないまま問われつづけています。

コメント

ボツじゃなかった

2021年01月27日 | ブログ

毎年末、翌年版の寺報を発行しています。

『朋光』というタイトルを前住職から引き継いで22年。

この「遊煩悩林」というBlogも、もとは『朋光』発刊当初からの住職コラムのタイトルを引き継いでいます。

さて、昨年末に発行した2021年版常照寺年報『朋光』の住職コラム「遊煩悩林」紙面版。

東本願寺青少幼年センターのホームページ「若者向け法話集」に寄稿させていただいたので、若者に限らず検索してみてください

と記載したところ。

探せない

見当たらない

どこにあるの

と。

センターのWeb上にアップされていない段階のフライングで寺報を配布してしまいました。

内心、もしかしてボツになったかとヒヤヒヤしておりました。

今朝、月末の報恩講のご懇志をお持ちになったご門徒が「読ませていただきました」と。

ん?

アップされていましたー!

青少幼年センター 

http://www.higashihonganji.or.jp/oyc/youths/houwa_book.php#houwa10

ということで、是非お読みいただき次月の同朋会でご感想を。

原稿のご依頼をいただいて、同朋会でも話し合いをさせていただいた内容です。

同朋会の皆さまには結果報告を含めて。

提出した拙い原稿を、担当者をはじめセンターの皆さんにフォローしていただきました。

”若者向け”かどうか、内容も不十分なところはご容赦いただいて、ご批判も含めて何か話し合いのタネになればと存じます。

「若者」に眼目を置いて企画されたこのページには現時点で10人のお話がアップされています。

若い人が読むページということではなく、若い世代に何を伝えたいのかという視点でご年配の皆さんにも是非お読みいただければ有り難く存じます。

「若者」は、知らず知らずに年を重ね”イタズラに過ごしている私”も当てはまるか、と。

この企画を立ち上げ、運営に関わられる方々のご苦労を思いつつ。

コメント

何をすればいいのか

2021年01月18日 | ブログ

報恩講に向けてご門徒とおみがき。

ご門徒といっても今年は「密」を回避して世話人のみで、とご案内していたのですが。

「せめてこれくらいは」と、毎年お手伝いくださっている母娘さんらも参加してくださいました。

当初、午後2時から2時間ほどと思っておりましたところ、1時ごろから揃々とご参集いただき、あっという間に報恩講の荘厳が整いました。

あとは住職の心の支度を整えるばかりか。

おみがき後に世話人会で総代が挨拶。

一昨年の出生数が86万人台だったという報道に触れて、自分の生まれた年は200万人を超えていた。

やがて自分たちもこの世からいなくなるが、自分たちのできること、すべきことは何だろうか。

これまで慣例的なおみがき、定例の正月の世話人会でしたが、コロナ禍ということもあってか、おみがきにご参加いただいたご門徒の熱意、そして総代のことばに篤いものを感じました。

もしかするとその篤信はいつものことで、住職が不感症だっただけなのかもしれません。

実は世話人会で、某仏具店の”おみがき不要の仏具のフッ素コーティング”の価格表を提示しようとしておりましたが、やめました。

寒中にもかかわらず、空け放たれた本堂で先達からの仏具をみがき、「自分たちができることはなんだろうか」との思い。

おみがきが仏事として伝統されてきたことの証を見せていただいたような気がします。

さて、コロナ禍の報恩講をいかに勤めるか。

両日の法要式は従来どおり勤めて法話はなしにする。

勤行を短縮して法話を実施する・・・などなど。

ご意見はさまざまですが、例年ご参勤くださる十数ヵ寺のご法中の参勤の依頼を取りやめ、下記の次第で勤修すべく決定しました。

「私たちは何をすればいいのか」を念仏の歴史に尋ねてまいりたいと思います。

 

http://www.jyosyoji.sakura.ne.jp/events.html

 

 

コメント

初詣

2021年01月13日 | ブログ

例年であれば、外宮さんへの初詣の車列で渋滞する常照寺の門前。

三箇日の神宮周辺の人出は7割減だとか。

常照寺の除夜の鐘は50吼ほど・・・。

神宮にお参りする禊ぎとして、煩悩を払う意味での除夜の鐘が機能していたということか。

知らんけど。

正月恒例の首相の神宮参拝も延期され、毎年、交通規制による渋滞下、動かぬ車中から山門脇の掲示板を眺めてくださるような光景も今年は見られませんでした。

 

神も仏もあるものかから本当の宗教がはじまる

遠藤周作

 

残念ながら、目に触れる人の数は例年より少ないですが、今月の掲示板に書き出しました。

お寺に参る人、神宮に詣る人、また地域の方々に向けて、そして自分自身に対して。

 

昨年、コロナ禍にあって様々な聞法会や研修会、学習会が中止になり、しんらん交流館が「いま、あなたに届けたい法話」として、インターネット上に法話を配信しました。

その中に、同朋大学名誉教授の池田勇諦先生の「”我欲手伝う仏”在さず」と題したお話の中で紹介されていたクリスチャンのことばの引用です。

厳密には、『私にとって神は』という書物で、遠藤周作さんが指摘された内容を、池田先生が表現されたものです。

詳しくは下記のページからご覧いただけます。

 

いま、あなたに届けたい法話 https://jodo-shinshu.info/2020/06/08/24190/

 

神仏とどのように向き合っているのか。

この時期、初詣された方にマイクを向けて、「何をお願いされましたか?」というインタビュー。

聞き方っ!!といつも思う。

何かお願いするしかなくなる。

お盆などの報道はもっぱら「先祖の冥福を祈る光景」として描かれる。

こうしたメディアの感覚は知らず知らずの洗脳とさえ思えてきます。

寒中。ほどなく節分ですが、自身「鬼は外、福は内」の精神構造で年中過ごしている。

都合の良いことだけを求めて、そうでないものを排除したい。

それらは宗教的なようで宗教ではないというのでしょう。

占い・呪いの迷信の類と言っては言い過ぎか。

”占いアプリで高額被害”という記事も年明けに見た。

 

我欲を手伝う仏さまは存在しない。

私というのは仏の願いを受けとる器であって、こちらが要求するのではない。

「本当の私となってくださるもの」、それが「まことの仏」である、と。

ほとけさまのほんとうのお姿を教えられることで、鬼と向き合う生き方が開かれてくる。

「本当の宗教がはじまる」というのは、鬼を退治して福を得るのではなく鬼との「対面」であろうか。

ほとけさまが私になってくださることではじめて、私そのものが鬼であった、と。

鬼性の自覚とその克服の歩み。

知らぬ間の洗脳的迷信が破られてようやく、はじめての「初詣」になるのだろう。

コメント

尊敬と関係

2021年01月03日 | ブログ

天上天下唯我独尊

言わずと知れたお釈迦さまの誕生の意義を言い表したことばです。

例年の半分ほどの”煩悩”を除夜の鐘の音に数えながら1日の早朝にブログアップしました。

今年を生きる我自身の讃題として年賀に掲げさせていただきました。

毎年このフォーマットで年賀状を作っているのですが、ご門徒からいただいた今年のお年賀に

「昨年いただいたお年賀を虫眼鏡で読み直しています」

と添書きしてくださった方がおられた。

紙ベースの年賀も読みづらいですが、このブログの画像も読みにくいかと。

讃題の傍に、この言葉をチョイスした自身のモチベーションを記しています。

 

「天の上にも天の下にも、ただ我ひとりとして尊し」

あらゆる時と場所を超えて、誰とも代わることのない独立存在としての我。

(その)我と我の断ち難き縁を、ともに如来の大悲に抱かれて生きる我ら。

我だけでない我らが、互いに尊敬し合う関係において我が尊い。

 

「今だけ金だけ自分だけ」の世において「唯我独尊」の誤用・語弊は数多。

上記も勝手な自釈です。

が、何か私自身、見失っているなと。「我が尊い」とは何をもって尊いのか。

「関係」ということを見失ってきたと。

時下、「本年をもちまして年賀状を最後とさせていただきます」という添え書きもしばしば。

あるいは、訃報なき喪中はがき・・・。

思い知らさせるのは、関係の希薄化、関係の断絶。

”かけがえのないご縁”と言いながら、そのご縁を私自身バッサバッサと切っていると指摘されているようだ。

「コロナ禍、くれぐれもご自愛を」のメッセージもたくさんいただいた。

”自愛”は”唯我独尊”に通じるのかどうか。

どんな”自”であれば愛でることが叶うのか。

どこかのお寺の掲示板に

差別の対義語を尊敬という

とあった。

「尊敬」と「関係」

今年のモチベーション。つまりそれを大事にしてこなかった”これまで”であったということだ。

コメント