遊煩悩林

住職のつぶやき

首が飛ぶ

2013年01月29日 | ブログ

常照寺の報恩講をお勤めさせていただきました。
今年、最も課題となってきたことは「首の飛ぶ念仏」ということでした。
報恩講を終えてヤレヤレといった感覚が否めない私に、「やれやれ」のお念仏とは何事か!と問われてきます。
今から約800年前の承元元年(1206)、当時の国家権力による宗教弾圧によって親鸞聖人は越後に流罪に遭われます。
特権階級の学問であった仏教が、お念仏というスタイルで民衆に信仰としてひろまった時代。権力にとって不都合となった念仏は禁止されました。
師である法然上人は土佐へ、また浄聞房は備後、澄西善光房は伯耆、好覚房は伊豆、行空法本坊は佐渡にそれぞれ流罪。
それだけではなく、安楽房遵西・住蓮房・性願房・善釋房西意の4人は死罪。
住蓮は近江の馬淵で、安楽房は羅切されて京都六条河原で斬首されたといいます。
「首の飛ぶ念仏」という由縁です。
安楽房の辞世の詠が伝えられています。

今はただ 云う言の葉も なかりけり 南無阿弥陀仏の み名のほかには

念仏停止によって処刑されるにもかかわらず、南無阿弥陀仏の他に申す言葉がないと、念仏しながら処刑されていったといわれる安楽房。それは決して権力に屈した諦めの詠ではないのでしょう。念仏がなければ生きることも死ぬこともままならない、その信仰の告白ではないでしょうか。
処刑されたのは承元元年2月9日、祥月である2月の常照寺の掲示板にこの詠を記して思いを馳せたいと思います。

お念仏を唱えると打ち首になる。お念仏というのは命懸けなのでした。
800年の歴史を超えて今、ここに、この私のところにまで命懸けで伝統されてきた念仏であるにもかかわらず、報恩講がすんで「やれやれ」とはどういうことなのか。

「念仏は自己を発見することである(金子大榮)」といわれます。
その自己を問うお念仏の眼は同時に、浄土という世界によって国家を相対化する視線です。
国家を問うべき浄土の目線を失い、安穏の如く日常を垂れ流している私に「安穏なれ」と800年の歴史が喚びかけます。
自己を見失い、国を問うこともままならない私に対して、「安穏なれ」とは、安穏ではないぞ、安穏としておる場合ではないぞという喚び声ではないでしょうか。
何も国家に楯突こうというのではありません。お念仏によってこの私が今どんな国家に生きているのかということを鋭く見ていきたいのです。
都合の悪いものを常に斬っていく国家。これは800年前だけのことではありません。お念仏の底流に流れているこの目線を、来年の報恩講まで持ち続けて過ごしたいと思います。

承元の法難といわれる念仏弾圧の背景に出家した松虫・鈴虫の悲話がありますが、両姫の

哀れ憂き この世の中のすたり身と 知りつつ捨つる 人ぞつれなき

という詠に、世の憂いの中から浄土を願う心が生まれてくることを知らされます。

そして住蓮辞世の詠は

極楽に 生まれむことの うれしさに 身をば佛に まかすなりけり

と伝えられています。

住連山安楽寺 http://anrakuji-kyoto.com/about
承元の法難 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%85%83%E3%81%AE%E6%B3%95%E9%9B%A3

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万難を排す

2013年01月21日 | ブログ

2013
来週末の報恩講に向けて仏具のおみがきをしました。

昨年の10月からほぼ毎週末、ご縁のあるお寺の報恩講にお参りさせていただいて、いよいよ自坊の報恩講。
おみがきのこの日も、組内のお寺の報恩講に参勤させていただいていましたので、自坊のおみがきはご門徒の皆さまに任せっきり。それでも帰ってきたら、仏具ピカピカだけでなく、お内陣のお荘厳もしっかり整えてくださっておりました。
「住職元気で留守がいい」そんなことを、お荘厳された本堂のお内陣を見て勝手なことを思いました。やはり世代交代がすすむにつれて、おみがきや仏前のお飾りが伝統されにくくなっていることを思うとき、なるほど住職や坊守をはじめ知っている人が全部やってしまうと、大事な伝統が限定した人にしか伝わらないよな、てな言い訳です。知っている人の仕事は、知らない人に伝えることなのでしょう。
ご参加くださった皆さまにお礼を申し上げます。

報恩講は、恩に報いる集いです。その伝統をまさに伝統させるにはやはり「限定解除」。あらゆる方々に知ってもらうことからしかはじまらないのでしょう。「お知らせ」の重要性です。ですが、やはりお知らせするには、お知らせする本人がまずはっきりとその内容を知っておかなくてはなりません。
今年も「報恩講」のお知らせを申し上げますが、おみがきやお飾りをご門徒に任せっぱなしの私が、報恩講はいったい誰のどんなご恩にどのような姿で迎える講座なのかを知っておかなければなりません。
ともに学ばせていただき、伝統をとどめることなく伝統してまいりたく、常照寺の報恩講を厳修したく存じます。ご門徒各位には、寒中ではございますが、万難を排してお参りいただきたくご案内申し上げます。

「万難を排して」と簡単に言うのですが、報恩講に遇うということは、やはりどんな場合でも、何らかの都合を排してでないと出遇うことはできないのでしょう。
「都合がつけば行く」とか「暇ができれば行く」とか「もうちょっと齢をとったら行く」では、報恩講にはいつまでも遇えません。
毎日のお内仏(お仏壇)へのお参りでも同じです。暇だから参るのでも、都合がついたから手を合わせるのでも、齢をとったからでもないはずです。どれだけ切羽詰まっても「やらんならんこと」が、人と生まれた以上あるのでしょう。
仏さまの教えに遇うということは、道理を知るということです。道理を知れば「やらんならんこと」と思っていたことが、「せずにはすまされんこと」に転換されてくるとも思います。
せずにすまされんことができなくなってきた時代。せずにはすまされんことを、せずにすましている私であることに気づかされることが、恩に報いる第1歩です。せずにすましてきたことに気づかされて、申し訳ないことだったと手が合わさればしめたものです。そこから、申しわけのない私をそのままお救いくださる仏さまと、その教えに出遇うことがはじまっていくのでしょう。
「万難を排して」というのは、暇はつくらないとできないぞ!都合はつけないと勝手にはつかないぞ!と、報恩講に出遇い、道理を知り、この私にまで報恩講を伝統してこられた数々の方からの喚び声ではないでしょうか。
寺に参る方に決して暇な人はいません。限りある人生の時間のなかで、参らんことには、どんな暇を生きていても、どんなに忙しくしていても虚しい。お寺に参り、何のために生まれ、何のために生き、死んでいかなければならないのか、そんな人と生まれた意義を見つめる眼をもつことで、寿命が長さだけではなく、幅と深さをもっていることに気づかされ、暇でも忙しくても決して虚しくない瞬間を生きることになるのではないでしょうか。何をしていても虚しくない、意味のあることでも無意味なことでも・・・それが生きることの喜びに繋がっているのだと思います。

常照寺ホームページ http://www17.ocn.ne.jp/~jyosyoji/events.html

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西方十万億土は此処に

2013年01月09日 | ブログ

Hp2013

生きるということ
それはつねに誕生の意義を
問われ続けることである
廣瀬 杲

新しい年の掲示板に記しました。
ミソは、誕生の意味を「問う」のでなくて、「問われる」ということです。
「問われる」には、それを問う存在に出遇うということが大前提です。
「問われ続ける」ということはまた、その存在やはたらきに出遇い続けるということです。
私が「私」の誕生の意義を問うというカタチではなく、私に「あなた」といって呼びかけてくださるはたらきに出遇うというカタチをとるわけです。
「あなたはこの世に何のために生まれてきたのですか」
「あなた」といって常に呼びかけておられるはたらきをホトケサマというのでしょう。
この問いに出遇ったときホトケサマはすぐそこにおられます。
経によれば、極楽浄土の阿弥陀仏は「西方十万億の仏土を過ぎたところ」においでになるといいます。
しかし「西方十万億の仏土を過ぎたところ」とは、じつは思いどおりにならない現実の中で、どうして私はこの思いどおりにならない現実を生きなければならないのか、という問いとなって表れ出てくださったその背景に「あなたは何のためにこの世に生まれてきたのですか」という問いとして存在してくださっているところをいうのでしょう。
つまり、自分が何をしにこの世にやってきたのかといったことも考えることもなく、煩悩に振り回されながら、そのことすら気づくことなくただただ垂れ流されるように生きているうちは遥か彼方の西方十万億土が、誕生の問いが発露する瞬間、じつはそれがすぐそばであったことに気づかされ、「あなたはこの世であなたに出遇い、そして私に出遇うために生まれてきたのだよ」と誕生の意義に出遇い続けることがかなうのではないでしょうか。
この問いが発露するのは、それなりに「思いどおりにいっているつもり」でいる間ではなく、苦しみや悲しみの中で、世を憂い、厭うことで相対的に願い出てくるとするならば、「家内安全」「商売繁盛」「鬼は外 福は内」の根性を捨てきれず、阿弥陀さまを遠ざけているこのじぶんを知らされれます。
仏説観無量寿経の「阿弥陀仏 去此不遠」との仏言を、今年のご門徒宛のお年賀に記し、ホームページの窓口に挙げました。
「汝」と呼びかけてくださるはたらきを身近に感じとれるよう、「鬼も内 福も内」といきたいところですが、なかなかそんなわけにはいきません。ただし、そうやってホトケサマに背を向けている私の背後から、常に「汝」と呼びかけ続けてくださることを時々?思い出したとき、仏前に向き合って手が合わさるよう育てられ続けたいと思います。

http://jyosyoji.info/

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煩悩が足りない!

2013年01月07日 | ブログ

年末。まさに諸行無常の除夜の鐘を撞こうとしていた時、1件の電話がありました。
伊勢の初詣に向かわれる電車内で急逝したという方の葬儀のご依頼でした。
伊勢の火葬場は元日だけがお休みなので、正月2日に葬儀をしたいとのこと。
お電話いただいたのは伊勢で葬儀社を営むご門徒さまでしたが、その葬儀社さんもインターネットでお葬式を売る業者からの依託業務ということで、御布施の方がどうなることやら・・・ということでしたが、インターネットの葬儀屋に登録してるわけじゃないので、ご門徒からの依頼としてお引き受けをしました。
いまやネット上でパッケージ化された商品としてのお葬式。
「商品」を購入する「消費者」にとって魅力的なのは金額が設定されていることでしょう。
金額が設定されているのは結構なことですが、たとえば今回のように静岡の人が伊勢で火葬する場合、地元住民とは火葬料金が大きく異なってきます。「追加料金をいただきません」が売りの「商品」ですから、その差額は請け負った業者が被るのか、それとも僧侶の布施に被せるのか・・・。いずれにしても売る方の利益は保障され、消費者も定額料金で安心なのかもしれませんが、請け負う方はリスクを伴うのでしょう。
請け負わなければいい、という問題ではありません。近年では喪主の宗旨を無視する業者も少なくないといわれる中、「お東さんで・・・」というご家族の意志と、それを尊重される田舎の葬儀屋さんも尊いことです。
今回のように静岡の方が旅先の伊勢で急逝し、名古屋の家族が喪主になって大阪のインターネット葬儀社が伊勢での葬儀を取り仕切る・・・。
私にとってもイレギュラーなケースですが、一人の消費者となれば同じ選択をせざるを得ないのかもしれません。
葬儀を済ませ、それなりに納得されたように遺族の方々は遺骨を持ってお帰りになられました。「それなりに」というのは、何というか「サービスの内容」に対してという感覚です。サービスの業務内容の「読経」、パッケージングされた商品としての「経」。
僧侶のコンプライアンスとでも言うのでしょうか。アイデンティティというのでしょうか。僧侶として守らなければならない事柄。何をもって僧侶というのか考えさせられました。なるほどそれを「戒」と「律」というのかなんて思い至りますが、そういえば自分こそ破戒の坊主でありました。
お布施は、ネット上で謳われている以上の金額が包まれてましたので、いわゆる「追加料金」が発生したことになります。火葬代の差額についても、おそらくご理解をいただいたのでしょう。
葬儀社のホームページによると、御布施は全国統一のコミコミ(戒名・車料・膳料・心付)価格で◯万◯千円と明記されていますが、内訳として御布施金額◯万円+手配料◯万◯千円となっています。この「手配料」って・・・?もしかして紹介料的なもので葬儀屋さんにバックせぇーよ!ということ・・・なのか?と、業界の常識もよく分からぬ住職は思いがけずこの業者のフリーダイヤルに問い合わせようかと思ったのでした。
もし、ネットに明記された金額を「きっちり」受けとっていたとすれば、「経」を商品化し、読経サービスを営んでいるような自己猜疑心?罪悪感はますます強くなったような気がします。明記されようが、本人の気持であろうが布施は布施。それについて多いとか少ないとか、アレコレ思惑を挟み込むこと自体が罪ですが、ついつい常に自己を正当化して、自分の常識の中で生きていると、イレギュラーな出来事を「あるまじき」こととして評価してしまう自分に気づかされました。つまり、俺はお経を商品だとは思っていないぞ、読経はサービスでやってんじゃねーぞという「つもり」で真面目ぶり、自己を正当化したいだけなのかもしれません。その意味では、坊主が罪悪感を覚えようが猜疑心に苛まれようが勝手なことです。大切なことはどういうケースであれ、亡き方をお浄土にお還りになった諸仏として確かめ手を合わせることだけです。

さてさて、大晦日。そんな対応に追われている間に、あるまじきことかどうか判りませんが、除夜の鐘は今年82吼で撞き止まってしまいました。
煩悩が108に集約されるならば、煩悩の数が足りないことになります。

煩悩の氷解けて 功徳の水となる

のですから、煩悩が足りないとすれば致命的です。
しかし心配はないのでしょう。来られなかった方に後日「身体でも悪かったの?」と聞くと、「寝てた」とか「飲み過ぎた」とか「寒くて出られなかった」とか・・・。煩悩だけは満ち足りています。ただ私自身のこととしていえば、煩悩の自覚が足らないのでしょう。煩悩を自覚せしめるのが仏教だとすれば、どうも自覚が足らないというのは、その学びが足りないということです。
足りない分の煩悩を取り戻すべく今年も煩悩にまみれて、ともに学んでまいりたいと思います。
何とぞ遊煩悩林を今年もよろしくお願いします。

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